説教記録5月

 

526日 説 教―   墓前礼拝    牧師 山中 臨在

       「墓の先にあるもの」

神様が私たちに下さったプレゼントは、空の墓でした。十字架にかかって死なれたイエス様のお墓が空っぽだったことが私たちへ与えられる神様からの希望です。絶望と暗闇の象徴である墓にイエスは自ら行って下さり、しかし復活して今も生きて私たちと共におられます。絶望の先に希望があることを示されたのです。

 マグダラのマリアはイエスの死体に香油を塗るためにイエスの墓に行きました。彼女はイエスが死んでいるという前提で墓に行きました。十字架にかかる前にご自分は復活すると言っておられたイエスの言葉を彼女は信じていなかったのです。しかし人間の力では到底動かすことのできない大きな墓石が入り口から取りのけられているという人間の知恵では考えられない出来事を体験し、彼女はイエスの弟子二人を呼びに行き、その弟子たちは墓に向かって走りました。墓が目的地であった彼らは、空っぽの墓を見て、墓自体が目的ではなく、墓の先にある復活の希望が、主が私たちに指し示しておられるメッセージであることを知りました。

私たちも、墓ではなく、主が下さった墓の先にある希望に目を注ぎたいと思います。墓の先にある希望は、私たちの常識や理性に頼る信仰では得ることができません。人知をはるかに超える神様の大きなわざと希望の約束を信じ、委ねて歩んでまいりましょう。

(ヨハネによる福音書20110)

 

  

  

526日 奨 励―  教会礼拝    片桐健司兄

       「心の弱さを感じるとき」

ナルドの旅は恵まれた旅となりました。しかし、先週の私は、パソコンのウィルス感染から始まってさんざんな週でどうしようかと何度も思いました。こうしたことで落ち込むとき、自分は弱さを感じます。思うようにいかないとき、言いたいことが言えないとき、周りに左右されてしまうとき、良いと思うことができないとき、病をかかえたとき、様々なときに、人は弱さを感じます。

パウロは、コリントの信徒への手紙()12章で、「自分にはとげが与えられました。」と言っています。とげとはパウロが何かの病気をもっていて、てんかんだとか、頭痛だとかいろいろ考えられているようですが、それはパウロにとって、つらいものであったようです。そこでパウロは「神様にとげを離れさせてほしいと三度も頼んだ」と書いています。ところが、神からの答えは「私の恵みはあなたに十分である。力は、弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」というものでした。

弱っているとき、どうしようもないと思うとき、そこに恵みがあるというのです。私たちが弱さを感じたとき、実は神の恵みはそこにあるのです。「弱いときこそ強い」のです。弱さで苦しんでいるときに恵みが感じられたらいいですね。

              (コリントの信徒への手紙二12110)

 

 

 

519日 説教―         牧師 山中 臨在

      「誰の声に従うか」

ヨセフというイスラエル人がエジプトに身売りされて来て、後にエジプトを治める者にまで登りつめました。そしてヨセフの一家もエジプトに移住してきます。その時その一族の数は70名だったのですが、それから400年以上が経ち、イスラエル人はエジプト中に溢れるほどになりました。時のエジプトの王様ファラオは神様を畏れない人でしたが、国中に溢れるイスラエル人に恐れをなし、イスラエル人に強制労働をさせて虐待しました。それでもイスラエル人の数は益々増え続けたので、今度はイスラエル人に男の子が生まれたら殺害するようにという命令を下します。しかし神様を畏れるイスラエル人の助産婦シフラとプアは、王様の言うことより神様の言うことに従い、イスラエル人男児を生かしました。神様はこの女性たちに恵みを与えられました。

 神が自分のことをどう見ているか、よりも、人が自分のことをどう見ているか、を気にすることは、いつの時代もどこの国でも神様から突き付けられる課題なのかもしれません。実際に私たちは人と共にいる社会の中で生きていますから、人の目を気にせずに生きていくということは難しいでしょう。日本においては、神様を信じる人の数は圧倒的に少なく、クリスチャンであることで損をすることや居心地の悪い思いをすることはあっても得をすることって少ないかもしれません。一方で、キリスト教国と言われている国では、クリスチャンであることが社会的な評価を受けることが多く、もしそれが理由でクリスチャンになるのだとしたら、それもまた神の声より人の声を優先させるという点では同じなのかもしれません。

 「神の国と神の義を第一に求めなさい」(マタイ6:33)とイエス・キリストは言われました。人の声よりも神の声を聞きなさい、そう主が語られている以上それに従わなければなりません。でも私たちは人の声、この世の現実、自分の社会的立場や人間関係を無視できなくてそのジレンマに陥ることは多く、神様の言葉を守れない私達です。そんな時主は何と言っているか聞いてみることが大切です。今日の箇所に登場する助産婦たちも、王様の命令に背いて神さまの声に従うこと、それは立派なことだけれど、しかし内心は王様に何をされるか恐ろしく、ビクビクしていたことでしょう。しかし彼女たちは神様の声を無視することができませんでした。そして彼女たちには神様の恵みが与えられました。それが神様から私たちに送られている希望のメッセージです。

 私達は神の声と人の声のどちらに聞き従っているでしょうか? 聖書は約束します、神を信じなさい、神は決してあなたを見捨てずあなたを裏切らない、と。バプテスト教会の形成において一人一人の意見と知恵を出し合うことは大切です。しかしだからこそ私達は、人の思いではなく神の思いがなるように、神のみ心を求めて祈ることが大切です。一人一人の祈りを結集し、共にキリストの体なる教会を建て上げていきましょう。

   (出エジプト記 1121)

 

 

512日 説教―          牧師 山中 臨在

           「母の愛より大きい物?」

聖書は、人は神の家族なのだと言っています(エフェソ2:19)。すべての人は神様が創られた神様の子供、だから人は皆 神の家族である、ということです。

 家族は本来 愛に根ざしたグループです。最近はその家族間の愛が当たり前でなくなっているケースが増えてきているようで痛ましい事件が家族間で起こっているのは悲しいことです。聖書は「家族は愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」として歩むように語ります(17節)。ところで「愛する」とはどういうことでしょう? ヨハネ15:13は「人のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」と語ります。愛するとはその人のために命を捨てることだとすると、私たちは愛することができない者なのかもしれません。

神様はすべての人の父として、そのすべての家族のために死んで下さいました。私は自分の家族のためなら死ぬことはできるかもしれませんが、それどころではない、世界の全ての人のために神様はイエス・キリストとしてこの世に来られ、そして全ての人のために死んで下さいました。19節にも書いてあるように、そんな神様の愛は私達の頭では考えられないくらい大きいのです。

アメリカに、息子と二人暮らしのある貧しい母がいました。息子は幼少の頃交通事故に遭い、目の損傷が激しかったので視力を失うと宣告されます。母は、自分の目を差し出して息子が見えるようにしてほしいと医師に懇願します。おかげで息子は見えるようになりますが、母は片方の目を失いました。

そのことを知らずに育った息子は、一つの目しかない母のことを嫌い、時にはののしることさえあり、やがて息子は母と会うことを拒絶します。母の死後、母の友人から事の真相を聞かされた息子は、母の犠牲のもとに自分の健康な人生があったことを知り、母の愛の大きさに気づきました。自分を助けるために犠牲を払った母を憎み続けて生きてきた自分を、母は愛し続けたのでした。

神様の愛はこの母の愛よりももっともっと大きいのです。見えなくなった息子が見えるように、母は自分の目を差し出しました。私達も正しいことが見えなくなってしまっていましたが、イエス様は死んで、自分の光を私達に与えてくれました。こんなふうに、私達のためにイエス様は死んでくれたのに、私達はイエス様のことを嫌ったり無視したりします。でもイエス様は私達がどんなにイエス様から離れてもイエス様を嫌っても私達を愛し続けて下さいます。その「愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどなのかは私たちの知識をはるかに超えている」(エフェソ18:19)のです。

聖書にはこう書いてあります、「私達は神様に愛されている子供」(エフェソ5:1)、そして「わたしたちが神様を愛したのではなく、まず神様が私達を愛して下さった」(Iヨハネ4:10)と。子供として私たちを大きな大きな愛で守ってくれる神様を私達も愛していきましょう。そしてその神様の愛をお互いに分かち合っていきましょう。

          (エフェソの信徒への手紙31421)

 

 

55日 説教―                  牧師 山中 臨在

              「神様とのパイプ」

もし仮に今タイムマシンに乗って2000年前のイエス様に出会ったらどうなるでしょう。イエス様の説教、病気を癒したり湖の上を歩いたり水をぶどう酒に変えたりする奇跡などを目の当たりにするときっと感動するだろうと思います。でもよりイエス様に近いところに一緒にいたら、イエス様が人知れずお祈りしている姿に触れるはずです。イエス様は十字架にかかられる直前、ひざまずき、血のしたたるような汗を流すほど苦しみもだえながら必死に祈っておられました。必死で祈るからこそイエス様自身も神様から力づけられています(43)。この姿から、イエス様の素晴らしい説教、驚くべき奇跡、感動的ないやしの数々は、この祈り、神様との強いパイプに支えられてきたのだということを学ばなければなりません。イエス様の祈りを間近に見た弟子たちが「私たちにも祈ることを教えてください」とイエス様にお願いしたのは、至極当然のことであったでしょう。彼らは祈りの力に圧倒し、感動したのです。

 私たちは祈りの力に圧倒されているでしょうか? キリスト者に与えられている神様とのパイプ(祈り)、どのくらい利用させてもらっているでしょうか? 勿論私たちは祈っているでしょう、神様とのパイプも与えられています。でも折角のこのパイプを使わないならそのパイプはさびれてしまいます。このパイプの中をどうぞもっと使いなさいという招きが私たちには与えられているのです。

 クリスチャンとは、キリストに倣う者という意味です。イエス・キリストを真似る者ということです。そのイエス様は神様ご自身であったのに、絶えず祈っておられました。祈るパイプを与えられ祈っているクリスチャンでも、その祈りの深みを知らない人、祈りの力を軽んじる人は多いのです。自戒の念を込めて私はそのように言わなければなりません。でも祈りは力です。イエス様自身が模範となって祈りの力を教えられています。イエス様自身、十字架の道へ進むのは『わたしは死ぬばかりに悲しい』(マルコ14:32)と言うほど苦しかったのです。その時にイエス様は祈り、神様とのパイプにしがみつきました。そして力づけられた(43)のです。 祈りは力です。私たちも祈りの力を信じてイエス様に倣って祈る者でありたいと思います。

 品川教会は祈る群れでありたいと思います。神様とのパイプがどんどん太く強くなっていきたいと思います。このパイプは教会を支える土台です。このパイプが太くなればなるほど教会は神様から力を与えられます。揺れに対して強くなります。祈りましょう! 

(ルカによる福音書223946)