説教記録5月

―531日 説教―            牧師 山中 臨在

「地の果てってどこ?」 使徒言行録1:311

イエス様は、聖霊の力を受けたら地の果てまで福音を証しする者となるのだ、と言われます。福音宣教はイエス様の十字架、復活、昇天では完結しません。聖霊によって力を得た弟子たちによって継続されていくのです。私たちはどのようなプロセスで福音宣教の旅に出かけたらよいのでしょう。意外にも最初は、「待つ」ことです。復活されたイエス様に会った使徒たちは大きな喜びを得ると「今すぐに神の国の建設のために動きましょう」と意気込みますが、イエス様は「父の約束された聖霊を受けるのを待ちなさい」(4) と仰っています。聖霊を受けないでなされる働きは、どんなに一所懸命であっても、それは人間のわざであり、主が備える最善の道に到達できません。主のご用をさせていただくためには、まず祈り、聖霊の導きを待つという大切な準備が必要です。

さて聖霊の力を受けた使徒たちはまず今いるエルサレムで伝道することになります。しかしエルサレムはイエス様が捉えられ、十字架につけられた場所です。弟子たちがイエス様を見捨てて逃げた場所でもあります。そしてイエス様が復活なさったあとも、人々を恐れて弟子たちが家に鍵をかけて閉じこもっていた場所です。イエス様のいない所で福音を伝えることに恐れや不安はあったと思いますが、主は、今置かれている場所で伝道を始めることを弟子たちに教えました。

次に近隣のユダヤ、サマリアに行けと言われます。弟子たちにとってユダヤは親しみのある場所でしたが、サマリアは正直行きたくない場所でした。ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあったのです。しかし主はそんな所にも福音を伝えよと、使徒たちを遣わすのです。私たちの周りにもキリスト教に対する偏見や敵意を抱いている人は少なくはありませんが、そのような所へも聖霊は私たちを遣わします。私たちは聖霊の導きに委ね、必ずしも好意的でない環境の中に福音を伝えに出かけているでしょうか。

 

そして近隣伝道の先には「地の果てまで」福音を伝える働きへと聖霊は導きます。ところで地の果てとはどこでしょう? 私たちがその存在を知らず福音が届けられていない場所はまだたくさんあるとすれば、そのような所は私たちにとって地の果てと言えるでしょう。未知の世界に福音を届けていくわざは、想像を絶するほど大変でしょうし、聖霊による力が与えられなければ人間にはできないことです。しかし未知の所ばかりではなく、自分のごく身近な所、よく知っているがゆえに行こうとしていない場所もまた地の果てかもしれません。家族や親友に福音を語ることが案外難しいこともあるでしょう。しかしそこにも、主は私たちを遣わされます。人間の力では乗り越えられない、地の果ての限界と壁を、聖霊の力は乗り越えさせてくださることを聖書は約束しています。だから自分の無力に意気消沈する必要はありません。聖霊の力に委ね、あなたの地の果てに福音を伝えていきましょう。

 

524日 説 教―            牧師 山中 臨在

             「聖霊の住まい」

       (コリント信徒への手紙()6:1220)

パウロが伝道したコリントのクリスチャンたちにとって、人生に大切なものは自由だったようですが、パウロは、自由だからと言って不品行に身をゆだねてはいけないと警告します。そして「私たちの体は、聖霊が宿ってくださる神殿であり、自分自身のものではない。神の栄光を現すために自分の体を用いなさい」と語ります。

3つのことを考えましょう。まず、私たちは自分自身のものではないとはどういうことでしょうか。罪の体である私たちは滅び行くしかなかったけれど、神様の愛は私たちを救うためにイエス様の命と引き換えに私たちに命を与えてくださいました。それが「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(20)ということです。だから私たちの体は、それを買い取ってくださった方、即ち神様のものであるのです。

2つめは、神様に買い取っていただいたこの体を、神様は「聖霊が宿る神殿」即ち聖霊の住まいとしてくださるという事です。神殿とは人々の信仰の基として建てられた物であり、もはや自分個人の物ではなく、神様と他者と共に歩むところです。ですから自分さえよければ自分が何をしても良い、ということではないのです。パウロは「みだらな行いを避けなさい」(18)と注意をしています。みだらな行い(または不品行)の根本にあるのは「自分の都合のために他者をむさぼること」です。神殿である私たちは、自分の都合や利益のために他者をないがしろにするのではなく、むしろ「他人の利益を追い求める」(1コリント10:24)生き方をするように体を管理しなければなりません。イエス様は、「最も小さな者たちにしたのは、わたしにしたことなのだ」と言われました(マタイ25:35-40)。他者のためにしたことは主にしたことなのです。神の栄光を現すように体を用いるとは、このように他者の利益のために生きることなのではないでしょうか。

3つめは、神殿とは神様が私たちの祈りを聞かれる所だということです。ソロモンが神殿を建てた時、神様は「わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる」(列王記上9:3)と言われました。人々は様々な状況の中、神殿で祈りを捧げ、神様はそれらの祈りを「絶えず」聞かれました。私たちの体を神殿としてくださった神様は今も絶えず私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。また、日曜日に礼拝堂で礼拝する時だけでなく、私たちが家にいても、仕事場でも、学校でも、そして教会に集えない今も私たち一人一人が聖霊の住まわれる神殿であり、そこで神様は私たちに目を注ぎ、心を寄せてくださっています。

自分のためだけにではなく、他者のために自分の体を使い、そのことによって神様の栄光を現わす歩みができるよう、絶えず私たちに心を寄せてくださる神様に祈ってまいりましょう。

 

 

―5月17日 説教―       牧師 山中 臨在

      「信仰の緊急事態宣言」

     (マタイによる福音書28:1~10)

イエス様が十字架にかかって三日目の朝、マグダラのマリアたちは墓を見に行きました。すると主の天使が天から降って来て、「イエスは復活した」と告げました。それは思いがけず良い知らせでしたが、自分の目の前でイエス様は死なれましたから、にわかに信じられず素直に喜べない状況です。そんなマリアたちに天使は「急いで行って、イエスが復活したことを伝えなさい」と言います。私たちの罪が赦され、その罪を背負って十字架に命を投げ出すほどに神様は私たちを愛しておられる、それはとても良い知らせだったけれど、更に死んだイエス様が復活なさった、私たちに永遠の命の希望が与えられ、失望は希望に変えられることが示されたことは、信仰の根幹をなす喜びの知らせです。この喜びの知らせは真実であり、急いで伝えられなければならないことを、聖書は私たちに教えているのです。疑いがあっても恐れがあったとしても、「愛の主は今も生きておられる」という知らせを緊急に伝えよと主はお命じになるのです。私たちは今、緊急事態宣言の下に置かれています。この宣言が出されるまでに様々な状況を検討し協議されたことでしょう。けれど神様の緊急事態宣言は、私たちの時が良いとか悪いとかの状況を見極め十分議論してから福音を宣べ伝えなさい、とは言わないのです。あなたの都合ではなく神様の緊急事態宣言が出たら急いで伝えなさい、と私たちに迫っています。

 6節で、天使は女性たちに「かねて言われていたとおり、復活なさった」と言っています。イエス様の復活は驚くべき一大事ですが、実はイエス様御自身が何度も弟子や人々に預言していたことなのです。それにも関わらず、人々は信じず心に受け止めていなかったのでしょう。これは今の私たちの姿でもあります。み言葉はいつも与えられているのに、私たちはいかにそれを聞いていないか、いかに受け止めていないのか、ということを思わされます。そしてこれこそが一大事、緊急事態です。福音を聞いたなら、すぐにそれを受け止めすぐに伝えなければならないのです。

 ところで、政府の緊急事態宣言は国民の一人一人がそれを自分の事柄として受け止め、外出自粛などを実行しなければ効果がありません。主の信仰の緊急事態宣言も、それを聞いた私たちが応答してそれを実行しなければ、福音宣教のわざになりません。福音を伝える役目はすべての人に委ねられています。

緊急事態宣言は人を救うために出されます。自分が神の目に価値ある存在であること、それほどまでに自分が愛されていること、赦されていること、永遠の命の希望が与えられていること、その希望はわたしたちを欺くことがないことを知らずに、希望が見出せず絶望の淵をさまよう人が多くおられます。神様からの喜びの知らせがすぐに与えられなければ失われる魂がたくさんあります。急いで福音を伝えましょう。

 

 

 

510日 説教 ―         牧師 山中 臨在

             「ロックダウン」 

       (ガラテヤの信徒への手紙5:1626)

今日のメッセージのポイントは、罪をロックダウンしましょう、罪を封じ込めましょう、ということです。罪は肉の業であり(19)、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につける」(24)と聖書は語ります。罪を死なせる、罪を消し去るということです。しかし肉体を持っている私たちには肉の欲求があり、それを完全に消し去ることはできません。

人がコロナウイルスに感染しないためには、自らロックダウンして外出しなければいいのですが、しかし肉を持っている私たちが生きていくためには、外出しないわけにはいきません。生活に必要な買い物に出かけます。そのために必要なお金を得るために仕事に行き、電車やバスにも乗るでしょう。そこで政府や自治体は、ウイルス対策と経済対策を、バランスを取りながら両立させよう、両方やっていこうと一所懸命にやっておられます。そういう意味では真の意味でのロックダウンはできないのでしょう。

 では信仰生活も、肉の業と霊的な事柄を、バランスを取りながら、両方うまくやっていこう、と私たちは思うでしょうか。聖書はそう言わないのです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する・・・霊と肉とが対立し合っている」(17)と言っています。肉の業と霊の働きは両立しないと言うのです。そして罪、即ち肉の業を行う者は「神の国を受け継ぐことはできません」(21)と迫ります。肉なる部分を完全に断ち切れない私たちには厳しい言葉です。

だからこそ、罪をロックダウンする必要があります。ロックダウンは、そこに存在するものを、外に出て行かないように封じ込めることです。罪があるなら、肉の思いを消せないなら、それを封じ込めるのです。肉の業が外に出て行く道を塞ぐのです。病院には陰圧室という部屋があります。中の気圧を外の気圧より低くすることで、中にあるウイルスや細菌が外に出て行かないように作られた部屋のことです。肉の業をロックダウンするためには、肉の部屋を陰圧することが大切です。逆に言うと、聖霊の圧力を肉の圧力よりもうんと高くするのです。これが、聖霊の導きに従う(16, 25)ことです。では聖霊の導きに従うとはどういうことでしょう? それはみことばに聞くことです。そして祈ることです。私たちの努力や行いによって罪を封じ込めることは残念ながらできません。常に神様の言葉に聞き、祈りによって神様からの語りかけに耳を傾けることがなければ、聖霊の導きに従うことはできないのです。教会に集えない日々が続く今こそ、私たちはみ言葉に聞き、祈りに専心し、25節に書かれているように、聖霊の導きに従って、肉の思いをロックダウンする道に向かって前進しましょう。

 

53日 説 教―            牧師 山中 臨在

             「罪のウイルス」 

          (ローマ信徒への手紙6:1223)

今日の箇所には、奴隷、罪、義、という言葉が繰り返し出てきます。奴隷という言葉は元来、主人に服従する者、そして主人に命を守られる者、という意味です。私たちは誰を主人にするか、誰の奴隷として生きるかということが問われています。聖書はここで、罪の奴隷ではなく、義の奴隷として義に仕えて生きなさい、と語っているのです。「神様に束縛されて、折角の日曜日に教会に行って礼拝するなんて不自由だ」と世間は思うかもしれません。しかし義に束縛されないで勝手気ままに生きることは、自由なのではなく、罪の奴隷状態にあるということです。義には束縛されないが、罪に束縛されてしまっているのです。

 私たちは今、新型コロナウイルスの恐ろしさを思い知らされています。ウイルスは人体に侵入して、隙あらば危害を加えようとしているのです。体に特に異常を感じないと、ウイルスが自分の中に潜んでいるということにすら気がつかないこともあるのです。

 人間には罪のウイルスが侵入しています。普段は気がつかずにいるけれど、高慢、怒り、自己中心、ねたみ、そんな要素と相まって隙あらば人間に罪を犯させようとします。この罪のウイルスを主人としてしまうと罪の奴隷となり、一見自由のようだけれど、ウイルスにやられた時には非常に大きな苦しみにあいます。罪のウイルスを退けるためには治療が必要です。私たちの努力や頑張りだけでは罪から解放されません。その治療のためにイエス・キリストが来られ、私たちの罪のウイルスを一身に受けて下さったのです。私たちの中に罪のウイルスが潜んでいる時に、イエス様の言葉を同時に体内に宿らせなければ、そのウイルスが拡大し私たちを罪の奴隷としてしまいます。

 ロッククライミングをする時、命綱をつけます。綱がつけられるのは一見不自由そうですが、その綱のおかげで人は自由に動き回ることができます。でもこの命綱がないと死んでしまいます。主が私たちに与えて下さる自由もこれと同じです。イエス様という命綱に繋がっていることによって私たちは安心して行きたい所に行けます。もしイエス様という命綱につながっていないと、一見自由そうですが、罪の道を好き勝手に歩み命を落としてしまいます。これが「罪が支払う報酬は死です」(23節)と言われていることです。主人であるイエス様は私たちが信頼して委ねた時に、私たちの信頼にこたえて私たちを守って下さいます。だから私たちは安心して自由になれるのです。

 罪のウイルスに打ち勝つように、たえずみ言葉を私たちの内に宿らせておきたいものです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」

                 (コロサイ3:16