2015年説教記録

―5月31日 説教―                 牧師 松村 誠一

                「あなたがたは神の民です」

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペトロの手紙一2章9節)


このペトロの手紙は小アジアの各地に離散しているキリスト者宛てに書かれた手紙です。手紙が書かれた年代は紀元90年から95年で、キリスト教を迫害したことで有名なドミテアヌス皇帝の時代だとされています。彼らは、そのような時代、堅く信仰に立ち、著者であるペトロの勧めに促され、神様から頂いた賜物をそれぞれ生かし、お互いに仕え、教会を立て上げていったのです。



 この手紙の2章1、2節に「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」との勧めが記されています。この勧めからこの信仰者の群れは、信仰へと導かれたにもかかわらず、悪意や偽り、偽善やねたみの思いから解放されていなかった、まだ未熟な群れであったことが容易に想像することが出来ます。そのような群れに、著者であるペトロは、「しかし、あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と語りかけているのです。これは出エジプト記19章6節に記されている言葉で、神がモーセに語った言葉です。この言葉によってイスラエルの民は選民意識を持ち、奴隷の民から神から選ばれた民としてのアイデンティーを持つに至った言葉です。その言葉を、ペトロは当時の信仰者の群れ、すなわち教会の人々に語っています。彼らは著者が語る神の然りの言葉によって神に選ばれた民としてキリスト教の困難な時代に信仰をもって歩んで行ったのです。

 この小アジアの各地に離散しているキリスト者の群れに語られた言葉は今日、品川教会の私たちにも語りかけられているのです。私たちもこのペトロが宛てた教会と同じように未熟で過ち多き、信仰者の群れであると思います。しかし、この群れにも神の然りの言葉が語りかけられているのです。

この語りかけは、キリスト者個人にではなく“あなたがたに”語りかけられています。つまり教会に集められた私たち信仰共同体に語りかけられているのです。この信仰共同体の中心にイエス様がいてくださり、わたしたちを“聖なる国民、神のものとなった民”としてくださるのです。

この信仰共同体の中に属している個々人は悪意や偽り、偽善の思いから解放されていない未熟な者です。しかし、この信仰共同体の交わりの中で、そのような思いは正され、覆われて、そして兄弟姉妹を覚え、兄弟姉妹に仕えていくようにと突き動かされ日々過ごしているのではないでしょうか。この日々の生活こそ、私たちがこの世に福音を広く伝えていくことになっていくのです。

        (ペトロの手紙一 2章9節)


―5月24日 説教―             牧師 松村 誠一

                     「聖霊が降る」

 使徒言行録2章には聖霊が降る出来事が記されています。この聖霊の降る出来事はルカによる福音書24章に記されているイエス様の「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節)という言葉が成就した出来事です。

 この出来事が起きたのは五旬祭の日です。この五旬祭ですが過越しの祭の翌日から数えて50日目に守られてユダヤ三大祭の一つで、収穫の祭りとして祝われておりました。この五旬祭に聖霊が降ったということはただ偶然の出来事ではなく、神のご計画によるものであることが訴えらえています。それは収穫の初めの祭りである過越しの祭の日にイエス様は救いの業として十字架にかかられ、その救いの完成を復活の出来事で示し、そしてそのことをあらゆる人々に知らしめるために神は聖霊を送ってくださったのです。

 聖霊が弟子たちに降った様子が記されています。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2章2~4節)

 弟子たちが聖霊に満たされた時、弟子たちは喜びと勇気が与えられました。そしてイエス様が救い主であること、イエス様が復活されたこと、イエス様の死によって我々の罪は赦された、その出来事を語っていく使命が与えられたのです。この出来事はおとぎ話のように聞こえますが、決しておとぎ話ではありません。聖霊が降る、この出来事を通して福音がアジア、アフリカ、ヨーロッパ、全世界に語り伝えられていく、その最初の出来事が記されているのです。使徒言行録は紀元80年頃に記されたものです。ですから福音が全世界に伝えられるという状況など、全く想像すらできない時代です。しかし、著者のルカはこれは神の約束の出来事であり、福音がエルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てまで伝えられる、神の御計画であることを知らされていたのです。だからこのような時代にもかかわらず、何の躊躇もなく、福音が全世界に伝えらえて行く、その出来事の初めをこのように記しているのです。

 ルカが書き記しているこの出来事は今でも実際に全世界で起こっています。そして今も聖霊はこの品川教会にも降っており、聖霊の働きを通して信じる者を起し、また私たちもこのように礼拝へと導かれ、主を賛美し、心燃やされております。これらすべては聖霊の働きによるものです。

私たちは聖霊の働きを受けとめ、聖霊に満たされ、キリスト者としてこの世に遣わされ、福音を語る者として歩んでまいりたいと思います。(使徒言行録2章1~13節)


―5月17日説教― (墓前礼拝)                        牧師 松村誠一  

                           「死者は生きている」

  イエス様は復活を否定していたサドカイ派の人々から質問されています。その質問とは、当時のユダヤ社会で守られていた結婚についての取り決めを盾にとっての質問です。長男が結婚をし、その夫婦に子供がなく夫が死んでしまった場合、残された妻は、その長男の次男と結婚をしなければならない、という取り決めです。当時は長兄社会であり、家督は長男に引き継がれ、その家は長男から長男へと受け継がれていく社会でした。ですから長男夫婦に子供が与えられず、その夫が死んだ場合は、その家を受け継ぐために、弟が兄に代わり、その家督を引き継いでいく、という取り決めです。サドカイ派の人々の質問は、その結婚の取り決めにより、兄が死に、兄嫁は二男と結婚し、その次男が死に、さらに三男と決婚をし、三男が死に、、、、とうとう七男と結婚をした、という例を出し、復活の時、七人の兄弟を夫にした、その妻は誰の夫となるのかという質問です。

  その質問に対して、イエス様は、「あなたたちは、聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」と答えております。“そんな思い違い”を正すためイエス様は出エジプト記3章の箇所を例にあげて答えています。出エジプト記36節ですが「神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」と記されています。ここでイエス様はアブラハムもイサクも、ヤコブも既に世を去っているが、神の御前で生きているではないか。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と語り教えています。

マルコによる福音書92節から「イエスの姿が変わる」と見出しが付いている箇所ですが、そこにはモーセとエリヤがイエス様と語り合っていることが記されています。モーセもエリヤも旧約の時代の人物です。この記事はこの地上の出来事ではなく、神の国での出来事でしょう。神の国でモーセはモーセとして、エリヤはエリヤとして、この地上の延長の命としてではなく、神によって与えられた命を頂き、命ある者として生きていることが語り示されています。この神の国を垣間見たペトロはで弟子を代表して「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言ってその素晴らしさを語っています。

  私たちはすでに召された兄弟、姉妹を覚えて墓前で礼拝をしておりますが、すでに召された兄弟姉妹は、私たちが頂いているこの地上での命ではなく、神によって備えられた復活の命、輝かしい命に生かされているのです。 今日は、このことを墓前でもう一度確認をすると共に、私たち与えられておりますこの肉体を持った命を感謝しつつ、やがて復活の命を頂く希望を持って日々歩んでまいりましょう。                                          (マルコによる福音書121827節)


―5月10日 説教―                                     牧師 松村誠一

                  「キリスト者としていかに生きるべきか」

   「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)とパウロは勧めております。初期のキリスト教会は周囲の世界から常に迫害を受けておりました。ローマのキリスト者にとってこの勧めは“何と素晴らしい教えなのだろうか”と関心して聞ける言葉ではなくとても厳しい勧めであったということを私たちは知らなければなりません。今日の私たちの取り巻く社会では、パウロの時代のような迫害を受けるということはないでしょう。しかし、ちょっとでも相手の過ちがあれば、指摘をし、非難をし、悦に入って人々が多いこの現代社会で、私たちは嫌なことを言われた、されたといっていきり立つことなく、そのことを受けとめ、その人のために祝福を祈る者でありたいと思います。

また、パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と勧めております。この勧めは、キリストの体を構成する教会の兄弟姉妹の間では基本的義務でしょう。しかし、この教会間での基本的義務を教会の外の人との関係においても行っていくようにとの勧めです。「泣く人と共に泣く」ことはそれほど難しい勧めではないでしょう。しかし「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことはとても難しい勧めではないでしょうか。喜ぶ人の喜びを心から喜べることが出来たら、どんなに素晴らしいことではないでしょうか。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と、うぬぼれはなりません。」(16節)とパウロは続けて命じております。高ぶりの思いは、教会内においても、またこの世の人々の間でも、共に生活をすることを妨げる力となっていくことをパウロはよく知っていたのでしょう。

17節からは、パウロは今まで語ってきたことを更に具体的掘り下げて、キリスト者の生き方を描き出しております。世俗社会は「悪には悪をもって返す」ことが当たり前の社会です。それは個人から団体、国家に至るまで、“悪には悪をもって返さなければ、平和は、世の中の秩序が保たれない”という考え方が浸透しております。そのような社会で、パウロは猶予を付けざる得ないことも十分に知っていたのでしょう。ただし、だからと言って、そういう人々に対して戦うのではなく、そういう人々に対しても出来る限り愛による行為をせよ、具体的には20節ですが「あなたがたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」と勧めております。そうすることによりパウロは敵の頭に炭火を積むことになり、敵は暗闇を歩む自分の歩む道がその炭火の灯りによって照らされ、歩むべき道を歩むことができるのだと、いうことを語っています。このパウロの勧めを受け入れ、日々生活していくには、イエス様を救い主と信じ、イエス様の愛によって押し出されていくことによってのみ可能となるのです。

         (ローマの信徒への手紙12:14~21節)


 ー5月3日 主日礼拝説教ー           村中 範光先生

      「神の計らいと人の思い」

イエス様は福音書の中で様々なジャンルのお話をされています。「純粋な教え」としてはマタイ福音書5~7章の「山上の教え」があります。又たとえ話を多く語っておられます。マタイ福音書には10個のたとえ話が残されています。マタイ20章1~16節は「ブドウ園の労働者のたとえ」です。

たとえ話は重要なポイントをよく理解するためによく使われます。たとえを用いるとポイントが具体的かつ卑近に感じられるのです。ただ、何にたとえられているかを理解する必要があります。ブドウ園の労働者のたとえではブドウ園の主人が神、労働者が人間、ブドウ園は様々な解釈が可能ですが、教会として理解できます。神は私達人間にまずブドウ園で働かないかと直接声をかけてくださいます。その呼びかけの時間は様々です。声をかけられて承諾した人は主人と現代風に言うと契約したのです。清算の時は最後の審判です。その時に主人は約束通りに支払いをされます。

ここで私達人間の、肉をまとって生きている弱さがでます。神との約束を忘れて、自分の尺度で働きを計算し、不平を言ってしまうのです。こんなに長く働いたのだから支払はもっと多くていいのではないか。他の人と比較して不公平だと不平を言うのです。約束されたことをそのまま受け止める 事が出来ず自分の思い、考えを中心に据えてしまうのです。罪の芽は神に背くことにあるのですから、まさに罪を起こしてしまったのです。神はしかしはっきりと「貴方は私と1デナリオンの約束をしたではないか。」と語られます。約束を守るのが約束事の大切さだと諭して下さいます。神の呼びかけは私達を教会へと導いて下さる、救いへの道へと招いて下さっている恵みそのものなのです。

このたとえ話で一番大事なのは神が直接に私達に声をかけて下さっている事です。信仰告白をして私達は神の招きを受け取ったのです。

イエス様がお示しになった2つの重要な掟の第一、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛しなさい。」十字架の縦の軸ができたのです。神との結びつきができて二つ目の横軸「隣人を自分の様に愛しなさい」の掟てが重要になります。神様から救いに招かれ受け入れて私達には関わっていく全ての人が隣人となり、自分と同じように愛するようになるのです。自分を中心に据えたり、誇ったり、優位にたっては隣人愛はまっとうされません。神の恵みの中にいる喜びと感謝の中で関わっていく人々と主なる神に共に仕えていくことが神への奉仕の中心なのです。

     (マタイによる福音書20116