記録

 

424日 説教―     牧師 松村 誠一

          「偶像に供えられた肉」

当時のコリントの町は、他のギリシャの町と同じようにギリシャの宗教の強い影響を受けておりました。ギリシャの宗教はご承知の通りゼウスの神、アポロの神など、多くの神々が拝まれていました。そして町には神殿が建てられ、市民はその神殿に参拝し、家畜などをいけにえとして捧げていました。

そのいけにえは、その一部を切り取って祭壇で焼き、神に捧げられていましたが、残りの肉は神殿内で料理され、参拝者と共にその肉を食べるという習慣がありました。その肉を食べることにより、神々と交わることが出来ると考えられていたからでしょう。また捧げられた肉は、神殿内だけでは処理することが出来なかったため、市場に払い下げられ、一般市民に売られていました。一般市民はこの肉を“神殿に捧げられた肉”として購入し、家庭でもよく食べていたようです。コリントの教会はこのような異教の地に立てられておりました。そして多くの教会員はこの異教の神々を信じ、神と交わりを求めて神殿に供えられた肉を食べていた人々でした。彼らはそこからイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、教会生活を送っていました。彼らにとって神殿に捧げられた肉を食べる、ということはまた元の神との関係を持つことになるという思いから、その肉を食べることはしてはならぬことだと思っておりました。

ところがコリント教会には彼らとは全く考えを異にしていた教会員もいたのです。その人々は偶像に供えられた肉を食べても構わないという考えの持ち主でした。彼らは、そもそも偶像なる神などはいないのだから、偶像に捧げられた肉を食べても、それは偶像を礼拝することにはならないのだと主張していたのです。彼らはその主張が正しいかをパウロに尋ねております。パウロは肉を食べても構わないという彼らの考えに基本的に賛成をしております。確かに知識としては正しいとパウロは言うのであります。彼らはイエス・キリストを信じる信仰によって律法から解放され、自由にされていることも正しく理解しておりました。イエス・キリストを信じる信仰により、全てのことが許されている、という事も理解しておりました。

しかしパウロはあなたがたの自由と知識は本当に兄弟姉妹のためになっているのかと問うています。あなたたちは正しい知識をもってことは認めるが、しかし、信仰の弱いキリスト者が偶像に供えられた肉を食べているあなたたちを見て、躓いてしまうのであれば、それは控えるべきである、とパウロは言うのです。

そして今朝の聖書のキーワードである言葉が1節に記されています。“知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる”。つまりどんなに正しい知識をもっていても、そのことが正しいということだけで、その知識を他人に押し付け、他人をつまずかせることがあってはならない、と言うのです。正しい知識をもっていることは素晴らしいことですが、愛のない人間の知識は他者の人格を傷つけ、他者の人間性を著しく傷つけることになるということを私たちも共に確認したいと思います。

       (コリントの信徒への手紙一8113)

 

 

417日 説教 ―         村中 範光 先生

            「裏切りとゆるし」

キリスト教徒にとって聖書の教えは毎日の生活の基本です。ただ聖書にはたくさんの事柄が書かれていてテーマが見通せない事も確かです。うんと大きく分けると「神」と「人」の二つがテーマとなっています。「神」についてはそれぞれの時そしてそれぞれの人達との出会いを通して神の「永遠性、無限性、創造性、そして神の特性、作られたもの(被造物)への限りない御慈愛、人間にどんなに裏切られても示し続けられる赦しとやさしさが描かれています。

もう一つのテーマは神が作られた私達人間についてです。神とは対照的に、弱さ、限界、何度も神に背く姿が数限りなく描かれています。その人間の弱さの一つの典型が裏切り行為です。普段は裏切ることなど考えていなくても、社会的状況や自分を取り巻く人間関係に左右されてしまい裏切ってしまうのが人間です。福音書に出てくる12弟子の中心的なペテロすらイエス様を裏切ってしまったのです。

人にはいくつかの顔があります。ペテロは模範的信仰者としての面が描かれています。イエス様に最初に声をかけてもらい家族を仕事を捨て、3年間イエス様と行動を共にしました。湖の上をイエス様の言葉に従って歩む勇気を持ち、イエス様を「メシア(キリスト)」と最初に信仰告白し、山の上でイエス様が変容する場面にも、ゲッセマネの祈りの場面にも登場します。

そのペテロの別の面、弱さが際立って描かれているのがイエス様を知らないと3回否定する場面です。状況はイエス様を何としてでも死刑にしようと指導者たちのその仲間が走り回っていて、裁判がおこなわれ、死刑判決が下りようとしています。イエス様ご自身は自分の力を自分の救いの為に用いようとはせず、また父なる神に助けを求めるわけでもありません。ペテロの心に葛藤が芽生えました。これまで従ってきたイエス様への信頼に対する疑問、自分もとらわれて死刑になるかもしれない不安、その中で様子を見ようとしたペテロに人々はイエス様の仲間かと問いただします。彼は3度もイエス様を知らないと断言するのです。見事にイエス様を裏切ってしまったのです。ペテロはイエス様の裏切り行為の予言を思い出し激しく泣きました。

神の側からは私達人間を決して裏切ったりお見捨てにはなりません。イスラエルの歴史の中で甚だしく神を裏切り続けたにも関わらず神はイスラエルをお見捨てにならず復興してくださいました。ペテロの裏切り行為、実は弟子たち全員がイエス様を裏切って隠れていたのです。しかしイエス様は弟子たちをお責めになりませんでした。復活されたイエス様はまず弟子たちに姿をお見せになりました。そして一緒に食事をされ、再び教えを語られました。裏切者に赦し、救いの手が差し伸べられたのです。このイエス様が私達の主、救い主でいらっしゃるのです。

私達もペテロ同様、状況、周りの人の影響でイエス様の教えに従えずに裏切ってしまいます。その様な弱さを持ちながら、裏切り続ける私達を、でも主は決して非難されることなく、限りない御慈愛をもって私達を見守り、一緒にいて下さることに心から感謝いたします。

           (ルカによる福音書 225462)

 

 

 

410日 説教―          牧師 松村 誠一

              「福音は良き訪れ」

 当時、バプテスマのヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食を大変重要な宗教行為として守っておりました。本来断食とは、自分の欲望を強制的に抑え、自らの霊性を高める行為です。しかし彼らは断食の本来の目的を忘れてしまい、断食をするという行為そのものに目的を見出し、断食をしているから信仰深い人間であるという理解で断食を行っていたのです。それどころか、他人に断食を強要し、人を裁く基準にしてしまったのです。ですから彼らは、イエス様の弟子たちが断食をしていないことに腹を立てて「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。」と質問をしております。イエス様はその質問に対して、3つのたとえ話でもって答えておられます。

第一は婚礼の客のたとえ話です。当時のユダヤにおいて婚礼は通常7日間にわたって行われていました。この婚礼に招かれた客は、この期間は断食からも解放され、花婿と共に飲んで食べて、大いに楽しみながらその時を過ごすのがしきたりでした。イエス様がここで言わんとしていることは、神に良しとされる生き方とは断食をする、という行為によるものではない。花婿、これはイエス様ご自身のことですが、イエス様と共に生きることによって救いの出来事が起こされ、神に良しとされる生き方となるのだ、ということが語られているのです。そして花婿が奪い取られる時が来る、とはイエス様の十字架の死の出来事であります。この時はイエス様の弟子たちは、断食をするだろうということであります。

第二のたとえ話は破れた服を継ぎあてする話です。織りたての布切れは強く、伸縮もありますので、古い服に継ぎ当てしますと、服そのものを引き裂いてしまいます。この譬は、今までの信仰をところどころ繕っても、繕うことによって返って悪くなってしまう。イエス様と交わることによって救いへと導かれた者は、全く新しくされるのだということであります。

そして第三のたとえも第二と同様にイエス様によって真の神を知った者は、古い形に留まる必要なないのだ、いや留まることは新しいものまでもダメにしてしまうことになるのだということでしょう。

 マルコが福音書とて書かれた年代は紀元70年代と言われております。イエス様の死後40年が経とうしている時代であります。この40年の間に、イエス様の愛に満ちた、無条件の赦しの宣教、福音が後退し、徐々に律法主義がキリスト教会内に入ってきた時代です。そのような時に著者のマルコはイエス様が話された語録集の中から、この箇所を取り上げ、福音が律法に取って変わることがないようにと、当時の信仰者に注意を促しているのです。

私たちは神から愛されている者であり、イエス様によって無条件に罪赦されている者なのであります。イエス様を救い主として信じていく時に、私たちは救われた者として、実に自由に、平安に、希望の内に人生を送ることが許されているのであります。福音はまさに良き訪れなのです。福音が律法にとって変わることの無いように福音に促されて喜びをもって信仰生活を共にしてゆきましょう。

          (マルコによる福音書21822)

 

 

 

43日 説教 ―       牧師 松村 誠一

      「キリストに仕える者」

 コリントの教会はパウロの伝道活動によって設立された教会ですが、パウロがこの教会を去ったあと、アポロも、ケファもコリントの教会に来たのでしょう。名前は具体的にあげらえておりませんが、まだ何人かの巡回伝道者がこのコリント教会を巡回してきたのだと思います。教会はその巡回伝道者ごとに分派が出来、争い事が起こっておりました。そういうコリント教会に対して、パウロは分派、分裂を戒め、そして教会の指導者とは何者かを3章で語ってきました。

 今朝の聖書箇所でもパウロは4章の1節で、「こういうわけですから、」と今まで述べて来たことを振り返りながら、パウロはさらに「神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。」と巡回伝道者が何者なのかを明らかにしております。“神の秘められた計画”とは、何でしょうか。それは一言で言うならイエス・キリストによる救いでしょう。神はイエス・キリストにおいてご自身をあらわし、そして罪ある人間を愛し、罪を赦し、そして永遠の命へと招いて下さっている救いの計画です。巡回伝道者はその神の計画の管理者なのだ、というのです。神の秘められた計画はイエス・キリストによって明らかにされたのでありますから、明らかにされた事柄を語っていくことが、その務めなのです。そして管理者に要求されることは忠実であると、パウロは語っております。能力とか、スピードなどは要求されておりません。

 さて、今日において、キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた者とは誰なのでしょうか。それは神の秘められた計画を知り、受け入れ、それに生かされている人々です。勿論牧師、伝道師、宣教師だけではありません。イエス・キリストによって罪赦され、救われ、永遠の命へと招かれているキリスト者すべてです。私たち一人一人です。その私たちに要求されていることは、忠実に福音を語り、神の救いの計画を明らかにしていくことです。イエス様を信じる私たちは、全てキリストに仕える者であり、神の秘められた計画を委ねられた管理者なのであります。ですから私たちは、福音を語り、神の救いの計画を公にしていかなければならないのです。説教だけが福音を語ることではありません。福音は賛美を通して語られるでしょう。教会学校の学びを通して語られるでしょう。キリスト者としての生き様を通して語られるでしょう。

 今日から新年度の歩みがスタートしました。私たちは新しい年度、キリストに仕える者として神の秘められた計画を明らかにして共に歩んでいきたいと思います。そこに求められているのは能力ではありません。スピードでもありません。どのような方法も問われておりません。問われているのはその働きにどれだけ忠実であるかです。私たちが神に対して、イエス様に対して忠実であり続ける時に、教会はここに立てられていくのです。この年度、イエス・キリストの体なる教会を共に立てあげて参りましょう。          (コリントの信徒への手紙一415節)