説教記録5月

530日 説 教―  カールトン・ウォーカー宣教師

「主よ、私はこのように祈りたいな!」

             コロサイの信徒への手紙 426

最も悲しむべきことは、祈りが応えられなかったことではなく、祈らなかったことだとよく言われます。イエス様は、私たちが呼吸し、食べ、話をするように毎日祈ることを願っておられます。キリスト者にとって、祈りは、救いとともに、主が与えてくださった最もすばらしい贈り物の一つです。

今日の聖書の言葉から、4つのことを示されています。まず、私たちは「たゆまず」祈ることを覚えたいと思います。「たゆまず」とはあきらめないという意味です。私たちは物事を簡単にあきらめますが、祈りに関しては、あきらめる必要がありません。次に、「情熱をもって」祈りたいと思います。いつも主イエス様は情熱をもって祈っておられました。誰に祈っているかをご存知だったからです。父なる神様は祈りに応えてくださる方であることをイエス様は知っていました。3つ目は、「感謝をもって」祈ることです。感謝の思いは神様の心に届きます。祈りには私たちを変える力がありますが、神様が喜ばれるように変えていただくためには、祈る時にまず神様に感謝をしなければなりません。4つ目は、とりなしの祈りです。最も美しい祈りは、自分自身のためではなく、他者のために祈る祈りです。パウロも、自分自身が罪の束縛から解き放たれるようにという祈りの前に、神様の愛の業が他者に注がれるように祈ることを教えています。自分の思いではなく、神様の御心がなるように祈るべきではないでしょうか。

祈りによって私たちに与えられる恵みを数えてみましょう。祈りによって神様との関係がより深くされます。祈りは私たちに忍耐して待つことを教えてくれます。祈りは私たちの霊的な目を開いてくれます。祈りは私たちの心をまっすぐに神様に結び付けて、私たちを一つにしてくれます。そして祈りを通して、私たちは与えられた人生を前進することができます。

すべては祈りから始まります。祈りをもって私たちの教会も前進し、近隣の方々に福音を伝える力をいただきましょう。教会員がお互いを覚えお互いのために祈りましょう。不安と混沌の中にあって、神様によって希望をいただいていることを確信し、祈りましょう。

 

 

523日 説 教― 牧師 山中 臨在

「あなたの力を失うとき」士師記161531

サムソンはペリシテ人からイスラエルを守るために神様が選ばれた人で、怪力の持ち主でした。彼の怪力の秘密は、生まれてから剃ったことのない髪の毛でした。しかし強いサムソンには、女性の誘惑に弱いという弱点がありました。彼はデリラという女性に自分の力の秘密を漏らしてしまい、その結果髪の毛を剃られて怪力を失い、ペリシテ人の手に捕えられて両目をえぐり取られ、その惨めな姿を見せ物にされ、人々からあざ笑われました。その中でサムソンは主に「私を思い起こしてください」と祈り、主はサムソンの祈りを聞かれました。怪力を失ったはずのサムソンは大きな建物を支える真ん中の柱2本を探り当てて、両手でそれらを倒し、建物は崩れ落ちました。そこにいた3000人ほどの人々はサムソン自身も含め全員死にました。

サムソンは私たちの姿を映し出しているのかもしれません。サムソンは怪力という強さと同時に、女性の誘惑に負ける弱さを持っていました。人間誰でも強さと共に弱さも持っています。聖書は、主は強さだけでなく弱さも用いると語ります。サムソンの怪力につい焦点が当たりがちですが、主はサムソンの弱さをご自分の計画に用いました。私たちの強さも弱さも、成功も失敗も、優秀さも愚かさも私たちのものではなく、すべて神様が支配されていて、神様はどちらも用いてくださると聖書は教えます。サムソンの髪の毛そのものが怪力を与えたのではなく、力は実は神様からの恵みと祝福であったのです。サムソンが怪力を発揮した時聖書は「主の霊が激しく降った」(士師記14:6など)と言います。

人が努力をして力を身に着けることは素晴らしいことです。しかしその力がなくなった時、力だと思っていたものが弱さに変わった時、人はどうするのでしょうか。昨日まで重宝されていた自分の力が今日はもういらないと言われたら、自分が誇っていた力を失ったら、人はどうしたらいいのでしょうか。

サムソンもまた自分の誇っていた力が失われ絶望のどん底にいましたが、その時、彼は神様に祈りました。全身全霊で主に向き合いました。神様は力を失い人の敵となったサムソンに霊を注がれました。力が「主によって」サムソンに与えられたのです。サムソンが弱くなった時、サムソンは主に祈り、主によって強くなりました。

イエス様が十字架で死に、3日目によみがえった後天に引き上げられる時、自分はあなたがたの前からいなくなるが、神様があなたがたに助け手である神の霊を送りそれによってあなたがたは力を得ると言われました。今日はペンテコステです。神の霊が与えられたことを記念する日です。私たちが肉の思いを手放した時、主は霊を注いで神の力を与えると約束されています。あなたが今自分の強さを手放せなくても、あなたが今自分の弱さに打ちひしがれ立ち直れそうになくても、そんなあなたに語りかけ、自分のすべてを委ねる者に霊の力を注ぐと言われる神様のことを覚えていてください。

 

 

516日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

  「自由」 ガラテヤの信徒への手紙5:1326

  聖書は、キリスト者は自由を得るために召し出されたと語ります。私たちはイエス様によって罪の奴隷から解放されて自由になりました。しかし知らず知らずの内に、いろいろな物に縛られて、自由を失った奴隷の状態になってはいないでしょうか。そんな私たちにイエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、・・・真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)と言われました。私たちが恐れるべきものは、お金や地位や規律や他人の目ではなく、ただ主だけなのです。自由だから持ち物が増えるかもしれませんが、持っているものが増えるとそれに束縛されてどんどん不自由になります。不必要なものを手放さないと真理は得られません。イエス様は私たちを神の家の子としてくださいました。神の家で神の言葉に従う子供は自由です。神の家の中にとどまっていれば、自由に生きることができるのです。

神の家では、与えられた自由を他者に仕えるために用いなさい、と言われています。それが主イエスが私たちに望んでおられることであり、主ご自身が我々に先だってなさったことです。ある人が「自由には責任が伴います。互いの自由を認め合い、責任をもって秩序を保ってゆかなければなりません」と言いました。聖書が語ることに通じると思いつつ、秩序という言葉が気になります。秩序は大切ですが、人が作る秩序は絶対ではありません。自分なりの正義感に基づいて一所懸命秩序を築こうと思っている人は、他人がその秩序を理解できないことを愚かだと思い、他者を批判します。他者の愚かさには気づいても自分自身の愚かさには気づけません。結局自分の正義に縛られて自分の愚かさから自由になれずにいます。それはキリストの言葉にとどまっていないからです。人が秩序や正義を話す時、問題はその人やその人の正義がどんなに素晴らしいかではなく、その正義が他者を生かすかどうかなのではないでしょうか。キリストの言葉は「他者に仕えなさい」と語ります。み言葉にとどまらない正義や秩序はどんなに素晴らしくてもそれは人の業であり神の支配に委ねない罪です。しかし、み言葉にとどまっていると「実を結ぶ」のです(22)。霊の実(愛、喜び、平和、寛容など)は私たちがいくら努力しても得られません。ただ主にゆだねることによって主から与えられるのです。そしてここに挙げられているものは皆、他者に仕えるために備えられたものです。

主が与えてくださる自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに他者に仕えるために用いましょう。「自分は自由ではない、どうしても人の目が気になる、自分の正義や自分の秩序が自分を縛るとわかってもどうしてもそこから抜けられない、イエス様を信じていても恐れが自分を襲う、怒りから離れられない」と多くの人が思います。それでも尚、主は忍耐強く、「私の言葉にとどまって、私が与える自由を得なさい」と言い続けておられます。み言葉は他の何者にも代えられない力です。み言葉こそ私たちを真の自由に解放してくれる力です。

 

59日 説 教 ―               牧師 山中 臨在

    「リバウンド」   出エジプト記32114

最近「リバウンド」(跳ね返り)という言葉をよく聞くようになりました。聖書は、イスラエルの民が、神への信仰を見失い信仰が跳ね返る様子を描きます。信仰のリバウンドとは何か、リバウンドが起こった時に何をすべきか、聖書は私たちに何を語っているでしょうか。

まず、信仰のリバウンドとは、真の指導者を見失うことです。イスラエルの民をエジプトから導き出して救ったのは、主なる神様です。彼らはそのことを神様に感謝していたのに、その信仰は、目の前に訪れた不安に跳ね返って、自分たちをエジプトから導いたのはモーセだと言うようになり、更には自分たちが作った金の子牛こそが、自分たちをエジプトから導き出した神だと言い出します。真の指導者である神様が、目に見え触ることのできる像に置き換えられてしまうのです。十戒の最初の二つ「わたしをおいてほかに神があってはならない」「いかなる像も造ってはならない」を早くも彼らは破ってしまいました。私たちも、不安や恐れがあると、神様にゆだねきれなくなり、見えるものや触ることのできるものに頼ろうとします。また牧師や役員会は真の指導者ではありません。恐れや不安がある時こそ、私たちは真の指導者である神様から目を離してはなりません。

また、信仰のリバウンドは、神様の言葉を聞かなくなることです。イスラエルの民は神様の言葉を忘れ、自分たちが作った偶像の前に祭壇を築いて形式的には礼拝を捧げていますが、それは真の礼拝ではありません。不安や恐れの中では、神様の言うことは最善であることを知りつつも、み言葉から耳を背けてしまいたくなりますが、それは神様の怒りを招きます。それが信仰のリバウンドの恐ろしいところです。私たちも、礼拝をしていても、み言葉を聞いていない、あるいは聞こうとしていないことがないでしょうか。

しかし信仰のリバウンドは、神様を見失い神様が怒りを覚えるようなピンチですが、信仰に立ち返って神様の赦しをいただく希望の入り口でもあります。民の信仰のリバウンドに怒った神様ですが、その怒りは、まだ回避できない段階には来ていませんでした。神様の怒りに対してモーセは必死に、怒りを鎮めてほしいと嘆願し、神様は思い直します。民のリバウンドに怒る神は、その民を愛する方でもあります。民に祈りの道を開き、彼らに悔い改めのチャンスを備え、そのためならご自分の計画を変更する懐の深さを持った方です。だから信仰のリバウンドは、神様というゴールから一度外れたけれど、すぐにその神様に立ち返る希望に通じています。その希望を得るのに必要なのは、祈りです。モーセが必死に祈ったように、私たちもひたすら祈って主の言葉を求めなければなりません。自分のためだけでなく、信仰のリバウンドをした他者のためのとりなしの祈りも必要です。

新型ウイルスをはじめ様々な不安や困難の中にいる私たちですが、今こそ真の神様の言葉に聞き従い、たゆまず祈りましょう。

 

52日 説 教―                 牧師 松村 誠一

     「神からのサイン」  民数記22:3135

  今日の聖書の箇所は「バラクとバラム」の最初の物語の結論部分です。モアブの王、バラクはイスラエルの民が非常に多く、また強いことに恐れをなし、占い師バラムを呼び寄せ、イスラエルの民が滅び去るように呪って欲しいと依頼しています。神はその占い師バラムに、イスラエルの民を呪ってはならないと語りかけます。神の語りかけを聞いたバラムはバラクの願いを断るのですが、モアブの王バラクはもう一度バラムに依頼しています。その願いにバラムは次のように答えております。「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、私の神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」と。この言葉は一見バラクの願いを断っているかのように読めますが、実はそうではありません。バラムはバラクが所有している金銀に心が奪われてしまっているのです。バラムはモアブの地に行くことを願い、再び神のみ旨を確かめようとしているのです。

そのようなバラムの思いを見通された主は、「立って彼らと共に行くがよい。」と、モアブの地に行くことを許しております。これは、それほどまでに行きたいなら勝手にしなさい、という主の裁きの言葉です。バラムは主の言葉を許しの言葉として受け取り、モアブの地に出かけていきます。バラムが出発すると神の怒りが燃え上がり、バラムが行く道を、主の御使いがふさぎ、前に進ませません。ところが主の御使いの姿を見ることが出来ないバラムは前に進まないロバをうち叩き、その場にうずくまってしまうロバを更に杖で打っております。そこで主はロバに話す言葉を与えられたので、ロバはバラムに話しかけます。バラムはロバとの会話を通して、主の御使いが道をふさいでいた事実を見ることが出来たのです。そして主の御使いは、モアブに行ってバラクに会いに行くことは滅びへの歩みである。だから私はその歩みを妨げるために出て来たのだという説明を聞き、バラムは事の次第を理解するのです。民数記はおとぎ話のような話をもって今日の私たちに何を訴えようとしているのでしょうか。それは神からのサインです。神の思いは往々にして人には隠されていて明らかに見ることが出来ませんが、しかしそれにも関わらず神は、神の思いをロバを用いてバラムに告げ知らせているのです。

私たちも神の思いを直接神から聞いたりすることはないでしょう。しかし、神はいつも私たちにサインを与えてくださっているのです。神のサインは日常生活の些細な出来事を通して、あるいは私たちの日常生活を打ち破る仕方で、という時もあるでしょう。私たちは、そのサインを通して神の思いを正しく理解していくことが求められております。それには教会で、神の家族と共に御言葉を聞き、その御言葉の前に深く額ずく(祈り黙想する)のです。神はそのサインを正しく理解できるように主の霊を送ってくださいます。神のサインは主の霊の導きによって正しく理解されていくのです。