4月説教記録

424日 説 教―              牧師 山中 臨在

「いちいち説明しない」 ヨブ記33:818

  神様に忠実に生きていたヨブは、子供たちと全財産を失ったうえに全身ひどい皮膚病に見舞われ、やがて神様を呪うようになりました。神様より自分のほうが正しいと主張するヨブに対して、エリフが 2つの点でヨブの過ちを指摘 します。一つは、ヨブが「自分は罪を犯していない」と言っている点です。「罪 を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言 葉はわたしたちの内にありません」(ヨハネ 110)と聖書は語ります。「自 分は間違っていない、自分のやり方が一番正しい」と言って不平を言う私たち は、いつの間にか神様を脇へおいやって自分が中心に来てしまっています。そ してそれは神様を否定することであり、神様の栄光を表すことからかけ離れて しまっています。

もう一つのヨブの過ちは、「神が自分を敵として自分を不条理に苦しめていると言って神と争っている」(101113)点です。聖書は「神はわたしたち の味方である」(ローマ 831)と語り、ヨブの主張が誤りであることを明言 しています。しかし神様を畏れ純粋に生きていたヨブが、これほど悲惨な目に 遭うのは全く不条理に思えます。私たちも、神様の栄光のためにと一所懸命に やっていることが、かえって人から批判されたり敵対心を持たれたりすると、 気持ちが滅入ります。新型コロナのことやウクライナ情勢を思うと、理不尽極まりないことをなぜ神様は許すのだと神様に対して非難の叫びをあげたくな ります。それに対して聖書は「神はいちいち説明しない」(13)と言います。 原語を読む中で、これは「あなたがいちいち神と争って問い続けるから、神の 声に気づくことができない」という意味なのではないかと感じるようになりました。自分が中心になり自分の声が大きくなると、神様の存在をどんどん脇へ 追いやって、神様の語りかけを聞き取れなくなってしまいます。自分から神様 の方へ近づいていかないと神様の声を聞きとることができないのです。神様は 悲痛な声を上げる私たちを憐れみ、その叫びに答えてくださいます。「人の魂 が滅亡を免れ、命が死の川を渡らずに済むようにされる」(18)方なのです。 罪ある者の罪をひとり子に背負わせ十字架につけるほど世人を愛しました。それは信じて罪赦される者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです(ヨハネ 316)。自分の思いを脇に置き、御言葉と親しく交わるならば、そして神様と 親しい祈りの時を持つなら、理不尽に思える自分の苦難についても、いちいち 神様に聞かなくても、いちいち神様が説明しなくても、すでに説明されている と聖書は語っているのではないでしょうか。

自分中心の思いから解き放たれ、神様中心になって神様に近づけば近づくほど、神様がどれほど自分のことを愛し助けてくださるのかに気づきます。困難 の中にあればあるほど、神様に近づいてみましょう。神様を中心とする人生を 歩んでいきたいと思います。

 

417日 説 教―               牧師 山中 臨在

     「からっぽのお墓」

        マタイによる福音書28:16

イースターにはエッグハントをする教会がありますが、卵は新しい生命のシ ンボル、イエス様が死んでしかし墓の殻を破って復活されたことの象徴として 用いられています。エッグハントでもらった卵の中に入っているプレゼントを もらうのが楽しみなのですが、ここにある3つの卵の中を見てみましょう。

最初の卵にはクギが入っています。イエス様は、大きなクギで十字架に打ち つけられ、死にました。とても痛かったでしょう。聖書には、神様にはなんで もできると書いてあります。だったら、イエス様を十字架からおろして助けて あげることもできたはずなのに、どうしてそうしなかったのでしょう。それは、 神様が私たちを愛しているからです。私たちの罪を赦すために、イエス様は私 たちの代わりに私たちが受けるはずだった罰を受けてくれました。それほどま でに「あなたが大好きだよ、あなたが大切だよ」と言って下さるのです。クギ はそれを教えてくれるプレゼントです。

2 つ目の卵には、石が入っています。イエス様は死んでお墓に入れられまし たが、その入口には大きな石が置かれてお墓をふさいでいました。とても人が 動かせるような石ではありません。さらに、体の大きな兵士たちがそのお墓で 見張りをしていました。イエス様が死んで 3 日目の朝、女の人たちがイエス様 の体に油をぬりたいと思ってお墓に行きましたが、お墓の入口には恐い兵士た ちがいるし、お墓の入口は大きな石でふさがっているから、誰もお墓に近づけ ません。その時天使が降りて来て、この重い石をいとも簡単に転がしました。 兵士たちは怖さに震えています。とても私たちが動かすことのできない重い石 も、神様は動かすことができるよ、自分で解決できない、取り除くことができ ない苦しみも神様は取り除いてくれるよ、というプレゼントなのです。

3 つ目の卵は、からっぽです。でもプレゼントを入れ忘れたのではありませ ん。からっぽなのが神様からのプレゼントなのです。イエス様がいるはずのお 墓もからっぽでした。イエス様は復活したのです。お墓という、私たちの暗闇 と絶望の場所に、イエス様自身が行ってくださったのです。それだけではあり ません。イエス様は死んだ後復活して暗闇や絶望を打ち破り、私たちに光を与 えてくれました。「私を信じ私と共に歩む者は、私と同じように死の恐れを打 ち破って希望の人生を送るよ」ということを示してくださったのです。だから、 お墓がからっぽであるということは、一番大切なプレゼントなのです。そのイ エス様は復活して「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 (マタイ 2820)と言っています。いつまでも私たちと一緒にいて私たちを 見捨てないと言うのです。だから私たちには希望があります。

このイエス様の復活を信じるか信じないか 2 つの生き方があります。信じて 神様からの希望のプレゼントをいただく人生を歩んでいきませんか。

 

410日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

とんだ災難。からの・・・

            マルコによる福音書 15 : 1632

イエス様が十字架をかつがされてゴルゴタへ向かっています。数日前にイエ ス様を大歓迎した民衆の大半が今や「イエスを十字架につけろ!」と叫んでい ます。人の心は何と移ろいやすいものなのでしょう。 イエス様は十字架をかついで、死刑場まで最短距離ではなく、わざわざ遠回 りをして人々の前でさらし者にされながら歩いて行きました。人々へのみせし め・警告だったのでしょう。「お前が神の子なら十字架から降りて来い。そう したら信じてやるよ」と自分を嘲る声の中で、イエス様は十字架の苦しみに耐 えました。

ここにシモンというキレネ人が登場します。キレネ(現在のリビア辺り)の ユダヤ人の居住区に住むシモンは、ユダヤ人なら誰でも一度は行ってみたかっ たエルサレム巡礼へ、過越しの祭りの時にやって来たのでしょう。そんな時思 わぬ「事件」が起こりました。前夜から夜通し裁判に引きずり回されてフラフ ラになりながら十字架をかついだイエス様がよろけてしまったのがたまたま シモンのいた所だったのか、十字架をもはやかつぐ体力がないと見た兵士が、 体格の良さそうな見物人としてシモンを選んだのか、いずれにしろ、シモンは イエス様の十字架をかつがされることになりました。

シモンにはとんだ災難だったでしょう。何で自分がこんな重い十字架を背負 わされなければならないのだと嘆いたかもしれません。しかしこれがシモンと イエス様の出会いでした。恐らくこのあとこのシモンはキリスト者になったの だと思われます。シモンにとっては全くの災難だったことが、しかし神様によ って与えられた大切な出会いでした。負いたくない重荷だったけれど、負わさ れることによって、シモンには何か神様からの示しがあったのではないかと思 います。「全くの見物人、傍観者であった自分がなぜイエスの十字架の出来事 の当事者にさせられたのだろう、なぜ自分が十字架を負わされるのだろう、イ エスとは一体誰なのだろう、何をした人なのだろう、なぜ十字架にかけられる のだろう。」イエス様の弟子となるというのはこういうことなのではないかと、 このキレネ人シモンの姿を通して思わされました。自ら喜んで負う、自ら進ん で負うのではなく、イエス様に出会ってその十字架を負うのがキリストの弟子 となるということなのではないでしょうか。

「十字架から降りてきたら信じる」と言う民衆の言葉に、イエス様はそうせ ず、十字架の死へと進んでゆかれました。ここで私たちは、このあざける民衆 の論法は間違いであることを知らなければなりません。「十字架から降りてき たら信じる」のではなく、「十字架から降りてこなかったからイエスを信じる」 のです。イエス様が十字架を放棄しなかったから、神様の大きな愛、無限の愛 が示されました。イエス様は人々の痛みをご自分の物とされたのです。イエス 様は神様に従順であることを示されました(フィリピ 2:8)。だから私たちは イエス様に委ねることができるのです。

 

43日 説 教―             牧師 山中 臨在

 「内視鏡検査」 ローマの信徒への手紙12:916

新型コロナ、病気、人間関係、戦争、貧困。私たちの日常には多くの苦難が あります。「希望をもって喜びなさい(12)、と聖書に語りかけられても、そんなことはできないくらい自分の苦しみは大きい」と言う方も少なくありませ ん。何度も聖書を読み返すと、12 節の前後に書かれていることが大切なこと に気づきます。今日の箇所は信仰共同体(教会)に対して語られているメッセ ージなのです。13 節、15 節が大きなヒントとなります。「聖なる者たちの貧 しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなす」ように、「喜ぶ人と共 に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。自分のこともさることながら、 自分の隣人のことを自分のこととして歩みなさい、ということなのです。

すると 12 節の意味合いが少し今までと違って響きます。「希望を持てずに 喜べない人や苦難に耐えられずにいる隣人の状況を自分のこととしてとらえ なさい」ということなのではないか、と思うのです。私たちは、とても他者の ことに一緒に泣いたり笑ったりする余裕がないほど自分のことで精一杯です。 でも「人にはできないが神にはできる」(マタイ 1926)のです。だから私た ちは「たゆまず祈る」ことが必要です。その祈りの中でこそ、他者と共に歩む ことの希望や喜びが主から与えられる、その希望や喜びを持てるように励まし 合えるのではないでしょうか。

そしてそれが、主が喜ばれる教会の姿、或いは教会の意義だと思うのです。 他者のことを我がことのように思い祈る中で、自分もまた誰かに祈ってもらっていることを知ります。自分のことで精一杯、と思っていたけれど、ああ、自 分は一人ではないのだ、ということがわかり、そこで力が与えられ、希望と喜びが広がっていきます。そのような教会として今年度歩んでいくように、神様 は今私たち品川教会にメッセージを送っておられるのではないでしょうか。

胃カメラによる内視鏡検査は痛みが伴いますが、自分には見えない胃の内部 がはっきりと見え、悪い所があるなら早くに発見できて早くに治療できます。 私たちも信仰の内視鏡検査が必要かもしれません。自分の心は自分には見えて いない部分が多いのです。尊敬を持って他者を見ているだろうか(10)、他者 の苦難を自分の苦難としているだろうか(13)、高ぶっていないだろうか(16)、 自分を賢い者とうぬぼれていないだろうか(16)、自分のことばかり考えて他 者の痛みや苦しみに思いをはせ祈っていないのではないだろうか。それは自分 にはわからないことです。「そうしているつもり」でも実際には人を傷つけ苦 しめていることもあります。そんな時は神様の内視鏡検査をしていただかなくてはなりません。それはみことばに聞き祈ることです。自己中心で他者を愛せ ないでいる自分の心があらわになるのは痛みを伴いますが、早期発見できて治療してもらえる恵みでもあります。たゆまず祈ることで自分の心を内視鏡検査 していただき、希望をもって歩んでいく一年になることを期待しています。