説教記録6月

628日 説教―                牧師 山中 臨在

  「わかっちゃいるけど」  サムエル記上26:625

サウル王は、自分に忠実に仕えるダビデがいろいろな面で優秀であり評判も良いため、その嫉妬から、ダビデを殺そうと企てます。それを知って逃げるダビデに、サウル王を殺して身の安全を確保するチャンスがめぐってきますが、「主が王に立てられた人を私が殺すことを主は許さない」と言ってサウル王を逃がします。そのことを知ったサウル王は声をあげて泣き「ごめんよダビデ。私が悪かった」と和解します。しかしそれもつかの間、サウル王は再びダビデを殺そうとすることを繰り返していきます。

 サウルの弱さを表しているのは「わかっちゃいるけどやめられない」という部分ではないでしょうか。サウルも主を信じる者でした。何が正しいことであるのかをわきまえていたのです。だからダビデが自分を殺そうと思えば殺せたのに殺さなかった、それに対して自分は、自分に忠実に仕えてくれたダビデを殺そうとした、そのことを後悔して「私が悪かった」と言えてしまうのです。きっとその時は本当にそう思っていたのでしょう。でも時が経つとすぐにその思いが消えてしまう。悪いとわかっちゃいるけど、また正しくないことをしてしまいます。

 悪いとわかっていながらついやってしまうのは、サウルだけではありません。サウルと対比して、いわば「良い」人物として描かれているダビデも、後に非常に大きな罪を犯します。人妻に欲情したダビデは、彼女の夫を戦地に送って戦死させ、彼女を自分のものにしたのです。

 では、ダビデとサウルの違いは何であったのでしょう? それは主を見上げて罪を悔い改める、という点にあるのではないでしょうか? 注意深く聖書を読みますと、サウルがダビデに対して謝る時、彼は「わたしが誤っていた、お前に二度と危害を加えない」(21)と言っています。「君に」悪いことしたねえ、と言うのです。それに対してダビデの場合彼は「私は主に罪を犯した」(サムエル下12:13)と言います。まず主に対して罪の告白をしている、ここが大きなポイントです。後悔は、人に対して、あるいは自分自身に対して反省することで、あくまでも人が中心になっています。悔い改めは、完全に神様の方に方向転換して神様に自分の罪を告白すること、すなわち神中心、神を見上げることです。後悔はよくするサウルでしたが、結局主を見上げない彼は罪を何度も繰り返しました。「わかっちゃいるけどやめられない」私たちもまた主の方向に向きを変えていないのでしょう。だから悪いことを繰り返してしまいます。

そんな弱い私たちのためにイエス様が十字架にかかり、全ての人の罪を引き受けて下さいました。その十字架の前に私たちは自分の罪を告白する者でありたいと思います。わかっちゃいるけどやめられない私たちは、その都度十字架のイエス様に目を向けて祈る者でありたい、十字架のイエス様の前にひれ伏す者でありたいと思います。

 

621日 説 教―              牧師 山中 臨在

      「長いトンネル」   詩編13:26

詩編13の詩人は苦難の長いトンネルの中にいるようです。「いつまで待てばいいのですか」と主に向かって叫びますが、トンネルの出口が全く見えません。出口があるのか不安になるし、今自分がどこにいるのかもわからなくなるのが長いトンネルの恐さです。そして、暗闇の中で詩人は、主が自分を忘れていると思います。「この暗闇の中で、わたしの目に光を与えてください」(4)と叫ぶのです。

しかし暗闇のトンネルの中に実は光はあるのです。暗く不安だから光があることに気づきにくいのですが、よく見ると非常口は500メートルおき位にあって、そこへ誘導する光があります。非常口に入ると広くて明るく、常に安全な逃げ場へ導いてくれます。神様が自分を見ていないと思う私たちですが、実は私たちの方が神様を見ていないのです。神様が非常口へと光を照らして誘導してくれているのに、私たちの眼差しは、神様ではなく、困難の中で悲嘆にくれる自分の心と「敵」(不安、恐怖、孤独、怒り、妬みやその対象となる人)に向けられ、それ以外の物が見えなくなっているのではないでしょうか。

 そんな私たちに詩編13が教えるのは祈りの力です。「神様が自分のことを忘れてしまっている」と嘆いていたこの詩人は、祈りました。嘆きのような叫びのような祈りでした。しかし祈りのうちに詩人の大きな嘆きや絶望は、神様に対する信頼に変えられました。詩人を取り巻く状況は変わっていませんが、彼自身は変えられました。詩人はもう疑いに満ちた問いかけを神様に投げかけず、神様の慈しみに依り頼み、神様の救いに喜び躍り歌うと告白しています(6)。絶望の長いトンネルの中にいて祈るなどできない、と言う人もいるでしょう。でもこの詩編は祈りとは何かを教えてくれています。祈りはきれいな言葉を並べ立てる必要はなく、心の叫びをそのまま神様に向けて叫んでいいのです。「なぜ私を見捨てるのか、なぜ何もしてくれない、なんでこんなに私は苦しいのか。とにかく助けて!」とあなたの思いをそのまま神様にぶつけていいのです。それが真剣に神様と向き合うということなのだと思います。詩人は格闘のような祈りを通して、暗闇だけだと思っていた長いトンネルの中に、実は神様がたくさんの非常口とそこに通じる光を備えてくださっていることに気づかされました。全知全能の神様が、今のこの苦難を平安に変えて下さることを信じることができるようになったのです。祈りはそれほど力強いのです。

 私たちは今、新型コロナウイルスによって長いトンネルの中を歩いています。「いつまでですか」という詩人の叫びは、まさに私たちの叫びです。いや、今こそ神様に叫び続けなければならないと思うのです。だから共に祈りたいのです。私たちの嘆きも叫びも絶望もすべて神様の前に注ぎ出し、人の思いを超える神様の最善のご計画があることを信じて祈っていきましょう。

 

 

614日説教―            牧師 山中 臨在

Changeコリントの信徒への手紙二4:1418

 皆さんはご自分のことが好きですか? 嫌いですか? 自分は変わりたいと思いますか? 変わりたくないですか?

 今日の聖書の箇所から「変わること- Change」について考えてみましょう。聖書は、「この世のもの」は人の時と共に「過ぎていく」ことを私たちに気づかせようとしています。それと同時に、時と共に「過ぎていかないもの」があることを、私たちに教えています。 そのことが対比を用いて説明されています。「外なる人」と「内なる人」の対比がまずあります。外なる人は、私たちが生まれながらに持っている肉体であり、学習して得られる知力であり、意志の力、などでしょうか。これらは衰えるのです。私たちの誰もが好むと好まざるに関わらず実感させられるものです。「変わりたい」と思う人の多くは、この「外なる人」の衰えを認められない。だから衰えを止めたい、或いは隠したい、そして外なる人が衰えていないように思いたい、人からも思われたいのではないでしょうか。しかしどんなに人間ががんばっても、外なる人の衰えを止めることはできません。神様はそのように私たちを造られたからです。

衰えていく人生は実に空しいではないかと人は考えるかもしれませんが、聖書は「そうではない、決して空しくないのだ」として、日々衰える「外なる人」とは対照的に、日々新たにされる「内なる人」の存在があるのだと語ります。「内なる人」とは、主イエス・キリストを復活させイエスと共に私たちも復活させる神(14)によって私たちの内に造り出された、永遠の命を与えられた新しい人です。 それは、いつまでも肉体が死なない人ということではありません。永遠の命とは「唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ173)とイエス様は仰います。たとえ肉体が死んでも、主を信じる者は永遠に神と共に歩む希望が与えられているのです。

もう一つここに、「見えるもの」と、「見えないもの」の対比があります。私たちはやがて過ぎて行く地上の「見えるもの」にばかり目を奪われがちですが、大切なのは永遠に存続する「見えないもの」の方であるのです。目には見えないけれども確かに私たちと共におられる主を信じなさい、目には見えないけれど主に信頼する信仰を持ち続けなさい! そのことが改めて強調されているのではないでしょうか?

人間の努力で一時は私たちの見えるものは変わるかもしれませんが、しかしそれらは一瞬にして必ず衰えていきます。しかし主を信じる者は真の喜びをもつ者に変えられる、と主は希望のメッセージを語られます。自分の力や努力ではなく、主なる神様によって日々新たな者に変えていただくのです。主イエス様を信じて、希望の人生を歩みましょう。

 

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント5:17

 

 

  67日説 教―               山中臨在牧師

  「耐えらない試練」  

ローマの信徒への手紙5:111

聖書は「耐えられない試練を神は与えない」と言い、「苦難を誇りにしている」とも言います(3)。人間の論理や感情では理解できないことです。「苦難を誇りにしている」というのは元来、「苦難を喜んでいる」という意味合いがありますが、苦難の何が喜びになるのでしょう。2節は「キリストのお陰で、今の恵みに導き入れられている」と言っています。恵みとは「神との間に平和を得ている」(1)こと、即ち、私たちの罪がイエス・キリストの十字架の贖いによって赦され、救いの道が開かれ、神様との交わりが無条件で赦されたことです。私たちが苦難に遭い、「誰にもこの苦しみはわからない」と思う時、一人だけこの苦しみを体験した人がいることに気づきます。その方はこの苦しみ以上の苦しみを負い、自らの命を捨てられたのです。その人はなぜ、苦しみを味わってまで自らの命を差し出したのか?それはあなたの罪を赦してあなたと神様とが平和を得るためです。それだけではなく、この苦しみの先には希望があることをあなたに知らせるため、死より復活して、永遠の命の希望があることを先に体験し、あなたに先だって「さあわたしの手につかまりなさい、その希望の道へ導くよ」と手をさしのべているのです。苦難は、この恵みが自分にも与えられていることを気づかせてくれるから喜びなのです。

聖書は、神様との交わりのないことを「弱い」と表現します(6節)。一見強そうに見えても、神様からの栄養を得ていない人は弱く試練に遭うと倒れてしまいます。それに対してパウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント12:10)と言います。困難や試練の中にあって弱っている時も主の栄養をいただいて倒れない強さ、立っていることのできる強さをキリスト者は与えられているのです。試練を耐えられるのです。

試練の中に立つ私たちを支えているものは何かを知るうえで、「忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4)という言葉が非常に重要です。練達とは、神様の愛が刻印されていることです。苦難や試練が自動的に忍耐を生むのではありません。主イエス様を通して現わされる神様の愛を受けているからこそ、神様の栄養がゆきわたり、私たちは苦難の中にも倒れずに立っていることができるのです。そして苦難の中に立つというのは、ただじっと我慢して立っているのではなく、神様の愛が希望に向かって動かしてくださっていることです。希望に行き着いているイエス様の手にグイグイ引き寄せられているのです。

私たちは今コロナ禍の試練の中にいます。でもこの試練は希望への出発点であることを聖書は語っているのではないでしょうか。神様の愛の刻印をいただいて、「わたしたちを欺くことがない」(5)希望に向かって歩みましょう。希望に向かって祈りましょう。