説教記録2018年5月

 

527日 説 教―                 牧師 松村 誠一

           「神の愛に応えて、真実に生きる」

今日の聖書の箇所は、エルサレム会議の後の出来事が記されています。

11節ですが「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」と記されています。ケファ、つまりペトロがエルサレムからアンティオキアの教会を訪問した時のことです。ペトロはエルサレム会議後、パウロたちの教会、アンティオキアを視察にきたのです。ペトロは当時、エルサレム教会の代表の一人であり、偉大な指導者でしたのでアンティオキアの教会員は大喜びしたのでしょう。共に礼拝に与り、食事も共にしていたのでしょう。ところが、ヤコブのもとから、つまりエルサレム教会から人々が来ると、ペトロは彼らを恐れて、アンティオキアの教会員たちとの交わりを止めてしまったのです。

エルサレム会議で、ユダヤ人は律法を守ることを良しとし、そのユダヤ人にペトロは福音を伝え、そしてパウロは異邦人に福音を伝えていくことを確認し、それぞれその務めに当たっておりました。ペトロはあの会議で決めたように、自分の職責を果たさなければならない、ユダヤ人キリスト者をつまずかせてはいけない、という思いから異邦人たちと一緒に食事をするのを止めてしまったのです。ペトロはペトロなりに非常に配慮した行動だったのではないでしょうか。しかしパウロはペトロに面と向かって激しく非難をしています。私たちはパウロは偉大な人物だから、ペトロに面と向かって非難するのは当たり前だと思ってしまいますが、そうではないのです。当時パウロは回心して月日があまり経っていなかったのでしょう。ですから大使徒ペトロと比較もされない、小さな存在だったのだと思います。パウロはバルナバにも同様に非難をしております。パウロにとってバルナバは信仰の大先輩です。

 パウロは大使徒ペトロ、そして信仰の大先輩バルナバたちの誤った行動を1213節で激しく非難しております。13節は岩波訳では次のような訳となっております。「さらに、他のユダヤ人たちもまた、彼らと共に偽善をなした。その結果バルナバですら、彼らの偽善に引きずり込まれたのである」。ペトロもバルナバも偽善的行為を行っている偽善者だと非難しているのです。パウロがこのような厳しい言葉で非難したことは、ものすご勇気のいることだったのだと思います。パウロは、イエス様から示された人が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみであるという真理を、人間の情や人間関係によって曲げてはいけない、神の愛によってイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、人は救われる、という真理をうやむやにするわけにはいかなかったからです。パウロのこのような勇気ある発言、行動により、福音は曲げられることなく今日においてもこのように伝えられているのです。 パウロが述べております通り、福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていくことにより、私たちは救いに与ることが出来るのです。

                        (ガラテヤの信徒への手紙21114節)

 

520日 説 教―             牧師 松村 誠一

           「主の霊に導かれて」    

パウロはガラテヤの教会の信徒が律法主義に陥っている。そのことを肉に従って歩んでいるという言葉で指摘しております。肉に従って歩むとはどうゆうことでしょうか。それは神との関係を失った人間の歩みを指しております。律法を守ろうとする人間の歩みが、どうして神との関係を失った人間の歩みとなるのでしょうか。それはイエス様を信じる信仰だけでは満足できず、それに加えて、何事かを行うことで、自分の救いを得ようとする思いであります。そこには神の恵みから離れ、自己実現への道へと必然的に向かっていくのです。神はいらなくなるのです。律法主義の行きつくところは神否定の生き方であり、そこにはこれまた必然的に肉に生きることになるのです。ガラテヤの教会の律法主義者がそうでした。15節ですが、「だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」と記されておりますように、彼らは律法を守っていった時に、互いにかみ合う、ということが起こったのです。どうしてでしょうか。自分は守っている、自分は正しい清い人間である。そのように自己を理解していたからです。このような自己理解に立つときに、人は他人を裁き始めるのです。あの人は律法を守っていない。あの人の信仰はなっていない。あの人は自分勝手。あの人はだらしない。このようなことがお互いに始まるわけですから、パウロは「互いにかみ合っている」と指摘しているのです。そのガラテヤの教会の人々にパウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と勧めています。霊の導きに従って歩むには、まず聖書の言葉を聞かなければなりません。聖書に聞くときに、そこに聖霊が働いてくださり、イエス様との人格的な関係が築かれていくのです。私たちは聖書の言葉を聞く時に聖霊の働きにより、イエス様を救い主と信じることが出来る。そこにイエス様との生きた交わりが与えられていくのです。そしてイエス様との交わりが与えられた者はイエス様の愛に感謝し、その愛に応えて生きようと促されていくのです。霊の導きに従って歩み、イエス様の促しを頂きながら歩んでまいりましょう。その促しは信じる者にはっきりと示されます。

しかし自分自身が弱く、促しに答えられない時があります。主は決して弱く、ダメな人間を切り捨てたりなさいません。肉に生きようとする促しに増して、霊に生きようとする思いを与えてくださるのです。肉に生きようとする者の心の内に、その思いに支配されていいのか、と内なる声をかけてくださるのです。その内なる声を聞くことが出来るようにパウロは一覧表を記しております。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔」に支配されないように「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を追い求めてゆきましょう。

     (ガラテヤの信徒への手紙51626節)

 

 

513日 説 教―            牧師 松村 誠一

             「神の思いを受けていく」

 パウロは14年たってからエルサレムに上ったのは啓示によるものである、と述べております。このパウロのエルサレム訪問は、使徒言行録15章に出てくるエルサレムで開かれた使徒会議のことでしょう。当時エルサレム教会は、ペトロ、ヨハネ、そしてイエス様の兄弟ヤコブによって立てられていました。その教会とはユダヤ教のイエス派と呼ばれる教会でした。ですから教会はユダヤ人の教会であり、イエス様の十字架の出来事、イエス様の復活を信じていましたが、ユダヤ教の教えである割礼も受けなくてはならいという信仰でした。そしてエルサレムの教会員たちは、自分たちこそ正当なユダヤ教イエス派の信者なのだと考えていました。そうゆう人たちはパウロたちの教会、つまり異邦人教会の在り方に問題を感じておりました。彼らはアンテオキアまで来て、パウロの説く、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるという教えに否を突きつけると同時に、割礼などいらないと教えるパウロを偽使徒だと糾弾したのです。

 パウロはこのことはイエス・キリストの啓示によって知らされたことですので、放っておくことが出来ず、自らが説く福音の確認のためにエルサレムまでやって来たのです。そこでパウロはエルサレム教会の主だった人にも個人的な話し合いを行い、自分たちの信仰について語り合っております。その結果、ペトロすなわちエルサレム教会は、割礼を受けた人々を対象に福音を語り、パウロたちは割礼を受けていない人たち、すなわち異邦人を対象に福音を語るという役割分担が決議されたのです。

 パウロが言う“啓示によるものです”とはどういうことなのでしょうか。パウロはキリスト教徒迫害のさ中に、彼らが信じているイエスというお方はどういうお方なのか、そのことを知るためにパウロはイエス様に向き合ったのではないでしょうか。イエス様に向き合うことによってイエス様の人格に触れ、人間の罪は、何かを守った、守れなかった、という人間の行いによるのではなく、イエス様によって罪赦されるという神の恵みによるものであること。それはパウロの思いや、考えを超えたところに働く神の恵みによるものであることが示されたのです。啓示とは自分自身の思いを超えた、神の思いであり、そしてその思いがその人の心の内に強く働くがゆえに、自分自身では否定することが出来ない、受けていくことしか出来ない事柄となってゆくのです。パウロは啓示によってエルサレムに上り、自分の福音理解をイエス様の弟子たちと一緒に確認し、啓示によって示されたように、パウロはユダヤ人以外の異邦人伝道に全身全霊をもってあたっていったのです。こんにち、この啓示による出来事があったから、私たちはイエス様を信じる信仰へと導かれているのです。

 私たちも聖書を通して、また教会の兄弟姉妹の交わりを通してイエス様の人格に触れ、啓示を頂いて神様の思いを受けて生きる者でありたいと思います。

        (ガラテヤの信徒への手紙2110節)

 

56日 説 教―             牧師 松村 誠一

          「わたしのもとに来なさい」

イエス様は神の子、救い主として神の国を指し示し、病人や貧しさのためにあえいでいる人の隣人となり、病をいやし、困窮から救い出し、まさに救い主として働かれました。そのイエス様の働きを通してイエス様を救い主として信じ、受け入れ、イエス様に従ったのは、「重荷を負っている人、疲れた者」だったのです。イエス様はご自分の働きはこれらの人々の隣人となり、神の国を指し示していくことであり、それが神の御心であることを再確認しているのです。

27節は重要な事柄が述べられています。イエス様は、ご自分を知っておられるのは、父なる神であり、その父なる神を知っているのはこのわたしである。このわたしが父なる神を明らかにしようとして、あなたに接しているではないか。そのあなたのみが真の神を知ることが出来るのだ、と言っているのです。イエス様が示された神は愛の神であり、イエス様を死から甦らせられた神です。そのイエス様の人格に触れる時に、私たちも神の愛に触れ、死から命へと招いて下さるお方こそ父なる神であることを知ることが出来るのです。ですからイエス様は語りかけられるのです。「疲れた者,重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。

イエス様のこの言葉は、こんにちにおいても疲れた者、重荷を負う者に語りかけられているのです。

しかし、疲れている多くの人々は、イエス様のもとに行かず、自分で背負い込んで自分自身で解決しようと頑張っているのではないでしょうか。しかし現実には解決出来ず疲れは増すばかり。疲れ、重荷、不安など人間に襲って来るこれらのものからの根本的な解決が得られないから、現代社会は重苦しい空気に覆われているのではないでしょうか。このような時代だからこそ、重荷を負っている者、疲れを覚えている者はイエス様のもとに行かなければならないのです。

イエス様のもとに行くならなぜ休みが与えられるのでしょうか。それはイエス様は柔和であり、謙遜な方だからです。柔和は、貧しい者とも訳される言葉です。従いまして「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしも重荷を負い、苦労し低くされた者であるから」。そのようにイエス様は語りかけておられるのです。軛はご存知のように2頭の牛を繋ぐ器具であります。イエス様と繋がることによって、自分の重荷をイエス様が負ってくださるがゆえに、安らぎが与えられるのです。イエス様の軛を負うことにより、イエス様と真の神との関係の中へと招かれるから安らぎが与えられるのです。

                        (マタイによる福音書112530)