2015年説教記録

―4月26日説教―                       牧師 松村誠一

        「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」

ローマの信徒への手紙12章からは福音よって救われた者は、どのように生きるべきなのか、つまりキリスト者の日々の生活について非常に丁寧に記されております。9節から13節は教会員同士、キリスト者の生活について、そして14節から21節では、キリスト者が世の人々との間でどのように生活すべきかが述べられています。今日は2015年度の年間聖句「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」について学びたいと思います。

教会員同士どのように日々生活すべきか、9節において「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とパウロは勧めています。愛には、偽りがあってはならない、という勧めでありますが、この愛というのは非常にデリケートです。愛はすぐに憎しみに変質してしまいます。愛は与える思いを抱くものですが、変質してしまうと、奪う思いを抱いてしまいます。パウロは愛を、神から頂いた愛として持ち続けてもらいたい、変質しないで持ち続けてもらいたい、変質させてしまったら大変なことになる。そのような思いで、“悪を憎み、善から離れず”に、とアドバイスしております。

次にパウロは「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と勧めています。兄弟愛、家族間における愛情と言っても差し支えないと思います。私たち教会の兄弟姉妹は、まさにイエス様を中心とした神の家族であります。私たち兄弟姉妹は家族のように互いに愛していくことが求められているのです。それも家族だから甘えて、無礼なことをしたりしてもいい、ということではなく、尊敬をもって相手を優れた者と思いなさい、とパウロは勧めております。そして「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」との勧めが続きます。この怠らず励みですが、口語訳では、「熱心で、うむことなく」と訳されています。この“熱心”ですが、教会で他者への奉仕に熱心であれ、ということであります。パウロの非常に配慮に満ちた教え、勧めだと思います。

教会の奉仕を一人だけでしていると、不平不満の気持ちが湧いてきます。「私だけ、どうして、どうしてあの人は奉仕しないの、こんな奉仕もう二度とするもんか」。こういうことになりかねません。ですからパウロは兄弟姉妹が奉仕をしているならば、その奉仕にあなたも積極的に加わりなさい、と勧めているのです。霊に燃えるということは、人間的な熱狂ではなく、主の霊に導かれ、主の霊に燃やされてです。これらは兄弟姉妹に具体的に仕えていくことでありますが、パウロも言っておりますように、教会の兄弟姉妹に仕えることは主に仕えることに他ならないのです。

2015年度、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」この言葉をいつも頂き、教会生活を共にしていきましょう。                          (ローマの信徒への手紙12章9~21節)


 

―4月19日説教―                    牧師 松村誠一

            「キリストの内にある知恵と知識」

コロサイにある教会はパウロの弟子、エパフラスによって創立された教会であると言われております。そのエパフラスの教会がかかえている問題を獄中のパウロに相談し、質問をし、その質問の答えがベースとなって記されたのが、このコロサイの信徒への手紙です。

コロサイの教会がかかえていた問題とは、教会員の信仰を変質させてしまう異端の教えです。当時の異端はグノーシス主義で、このグノーシス主義は信仰を知的に理解し、知的満足を得て良しとするという特徴をもっておりました。信仰を知的に理解しようとする試みは、おのずと福音からそれていき互いに裁き合いが始まり、教会は分裂していったのです。パウロは彼らを覚え次のように語っています。「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合され、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストをさとるようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。」(コロサイ223 

分裂ではなく、愛によって結び合される、一致であります。愛によって、愛の故に他者の重荷を共に負って行くことが語られています。教会がどんなに知的集団となっても、どんなに知的な内容を語り合っても、愛を失ったら、それは教会ではなくなってしまうのです。 

2節後半に「愛によって結び合され、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。」と記されていますが、この“理解力”とは神の御旨、キリストの奥義を理解する霊的な力であると言えます。日常生活の様々な状況の中で何が神の御旨なのか、何がキリストの奥義なのかをわきまえ、日々の生活の中で適応させていく能力であると言えます。この能力はイエス様との交わりの中で与えられていくのです。また、パウロは3節で「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内にあります。」と続けて語っています。魂が豊かになる知恵と知識の宝は、キリストの内に隠れております。罪よっておおわれている私たちの魂から覆いが取り除かれ、魂が豊かになるにはイエス様との交わりを通して、イエス様の内に隠れている知恵と知識に触れることによって私たちの魂の目は開かれていくのです。

この知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れているのです。それは人間的な浅はかな知恵では得ることの出来ないものであるがゆえに隠されているのです。その知恵と知識を得るには、イエス様を信じ、イエス様に従っていく者には明らかにされていくのです。分裂、争いが絶えない現代社会で私たちはキリストの内にある知恵と知識を頂いて、この世にチャレンジしていきましょう。

           (コロサイの信徒への手紙215

 

―4月12日 説教―               牧師 松村誠一

         「神に選ばれた者」

 今朝の聖書の箇所は、イエス様を救い主と信る信仰に導かれた者はどのような生活を送るべきなのかが記されています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜を、柔和、寛容を身に付けなさい。」(コロサイ3:12)と記されています。

 キリスト者は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている。このことが確認された上で、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい、と勧めがなされています。この順番はとても大切だと思います。この順番が逆だったり、またこの最初の言葉が無かったら後に続く勧めは、冷たい律法、規則であり、人を縛るものとなってしまうのではないでしょうか。 

市川惇信氏の著書「暴走する科学技術文明」で氏はエリートについて次のように言っております。「エリートとは神に選ばれたという意味で、キリストに代表されるように他者のために死ぬ用意が出来ている人のことだ。」これは究極的には命を投げ出すことを意味しているのだと思いますが、今日の私たちの日常生活においては他者のためにどれだけ損をすることが出来るかということだと思います。現代社会は、得すること、儲かることを優先することが当たり前の社会であります。このような社会で、神から選ばれた者は、他者のためにどれだけ損が出来るかが問われているのです。損をするとは、お金や物質的なことばかりではありません。時間もそうでしょう。他者のために自分の時間をささげていくこと、また与えられております賜物を他者のためにささげていくこともそうでしょう。

神に選ばれた者は神の愛に応えて、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。との訓戒が与えられているのであります。この訓戒は神のとの縦の関係が成立している者への訓戒です。神との縦の関係が成立した者同志の横の関係が述べられております。

私たちは、先週イエス様の復活をお祝いしましたが、その復活のイエス様との関係がなければ、このような勧めも絵に描いた餅になってしまい、私たちには関係のないこととなってしまうのではないでしょうか。最初に学びましたように、「あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、」というこの語りかけがあるからこそ、その後に続く勧めを絵に描いた餅ではなく、わたしたちが日常生活の中で聞き、行ってゆくことが出来るのです。

私たちキリスト者は神に選ばれた文字通りエリートなのです。このことを感謝して日々の生活の中で、私たちこそが、神の愛を身に着け、具体的に表し、分裂と争い、憎しみよって成り立っている社会に対してチャレンジしていきたいと思います。私たちにはそのような資質が備えられており、その資質を生かしての働きが期待されているのです。

        (コロサイの信徒への手紙3章12~17節)

 

 

―4月5日 説教―               牧師 松村誠一 

              「イエス様、マリアに現れる」 

今朝の聖書の箇所の出来事はイエス様が十字架上で死なれて3日後、週の初めの日の出来事です。「まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」と記されています。マリアが墓に行くと、墓から石が取り除けてあり、イエス様のなきがらが消えてなくなっていたというのです。墓に入ってみると、死体を巻いていた亜麻布がおいてあるだけで、墓は空であったことが報告されています。

マリアはイエス様のなきがらでもいい、そのイエス様のそばにいたかったのでしょう。そしてもう一度墓の中を確認しようとした時に、白い衣を着た二人の天使が見えた、記されています。

現代人は、こんな御伽噺のようなことなど、とても信じられない、と言って真剣に聖書に聞こうとしません。しかしここに記されていることは御伽噺ではなく、信仰の事柄が記されているのです。ヨハネは天使を登場させることにおいて、信仰の事柄を語っているのだ、ということを明らかにしております。ですから、わたしたちも信仰の事柄としてこの聖書の箇所を読み、受け取っていかなければならないのです。 

マリアは復活のイエス様を見ているのです。また、復活のイエス様とも話しをしているのです。しかし、マリアはイエス様を、園丁だと思っていたのです。マリアが復活のイエス様に気づくのは次の場面です。「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネによる福音書20章16節)

イエス様が、『マリアよ』と呼びかけられた時に、マリアは初めて話している方がイエス様であることに気付いています。復活のイエス様の出会いはここにあるのです。復活のイエス様が生前マリアに“マリアよ”と呼びかけたその言葉をマリアが聞いた時に、マリアの霊性が目覚め、復活のイエス様を見ることが赦されたのです。 

復活のイエス様の出会いは、生前のイエス様を抜きにしてはないのです。生前のイエス様の生き様とは、病ある人の友となり、病いを癒され、当時の社会から忌み嫌われていた徴税人や遊女の友となり、徹底的に愛され、あるいは弟子を代表するペトロの不信仰を赦し続けられました。そのイエス様は人々の罪を御自分で負われ、十字架上で死んでいかれました。その生前のイエス様に自分の身を置いていく時に復活のイエス様との出会いがあるのです。私たちが生前のイエス様の語られた言葉を聞き、振る舞いを想起する時に、復活のイエス様は霊なるお方として私たちに出会ってくださり、私たちをイエス様に従う者へと突き動かして下さいます。私たちがイエス様を救い主と信じ、イエス様に従っていこうとする信仰を与えて下さり、そのような者へと突き動かして下さるのは復活のイエス様なのです。私たちは共に聖書を読み、聖書を通して生前のイエス様の語られた言葉を、そして振る舞いを想起し、今も霊なるお方であるイエス様と出会い、信仰生活を共にしてゆきましょう。 

    (ヨハネによる福音書20章11~18節)