説教記録5月

 

529日―説教(墓前礼拝)    牧師 松村 誠一

          「信仰の証人に囲まれて」

ヘブライ人への手紙11章には信仰によって生き抜いた旧約時代の人物が紹介されています。彼らは「望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認する」という信仰をもって生きぬいた人々です。著者は旧約時代の人物の生き様を読者に思い起こさせながら、彼らは世を去っても沈黙しているのではない、聖書を通して語りかけ、信仰に生き抜いた証人として見守っていることを教えています。そして著者はこの事実を確認して次のように勧めています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。(121)この聖書の箇所はその時代の人々ばかりではなく、こんにち聖書を読む私たちにも励ましを与えてくれます。

私たちの信仰生活は、たとえで語られているように“目標に向かってひたすら走るランナー”と言えるでしょう。賞を得ようとするランナーは荷物を背負っては競技に出ることはないでしょう。私たちは神の国を目指して走るランナーです。そのためには荷を軽くしなければなりません。荷とは一人一人が抱えている重荷であり、罪です。著者はそれらを”かなぐり捨てて“走りなさい、と勧めています。重荷とは私たちの日々の生活を通してのしかかってくる様々の重荷です。仕事での重荷もそうでしょう。自分自身が今かかえている悩み、悲しみもそうでしょう。病いもそうでしょう。

それらを捨てる、とういことはどういうことでしょうか。それは“それらに自分自身が支配されないように”という意味だと思います。重荷を自分で処理するのではなく、イエス様にあずけていく、イエス様に委ねていく時に重荷から解放されてくのです。また、罪というものはまとわりついてくるものです。そのまとわりついてくる罪をそのままにしては重くて走り抜くことは出来ません。罪はイエス様によって許され、イエス様によって取り除いてもらわなければ自分で処理することはできません。重荷である罪を信仰の決断により捨てて、軽くして日々の信仰生活を過ごして行かなければ途中で疲れ果て、走ることが出来なくなってしまいます。ヘブライ人への手紙の著者は、そのことを自分の体験として知っていたのでしょう。それ故に当時のキリスト者に、またこの聖書を読む私たちに、このように勧めているのです。 

そして、著者は、信仰をもって走り抜く目標をしっかりと見るようにと勧めています。その目標とは、イエス様です。イエス様を見据えながら、そしてイエス様の周りを雲のように取り囲んでいる信仰の先達のその眼差しを感じながら信仰の道を走り抜くようにと勧めています。

今日は墓前でこのように礼拝をすることが出来ました。先に召された兄弟姉妹はこの世の様々な困難を信仰によって乗り越え、主のみもとへと走り抜かれました。その兄弟姉妹も旧約時代の人物同様に私たち一人一人を見守ってくださっているのです。その兄弟姉妹の眼差しが私たちに注がれていることを確認し、私たちも「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」

         (ヘブライ人への手紙1213節)

 

 

 

522日 お話し―           片桐 健司 兄

「友だちって何? あなたにとって本当の友だちとは」

絵本「泣いた赤おに」の話。赤おには、村の人たちと仲良くしたいと思いましたが、村人に怖がられてうまくいきませんでした。そこへ青おにがやってきて、「僕が村で悪さをするからその僕をやっつけてぼこぼこにしてくれ。そしたら村の人たちは君を信用して仲良くしてくれるよ」と言いました。赤おにはびっくりしましたが、わざと村で暴れている青おにをぼこぼこにして、村の人たちと仲良くなることができました。その後、青おにのことが気になった赤おには青おにの家を訪ねたところ、「僕がいたのでは君は村の人と楽しく過ごせないと思うから、僕は旅にでます」という張り紙がありました。それを見た赤おには、しくしく泣きました。

私たちには、人を助けたり人から助けられたりする経験はありますが、自分がぼこぼこになって(命をかけて)まで人を助けるということはなかなかできません。助けたいと思っても、ぼこぼこになりそうになると、こわくなって助けることができなくなってしまいます。しかし、あるお父さんは、吹雪のなかで自分の子どもを体で守りました。そのため子どもは助かりましたが、お父さんは亡くなってしまいました。その人を思う強い愛がそうさせたのだと思います。本当に愛する気持ちがあれば、自分の命を捨ててもその人を助けることができるかもしれません。

このお父さんと同じように、いや、それ以上に愛をもって私たちを助けて(救って)くださったのがイエス様です。イエス様が十字架にかかるときには、誰もイエス様のそばにはいませんでした。弟子たちでさえ、あの人のことは知らないとイエス様を見捨てました。イエス様は、寂しい悲しい気持ちで、十字架にかかり、心も体も傷だらけにされました。それは、私たちの代わりに自分が「ぼこぼこ」になることで、私たちを助ける(救う)ためでした。

泣いた赤おにの話は、友情をテーマとしています。友情とは何か。この本からは様々な読み取りができ、人によってとらえ方も違うでしょう。青おにのしたことがそれでよかったのか(本当に友情と言えるのか)疑問をもつ人もいるかもしれません。私は、ひとつのとらえ方ですが、自分を捨てて友だちを助けた青おにの姿にイエスの姿をみました。

バプテスト誌の6月号に東八幡教会牧師の奥田知志先生が、ユダについて書いていました。最後の晩餐で「私を裏切る者がこの中にいる」と言われたイエスの言葉に「まさか私ではないでしょうね」とユダは答えています。奥田先生は、このときユダは自分が悪いことをしているとは思っていなかった、彼は自分の内側にある罪に気がついていなかったと書かれています。「まさか私では・・・」というユダの姿は、実は私の姿でもあるのです。罪はどこか自分の外側にあるような気がしていますが、実は自分の内側にあるのです。毎日の生活の中でたくさんの不安や心配が私たちにはあります。本当に神様を信じていたらそれらは解消しているはずなのにどこか信じ切れていない私たちがいます。それが罪だと思います。そういう弱さを知っておられるイエスは、自らを「ぼこぼこ」にすることで、私たちを救おうとされたのです。

ヨハネ15章で「友のために命を捨てる、これほど大きな愛はない」と言われたイエス。これはイエス自身のことを言っているのではないかと思えます。イエスこそ、自分の命を捨ててまで私を愛してくださった、私たちにとって本当の友であると思います。

         (ヨハネによる福音書151117節)

 

 

 

515 説教―             牧師 松村 誠一

       「聖霊と聖霊の働き」

 聖霊が弟子たちに降った様子が使徒言行録22節以降に記されています。弟子たちが聖霊に満たされた時、弟子たちは喜びと勇気が与えられ、そしてイエス様が救い主であることを、イエス様が死から甦られたこと、イエス様の死によって我々は罪赦された者として下さった、その事実を語っていくという使命が与えられたのです。214節からペトロの説教が記されています。ペトロは聖霊に満たされ、声を張り上げ話し始めました。ペトロの説教を今聞く私たちに力強いペトロの説教が伝わって来ます。ペトロは「神は言われる、終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」とヨエル書を引用して説教をしております。

今朝の聖書箇所236節からペトロの説教の結論部分であります。ペトロは十字架の出来事は、イスラエルの民によって起こされたのだ、そして集まっている聴衆に対しても同様なのだ、と指摘しております。彼らは、直接にはイエス様を十字架には付けなかったでしょう。しかし聴衆は当時の祭司長、律法学者と同様にイエス様を十字架に付け、抹殺してしまう、という恐ろしい思いを持ったのです。だからペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれ」です。聖霊に満たされ、聖霊の働きに押し出されて語る言葉は、その言葉を聞く者の心をも揺り動かすのです。ペトロの説教は、イスラエルの罪の指摘と同時に、救いと赦しが宣言されているのです。救いと赦しの言葉を聞き、心打たれた彼らは、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と問うております。その問いにペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語りかけております。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることによってこそ、罪の赦しの恵みにあずかることができるのです。

聖霊とはなんでしょうか。聖霊とはイエス様、また神の意志、思い、と言い換えてもいいのではないでしょうか。しかし残念ながら神の意志、思いを思う人間の心に罪が入り込み、その思いが罪でおおわれてしまっているのではないでしょうか。聖霊は、その罪で覆われている人間の心に神の意思、思いを受け取ることが出来るように風穴を開けてくれるのです。神の意思、思いを受け取った者は、その神の思いに生きようとする者へと導かれていくのです。聖霊は、幽霊みたいに突然現れ、人を変えてしまうということはありません。聖霊は、神の言葉を通して、神の言葉と同時に働かれるのであります。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降ったのでありますが、弟子たちは、その時は何をしていたのでしょうか。彼らは心を合わせて熱心に祈りを捧げ、主イエス様の約束の成就を待ち望んでいたのです。そのような群れに聖霊が降ったのです。

私たちも神の言葉である聖書を共に読み、そして祈り、聖霊を受けて神の意志、思いを知り、その神の思いを自らの思いとして日々歩んでいきたいと思います。

            (使徒言行録23642節)

 

 

58日 説教―             牧師 松村 誠一

           「母親の祈りと願い」

イエス様と弟子たちの一行はゲネサレトの地を退き、ティルズとシドンの地方に行かれております。イエス様はその地でカナンの女に出会い、カナンの女の叫びを聞くことになります。女は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」とイエス様に訴えています。ここでまず私たちが注目しなければならないのは病いの娘をかかえる母親のイエス様への呼びかけの言葉です。母親は「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけております。福音書を読みますと、苦悩に満ちた弟子たちや、負い切れない重荷を負っている者たちがイエス様を「主よ」と呼びかけ、救いを求めております。この母親もイエス様に救いを求めて「主よ、ダビデの子よ」と叫んだのではないでしょうか。こんにち聖書を読む私たちにもイエス様に娘を癒して貰いたいという母親の思いが伝わって来ます。

しかし、イエス様は何もお答えにならなかったのであります。マタイが「イエスは何もお答えにならなかった」と記したのは、イエス様にお願いしたら、何でも叶えられる、という安易なご利益信仰をいさめているからではないでしょうか。そしてさらに弟子たちのイエス様に対する無理解を顕わにするためではないでしょうか。イエス様の沈黙に弟子たちは、我が意を得たり、ということでイエス様に「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言っております。母親にとってイエス様の沈黙、そして弟子たちのこのような発言は、相当心を痛めたのではないでしょうか。そして弟子たちのこのような発言の後、イエス様はこの母親に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか、遣わされていない」と答えております。このイエス様の発言は、神の選民であるイスラエルの民に、福音を宣べ伝えることがイエス様に課せられた使命であり、この使命を果たすことにより福音はすべての民に語り伝えられていくという、神の人類救済のシナリオを知らされている私たちは充分に受け入れられることではないでしょうか。しかし、神の人類救済の歴史を知るよしもない母親にとって、このイエス様の言葉は、あまりにもひどい言葉ではないでしょうか。

マタイはこのイエス様の語りかけた言葉を、どのような思いで自分の福音書に記したのでしょうか。それは、人間が神に本当に、心からの祈り、願いはどんな困難があろうとも乗り越えていくことが出来るのだ、それが本当の神に対する人間の真実な応答であることを伝えているのでないでしょうか。イエス様の言葉に対して「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えております。これはまさに神に救いを求めている母親の真実な言葉であり、応答ではないでしょうか。

その母親にイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」といって異邦人の娘をいやされたのです。神への祈り、願いは、忍耐強く、真実に、神が必ず祈りに応えて下さることを信じて祈り続けていかなければならいのであります。そしてイエス様による病いの癒しは、いつも神の国での出来事を指し示すために行われていくことに気が付かされます。この娘の癒しは、神の国においては、すでにすべての者がすべてのことから癒されて神の御前に迎えられていることを指し示しているのです。

      (マタイによる福音書152128節)

 

 

 

 

―51日 説教―          牧師 松村 誠一

       「天にまで達する階段」 

族長時代は、長男が一族の全財産を引き継ぐことになっており、ヤコブはその権利を母親リベカと共謀して長男エサウの家督の権利を手に入れてしまったわけです。そのことを知ったエサウは激怒し、弟のヤコブの殺害を企てます。そのエサウの企てを知った母リベカはヤコブの安全を考え、ヤコブを叔父ラバンの元へ送り出すのです。

 ヤコブ母リベカに送り出されハランに向かって旅に出ます。この旅に出たヤコブは日が沈み、そこで一夜を過ごすことになります。ヤコブはそこで夢を見るのです。ヤコブは夜、孤独の中で自分自身の人生を、自分自身のこれまでの歩みを省み、大いなる反省を迫られるのではないでしょうか。自分は何と卑劣な人間なのだろうか。そしてひとり神の前で悔い改めの時をもったのではないでしょうか。その悔い改めの中で、ヤコブは宗教的体験をするのです。それは主がヤコブの傍らに立って語る言葉を聞くという体験です。その言葉ですが「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」。ヤコブの心に内に示された言葉はこれだけではありません。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れて帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」であります。ヤコブにとってこんな言葉が与えられる。これはヤコブにとっても信じることの出来ないことだったのではないでしょうか。だからヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と告白しています。

信仰はその人の主体的な決断、行為です。しかし、この主体的決断、行為はそのまま神の側からの招きに対する応答なのです。ヤコブにまさに神の側からの招きの言葉が語られ、その語りかけがあったからこそ、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と告白せざるをえなかったのではないでしょうか。ヤコブが見た夢の情景ですが、「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。」と記されています。今までこの世の中の次元でしか物事を考えられなかったヤコブが、人間世界を超越した神の世界からの声を聞いたのです。この出来事はイエス様も語っています。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。(ヨハネによる福音書151節)イエス様は人の子、つまりイエス様ご自身によって、あなた方もヤコブと同じ体験をすることになるのだ、ということを語っております。ヤコブが体験した“神が私と共におられる”ことを私たちはまさにイエス様において鮮やかに体験し、信仰生活を送っていることに気付かされます。ヤコブの旅路とは、私たち人生を指し示しております。私たちもイエス様がいつも共にいて下さることを感じつつ、与えられた人生を共に歩んでまいりましょう。

     (創世記281022節)