2017年4月記録

 

430日 説教―             牧師 松村 誠一

              「復活のイエス様」

 パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ220)と語っております。

 「生きているのはもはや、わたしではありません」。当たり前でありますが、パウロは死んで、今は幽霊のような存在として生きているのだ、というようなことを言っているのではありません。イエス様を信じていない時のパウロ、すなわち古き自己は死に、今や新しい自己に生かされているということです。そして新しき自己とは、キリストがわたしの内に生きておられ、そのことにより新しい自己が形成されているのだと告白しているのです。

 パウロの古き自己は、どういう自己でしたでしょうか。パウロは律法を守ることによって神から義とされることを望み、律法を熱心に守っていました。そしてパウロは律法を守ることの出来ない人々を神になり代わり裁いていました。そのパウロは死んだというのです。そしてそれはただ偶然に死んだのではなくキリストとの出会いによるものです。パウロはキリストの出会いにより律法によっては救いに与ることはできない。キリストを救い主と信じる信仰によるものであることが示されたのです。それからパウロはキリストの使徒となって福音を伝えることに命を懸けるのです。この変わりようは復活のイエス様との出会いによるものです。キリストが私の内に生きておられる。イエス様の語られた言葉や振る舞いによって突き動かされて生きているパウロ自身が、この言葉を語っているのです。パウロが新な命に生かされ、全く想像もすることの出来なかった歩みへと導かれていく、それは復活のイエス様によるものです。

 私は人一倍肉の弱さをもっている者です。そのような者ですがいつも自分の中で、古き自己と新しき自己との戦いが繰り広げられております。そして新しき自己が古き自己に勝利していくことを少しずつ経験しながら過ごしております。古き自己はいつも出てきます。しかし、そのどうしようもない古き自己が新しき自己によって覆い隠されていく、それが信仰を持って歩むことだと思うのです。そしてその新しき自己とはイエス様のまなざしによって、イエス様の語られた言葉や、振る舞いによって形成されていっているのだと思います。

 イエス様が十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して死んでいった。神はそのイエス様をお見捨てにならず、復活の命を与えられたのです。そして今も霊なるお方として私たちの内に働きかけて下さっているのです。古き自己に生きるのではなく、新しい自己に生きるようにと、イエス様が信じる者の内に働いて下さっておられるのです。そのような者を神はお見捨てにならず、復活の命を与えてくださるのです。

           (ガラテヤの信徒への手紙220節)

 

 

423日―                 牧師 松村 誠一

            「御言葉を宣べ伝えなさい」

この手紙は紀元一世紀頃、パウロの弟子の一人が、パウロの名前を借りて記した手紙だとされています。教会はこの時代大きな問題を抱えていました。一つはグノーシス主義がキリスト教の信仰を変質してしまう力となって教会に入り込んで来ております。もう一つはローマ帝国によるキリスト教徒迫害です。テモテが牧会している教会にもグノーシス主義の立場に立つ人物が教会にやって来て、苦難の只中で必死に信仰に生きているキリスト者に、耳触りのいい話をして、キリスト教信仰から離れさせようとしていたのです。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと,好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け,作り話の方にそれて行くようになります。」との言葉は、いつの時代においても起こり得ることなのです。しかし著者は、「あなたはどんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」と励ましの言葉を語りかけております。福音を伝えていくには、状況を冷静に判断すると共に自分自身の信仰の在り方を冷静に見ていく必要があります。42節には「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と勧めの言葉が語られています。状況がどんな状況でも、どんな場合でも福音を語ることが勧められています。

さて、今日の日本の教会ですが、教派を問わず、どこの教会も子どもたち、若者が減少しています。これは日本の「宗教意識調査」のデータからも読み取ることが出来ます。日本人の若者の80%が宗教に関心がない、必要がないと考えているわけですから、どこの教会でも若者がいない、少ないというのはうなずける話です。多くの人々が世俗の波に流され、欲望の赴くままに日々過ごしているのではないでしょうか。これからの教会はどうなってしまうのでしょうか。

テモテの時代においても宗教など信じないという人が多くなり、キリスト者も耳触りのいい話し、あるいは作り話の方に興味を持ち、教会から離れてしまう人が多くいたのでしょう。福音を語って、いったい何になるのか。何にもならないではないか、福音を語ることなど無駄だ、という声が聴かれていた時代、手紙の著者は、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」と語りかけています。私たちも、この言葉を聞いていかなければならないのではないでしょうか。このような時代だからこそ福音は語らなくてはならないのです。それも福音を割り引いて語るのではなく、人間の罪を顕わにする福音を割り引くことなく。「咎め、戒め、」とはそうゆうことでしょう。

新年度がスタートしました。この年も私たち一人一人が喜びをもって御言葉を宣べ伝えていこうではありませんか。折りがよくても悪くても、つべこべ言わず、でもでも、と言わず、神の恵みに押し出され御言葉を宣べ伝えていこうではありあせんか。

          (テモテへの手紙二 415節)

 

 

 

416日― イースター礼拝   

「復活のイエスと出会う」 (青野先生の説教を聞いて)

青野太潮先生がイースター礼拝でマルコによる福音書16章1~8節の聖書箇所から「復活のイエスと出会う」と題してお話してくださいました。青野先生はご承知の通り日本の新約聖書学のリーダー(日本新約学会会長)として活躍されている先生です。その先生の説教は新約聖書学の講義のようでもあり聞く者に大きなインパクトを与える内容でした。

まず先生はマルコによる福音書について語ってくださいました。年代はほぼ紀元70年頃、マルコによって記されたもので、このマルコは“伝記”ではなく、“福音書”という文学類型を世に初めて著した偉大な人物であると。この福音書は168節で唐突に終わっており、そのあとのカッコでくくられて記述は後代の加筆である。また6節の「十字架に付けられたナザレのイエスを」と訳されているが、これは正しい訳ではない、正しくは「十字架につけられたままのナザレのイエスを」と訳すべきであるとお話しくださいました。そしてマルコは他の福音書のように復活のイエスについては何も触れずに、白い衣を着た若者の言葉「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(1678)と唐突に終わっていることも見逃してはならいのだ、とお話くださいました。

青野先生は、著者マルコは、どうしてこのように仕方で福音書を閉じているのでしょうかと問われました。先生は「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。ここに“復活のイエスに出会う”鍵がある。復活のイエス様にお目にかかれるガリラヤとはどこか。マルコによる福音書はガリラヤにおけるイエス様のお姿、振る舞い、お言葉を書き記している。著者マルコはこの福音書を読む者にもう一度読み直してくれないか、と問われているのだと思う。そしてもう一度読んでみると実際にイエス様のお姿、像が浮かび上がってくる。そして地上のイエス様と出会っていくことになる。この地上のイエス様との出会いにより、神は私たちの心の中に復活のイエス様を描き出してくださり、心のうちに燃えるような思いを与えてくださる。これがまさに復活のイエス様との出会いなのである。

パウロがガラテヤの信徒への手紙で“御子を私のうちに啓示してくださった”と語っているが、パウロもまさにその仕方で”復活のイエス様と出会っている、と語って下さいました。青野先生は「十字架に付けられたままのイエス」についても詳しくお話くださいました。その内容をここに記すことはできませんが、青野先生がお書きになった「使徒パウロ」「見よ、十字架のイエス」「『十字架の神学』をめぐって」を是非お読みいただきたいと思います。そして青野先生が常日頃言っておられるイエス様が示された「弱さこそ強さ」という逆説的に生きる生き方を求めていきたいと思わされました。                                  (記:松村 誠一)

 

 

49日―墓前礼拝説教        牧師 松村 誠一

             「主の業に励みなさい」

 コリントの教会にはグノーシス主義の影響を受けて、人間の復活を否定していた人もいたのでしょう。パウロはそのようなコリントの教会員に死者の復活について語り伝えています。キリストが死者の中から復活したではないか。キリストは死から復活したのだから、キリストに属する我々も復活の命が与えられるのだと語り伝えております。そして今朝の聖書の箇所でありますが、「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(155052)と。

血と肉とは、私たち生きている人間のことでしょう。人間は死んでしまえばお終いの存在ではなく、死は命にのみ込まれ、そして神が備えて下さる朽ちない命を頂き、神の国を受け継ぐ者とされるのだということを訴えています。これは人間の理性、人間の知識、知恵で理解出来るものではありません。ですからパウロは「神秘を告げます」と語っているのです。人間の理性、知恵、知識を超えた事柄であるが故に、パウロは象徴的な言葉をもってこの真実を語り伝えようとしています。「最後のラッパが鳴ると、」とは象徴的な表現でしょう。神の存在を表しているのでしょう。

さて私たちはパウロが語る神秘をどのように受けとめればいいのでしょうか。あそうですか、と鵜呑みすればいいのでしょうか。理性を犠牲にすればいいのでしょうか。パウロの語るこの神秘を受け取るには一つの方法が記されています。それは58節です。「わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と。パウロの語る神秘を理解するためには、主の業に励むことです。

「一杯の水~日隈愛子の足跡~」から「いと小さき者へのかかわり」、これは日隈先生が愛子姉を想起してお書きになった文章ですが、身を粉にして、困っている人に仕え、いと小さき者に仕え、しかも右手ですることを左に手に知らせてはならない、の教えを守り通しての生涯だったことを書き記しておられます。愛子姉はパウロが言っている主の業に励んでの生涯でした。なぜ、自分の身を粉にしてまで、他者に奉仕しされたのでしょうか。それは死すべき体に復活の命が与えられていることを、主の業を通して良く知っていたからでしょう。この墓誌にお名前が記されている兄弟姉妹も愛子姉同様に主の業に励んで生涯を送られた主のみもとに召されました。しかし今は復活して朽ちない者とされているのです。私たちも復活の命へと招かれていることを深く知るために主の業に励んでまいりましょう。

      (コリントの信徒への手紙一 155058節)

 

 

 

42日 説教 ―        牧師 松村 誠一

      「高価なナルドの香油」

イエス様はベタニアで重い皮膚病の人、シモンの家で食事の席に着いておられました。イエス様は御自分の命が危険にさらされているという時に重い皮膚病のシモンを訪問し、食事を共にしております。聖書を読む私たちはイエス様がこの時に及んでも、人々から重い皮膚病のゆえに忌み嫌われていたシモンと共にいらしたということを見過ごしてはならないと思います。イエス様は御自分のご生涯をかけて、悲しんでいる人、忌み嫌われている人、貧しさに打ちひしがれてる人の隣人となられたということをマルコは伝えているのです。

イエス様はシモンと一緒に食事をしようとしていたその時に、一人の女が入って来て、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもって来て、その壺を割って香油をイエス様の頭に注いでおります。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って彼女を厳しくとがめております。女はイエス様の頭に香油を注ぎかけたのですが、この香油の注ぎかけは王の即位の時に油注がれた者として祝う行事として行われていました。また死者の放つ臭気を消すためにも使われていたようです。女はイエス様こそが油注がれた者、メシアであることをこの行為を通して示し、また間もなくイエス様は殺害されるその時のことを思い、香油を降り注ぎ、葬りの準備をしたのであるということをマルコは私たちに知らせているのです。

そしてもう一つ大切なことを読者に知らせております。それは、そこにいた人の何人かが、高価な香油をイエス様に降り注いだ行為に、なぜこんなもったいないことをするのだ、とがめたことに対するイエス様のその応対です。主イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました。彼らは「貧しい人々に施すことができたのに」と言っておりますが、それは彼女を困らせるための口実に過ぎなったのではないでしょうか。イエス様は、彼らの批判に対して、この女の行為は正しいとおっしゃったのではありませんでした。そうではなくて「なぜこの人を困らせるのか」とおっしゃったのです。

この人のしていることも、あなた方が指摘しているように、貧しい人に施すことも出来るでしょう、それもいい。しかしこの女を困らせないで欲しい、この人が心を込めて精一杯している奉仕を受け入れて欲しい、そしてそれを共に喜んで欲しい、これがイエス様の思いなのではないでしょうか。

著者マルコはこの高価なナルドの香油を注いだ女をイエス様がねぎらったことを記すことにより、マルコは読者にイエス様こそ、ナルド以上に高価な捧げものとして神の御前にささげられた捧げものであることを訴えているのではないでしょうか。ナルド以上の、いや比べようもない高価なイエス様が私たちの命のために捧げられたことを聖書は語り伝えているのです。死から命へと導いて下さるイエス様に、あのナルドの香油を注いだ女のように、私たち出来る限りをもってイエス様に感謝し、仕えてゆきたいと思います。

     (マルコによる福音書1439節)