説教記録6月

627日 説 教―           牧師 山中 臨在

「幸せなら手をたたこう」

詩編47:2  フィリピの信徒への手紙2:111

「幸せなら手をたたこう」を作詞した木村利人さんは16歳の時にクリスチャンとなり、戦後間もない頃にフィリピンに行き、現地の人から「日本人は帰れ!」という言葉を浴びせられ、その背景には日本人に身内を殺されたフィリピンの方々の悲しみと怒りがあることを学びました。憎み合いがこの世からなくなり、すべての人が手を取り笑い合える世界になってほしいと自分の体験を通して実感した木村さんは、「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」(詩編472)という御言葉に出会い、すべての人が神に向かって歌う、これが幸せであると感じてこの歌を作詞したそうです。木村さんの幸せの定義は、フィリピの信徒への手紙に密接に結びついていますが、それはどんなことでしょうか。

 幸せの「し」は、「知ること」です。イエス様を知り、イエス様を通して現わされた神様の愛を知ることです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)とイエス様も言っておられます。だから聖書に親しまなければならないと熱く語る木村さんの言葉が心に迫ります。

 幸せの「あ」はイエス様が十字架で示された愛です。「キリストによる励まし、愛の慰め・・・があるなら(あるのだから)、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」(フィリピ2:12)と示されているように、イエス様の愛を知るだけでなく、それと同じ愛を自分も持って、イエス様の愛を受けた者同士が思いを一つにしていくことを聖書もまた語っているのではないでしょうか。

 「わ」は輪を作ることです。「自分のことだけでなく、他人のことも」(4)考えるように、と聖書は言います。人と人が手をつないで輪を作る時、隣の人の手の向きを考えないで、自分の出した向きを全く変えようとしないなら、いつまでたっても輪はできません。輪を作るためには人のことを考えることが必要です。

 「せ」は世界です。イエス様の愛を知りそれを世界の人と手をつないで一つの輪を作ることが木村さんにとっての幸せなのですが、聖書も「すべての舌が、イエス・キリストは主である、と言って神をたたえる」(11)ことが、神様が私たちに望んでおられることだと語ります。だから私たちには、今いるところから一歩外の世界に「出て」福音を分かち合うことが必要です。

 あなたにとって幸せとは何でしょうか。イエス様を知ったら、悲しみや痛みが全くなくなるということではありません。でもその私たちの悲しみや痛みをすべて担ってイエス様は十字架に進まれました。それほどまでに私たちを愛してくださったイエス様を知り、イエス様の愛を世界の人々と輪を作って分かち合う、そんな真の「幸せ」に手をたたき、その喜びを態度で示して世界に福音を伝える者となりましょう。

 

620日 説 教―               牧師 山中 臨在

     「命こそ宝」 創世記247

623日は沖縄慰霊の日です。第二次世界大戦末期、壮絶な地上戦が行われた沖縄では多くの尊い命が失われました。米軍の攻撃だけでなく、日本軍による沖縄の住民の殺害や集団自決など、命が軽んじられた悲惨な経験から、沖縄の方々は「命どぅ宝(命こそ宝)」という思いを大切にして命の尊さを叫び続け、それは時代を超えて受け継がれています。聖書もその冒頭から私たちに、命こそ宝だと教えています。

 人は、神様によって命の息を吹き入れられ生きる者とされました。神様がご自身の命を分かち合ってくださったからこそ人の命は尊い宝なのです。そしてこのことは、神様だけが人の命を治めることのできる方であることをも示しています。人は自分の息をコントロールすることができません。だからこそ、与えられている息(命)を大切にしなければならないと思います。

 また、人の命が宝であるというのは、天地創造において最後に人間が造られたことが示しています。命を営むために必要な、水や光、食べ物を準備万端にしたところで人を造られたのです。神様は天地創造の時から、生きるために必要なあらゆる物を備えた上で人を造られたのです。特別待遇です。命はそうまでして与えられた物だから、大切にしなければならない宝です。

 さてこの命は宝物であるがゆえに取り扱いには細心の注意が必要です。神様は、土の塵で人を造られました。だからそれは大切に扱わないとすぐに壊れてしまいます。沖縄の人たちは、命が粗末に扱われるのを見てきたし、自分たちも大切に扱わなかったことの痛みがあるからからこそ、「命どぅ宝、命こそ宝」と言って、命の尊さを叫び続けています。壊れやすい命こそ大切に扱わなければならないのです。肉体的なことだけでなく、他者を傷つける言動も、相手の命を損ない、存在の痛みを与える行為です。他者に敬意を払わず、相手の言うことをよく聞かずに否定するような、私たちが何気なくやっているこのような言動もまた、土の塵のように脆い命を傷つけ壊していることを知らなければなりません。自分の命も他者の命も軽んじることは許されません。

 神様に与えていただいた私たちの命を、脆く壊れやすいこの命を生かすために、御子イエス・キリストは十字架にかかられました。御自身を犠牲にしてまで守りたいほど、「わたしの目にあなたは高価で尊い」(イザヤ書434)と私たちに対する愛を示し、命の尊さを教えてくださったのです。そして神様は「わたしを求めよ、そして生きよ」(アモス54)。とおっしゃいます。だから私たちはこの宝を守り精いっぱい生きる責任があります。また「私」と同様に神様の目に高価で尊い他者の命を尊び、他者が精いっぱい生きるように支え合う責任があります。

「沖縄の磯に」という賛美歌は、こう語ります。「沖縄の磯に、立てた十字架は 今も続く痛みのしるし。けれど十字架は 新しい命。生き抜くことへの励ます言葉。命どぅ宝 小さな命。命こそ宝。豊かな、豊かな命」。

 

613日 説教―             牧師 山中 臨在

「ありのままで・・・」ローマの信徒への手紙12:13

 「ありのままのあなたを主は喜んでくださいます。」そのような言葉を聞いて励まされ、信仰の決心が出来た方もおられるかもしれません。しかし、「あなたはありのままで変わらなくてよい」と言っている聖書の箇所はありません。むしろ聖書は「変わりなさい」と言っているようです。具体的にはどのようなことでしょうか。

 まず、この世に倣ってはならないということです(2)。この世に生きている私たちが他者と円滑に生きていくには、この世と歩調を合わせていくのはごく自然なことのように思えます。私たちはこの世の中に教会を与えられ、この世の人たちに福音を伝えていくように召されているのですから、この世を大切にしなければならないし、そういう意味では、この世と歩調を合わせることはむしろ大切なのではないでしょうか。しかし聖書ははっきりと「この世に倣ってはならない」と言います。ここで言う「この世」とは神様を信じない生き方、神様を中心としない価値観のことです。人生の土台を神に置くか、神以外に置くか、そのことが問われているのではないでしょうか。人生の土台を、ありのままの自分から神様へ移すことを神様は喜ばれるのです。

 次に、自分を過大に評価しないということです(3)。ありのままでいることは自分中心に生きることで、自分の基準に合わない人や物事を批判したり排除しようとしてしまいます。知らず知らずの内に自分を実際以上に大きく見せようとし傲慢になって他者への尊敬を失い、それを自分で気がつけないのです。また自分を過小に評価することからも変わらなければなりません。過大であれ過小であれ、それは自分の価値基準に基づいている時点で自分中心です。神様の御心に基づいておらず、自分に都合のよい信仰に陥ってしまいます。やはり土台を神様に変えて、「神様が各自に分け与えてくださった信仰の度合い」が何であるかをわきまえ、御心を聞き取っていかなければなりません。

 この世に倣うありのまま、自分を過大過小に評価するありのままから変わるために、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と聖書は語ります(1)。ありのままの自分が変わることは自力ではできないのです。神様に自分を献げ、神様に喜ばれるように変えていただくことが大切です。自分が変えられることには恐れや痛みが伴いますが、主は最善の道を備えられるという約束を与えてくださっています。ありのままの自分から一歩出て、神様の道へ移動しましょう。

しかし忘れてはならないのは、神様はありのままのあなたを愛してくださっているということです。罪深いありのままの私たちを神様は見捨てず、愛し、私たちを救いの道へ導いてくださったのです。それほどまでに神様に愛されているのだから、私たちはその愛に応えて、ありのままの自分を、神様の喜ばれる者に変えていただきたいのです。そのために、ぜひ土台を神様に置き変えましょう。

 

66日 説 教―               牧師 山中 臨在

「信頼できる機長」マルコによる福音書43541

ある旅客機が飛行中大きく揺れ始め、機内は突然パニックになり、乗客の多くが死を覚悟しました。幸い飛行機は無事に着陸しましたが、多くの客が恐怖の体験をする中、一人だけ平然としている女の子がいました。救助された時、なぜ怖くなかったのか尋ねられたこの子は「だって機長は私のパパだもん!」と答えたそうです。パパならきっと安全に飛行機を着陸させられる、という完全な信頼が彼女にはあったのでしょう。

 イエス様と弟子たちが舟に乗って向こう岸へ向かう途中突風が起こって、舟は遭難しそうになりました。弟子たちの多くは漁師で、嵐の中での舟の扱いには慣れていたはずですが、彼らにも歯が立たず、結局海のプロではないイエス様に助けを求め、イエス様が大嵐を静めました。

私たちはイエス様がいつも自分たちと共にいてくださることを信じます。しかしイエス様が共にいても、嵐は起こるのです。その嵐の中でもイエス様は、定められた目的地(向こう岸)へ私たちを必ず連れて行ってくださいます。私たちは嵐が来たらおびえます。知恵がついて来るからです。知恵をつけることで、人間は成長し科学は進歩してきました。知恵をつけることは悪いことではありません。けれど、私たちは知恵がつくにつれて、純粋に信じる思いを次第に失います。神様に信頼することを忘れます。飛行機が乱気流に巻き込まれた時、「この状況のもとでは、墜落事故もありうる」ことを学んだ大人は、恐怖におびえるのです。機長がどんなにベテランでどれほどの操縦技術があろうとも、そんなことは頭に入りません。しかし機長の娘はいたってシンプルです。「パパは私を目的地に送り届けてくれる」。何の科学的根拠もない思いです。でも少女にはとてつもない信頼感がありました。飛行機が揺れても大丈夫、パパが一緒だから!という信頼です。

 今、私たちを襲っている嵐は何でしょう? コロナ、オリンピック問題、病気、失業、政治不信、ストレス・・・数え上げたらキリがありません。イエス様を信じる信仰を持っていても、嵐は襲ってきます。私たちは心を騒がせるでしょう。イエス様を信じているから試練は来ない、のではなく、むしろ次から次へと嵐が襲ってくるかもしれません。けれど聖書が約束することは、私たちにはその嵐に対処することができなくても、主イエス・キリストは嵐に対処できる方だということ、そして主は必ず私たちを、主が導く目的地へ送り届けてくださる、ということです。

 今、私たちから主に対する信頼を失わせているものは何でしょう? あなたはどれくらい本気で主を信頼し主にゆだねているでしょう? それともあなたの知識があなたの脳に「心配しろ、恐れろ」とささやいているでしょうか?

私たちのために十字架にかかってくださった主イエス様は私たちの苦しみをすべてご存知で、その苦しみに対処される方です。私たちが全幅の信頼を寄せることのできる方なのです。そのイエス様がくださる希望の知らせをぜひ受け取りましょう。