説教記録6月

 

630日 奨励―                     西城かおり姉     

「愛することって、おもしろい?」

                          ヨハネによる福音書15:12

本日の聖書の箇所は、間もなく十字架にかかられ、弟子たちの傍にいられなくなってしまうことを心配されたイエスさまが、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とたとえ話をされたところです。

 私たちはぶどうの木(イエスさま)に繋がっていなければ、生きていくために必要な栄養分(イエスさまからの愛)がなくなり枯れてしまいます。イエスさまの愛は私たちの命の源ということですね。

 そして、今日の箇所12節では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と、言われました。

愛し合うということを「掟」、17節では「命令」であるとまで言われるイエスさまの言葉に、少し厳しさを感じ、自分にできるだろうか、いや無理ではないか。と感じることが私には多々ありました。・・・しなさい。と言われると急に固まってしまいます。けれど、私たちはすでに愛され赦されている、そのようにしなさいと言われていることを知ると、自分勝手な自分にびっくりしてしまいます。

その様な経験、皆さんもお持ちではないでしょうか。

 お弟子さんたちは、いつもイエスさまの傍で大切なお話を聴けてうらやましく思いますが、現在を生きている私たちにもイエスさまは色々な形でたとえ話、み言葉を理解するためのヒントを下さっているのではないかと、最近いくつかの事柄を通して知らされましたことをお話します。

ひとつは、掟を下さった方が自分にとってどのような存在なのか、どのような信頼関係にある方なのか、それによって掟の意味が違って聞こえるのではないか。ということ。(TVマルモの掟 より)

ひとつは、自分の体験と違った環境にいると思われる人に(障害のある人)どのように接したら良いか。自分も人とどこかは違っていて、似ているところもあるということ。(絵本 みえるとかみえないとか より)

ひとつは、自分と考え方、感じ方の全く異なる人と接するとき、その異なった考え方、感じ方を‘おもしろい’‘そういうのもあるんだね’と、捉えることができた時、少しその人との距離が縮まり、(TV僕らは奇跡でできている より)そしてその時、自分もまた‘お前もおもしろいよ’と赦し、愛してくださる方を思い起こすことが出来るのではないか。ということを知らされました。

 時には、おもしろいなんてとても考えられない、そんなのんきな場合ではない。という時もあると思います。そんな時、自分がぶどうの木に繋がっていることを思い出し、たくさんの栄養をいただいていることを感じることが出来れば、自分の枝の先に少し青い実がついてくるのではないでしょうか。そして実がなることを願って実を分け合えることを願って、共に互いに歩んでまいりましょう。

 

 

623日 説 教―   牧師 飯島 信(日本基督教団立川教会)

「神の愛からわたしたちを引き離すことはできない」

                                    (ローマ信徒への手紙8:3539)

今朝、10時から始まった壮年科の分級に出ていた時のことです。階下の分級からでしょうか、女性達の楽しそうな笑い声が響いて来ました。本当に楽しそうなその声を聞いた時、日隈先生・愛子先生ご夫妻、松村先生ご夫妻、そして山中先生ご夫妻と牧会者が次々に与えられている品川教会は、恵まれた教会だと思いました。

20163月末のイースターに今の教会に招聘を受けた時、私は平日は被災地への出張が多く、週2日、土日だけを担当する約束でした。しかし、実際に赴任してみると、伝道への情熱を抑えることが出来ませんでした。

まず夕礼拝を始めました。そして土曜日には、料理教室、高齢者向けの歌声サロン、中国語礼拝を始めました。一つの新しいプログラムを始めるのに、十全な準備と祈りを欠かせません。教会員が疲れては意味がありません。教会の第一の使命は礼拝の充実です。礼拝が慰めの場であり、生かされていることの感謝の場であり、遣わされた場へと赴く新たな力が与えられる場となっているかです。その事を常に神様から問われていることを覚えつつ、伝道に向かう情熱と使命こそ、新たなプログラムを立ち上げる力です。福音伝道のために、イエス様が先だってそのプログラムを担って下さっていることを信じる事が出来た時、新たな一歩を踏み出すことが出来ます。

今日の聖句であるローマの信徒への手紙ですが、ここには、 

  1. 自らの生、そして死。その一切は神様の御手の内にあり、この世のどのような権力、強大な支配者であっても神様の御手の内にある私を神様から奪うことは出来ない。

  2. 神様の愛は無限であり、神様は私たちを救うためには、その持てる全てを惜しまずに私たちに与えて下さる。

  3. 伝道の業に従事する時、この世の力を恐れてはならない。私たちを裁くのは世の権力ではなく、神様である。裁きの座においてさえも、イエス様が私たちを執り成すために共にいて下さる。

 パウロをしてこれほどの言葉を語らしめたものは何かを思います。そこには、主イエスの愛に対する揺るぎない信頼がありました。パウロは、迫害を身近に覚えれば覚えるほど、キリストの愛がパウロをさらに強く包むのを覚えたのです。それ故に、この肉体に加わるどのような試練も、主イエス・キリストの愛から私たちを引き離すことは出来ないと言うのです。

私たちは、気が付かない内に聖霊に導かれています。持てる力を尽くし、その後は神様に任せます。その業が御心に適うことであるなら、神様は聖霊によってその試みを導いて下さいます。私は、私たちが今、共に礼拝を守っているこの事実に、聖霊の働きを覚えるのです。聖霊はいついかなる時でも私たちと共にいます。祈り求めさえすれば、共にいて下さいます。聖霊こそ、私たちを尋ね求めています。

  

 

616日 説 教―                牧師 山中 臨在

      「神様 助けて!」   使徒言行録12:1~17

教会を迫害していたヘロデ王はペトロを捕えて投獄しました。厳重な監視体制のもとペトロが逃げる道は絶望的に閉ざされていましたが、ペトロの教会の人たちの熱心な祈りは聞かれ、神様はペトロを救い出しました。ペトロが教会に戻って来ても、それまでペトロの解放を熱心に祈っていた人たちでさえ、にわかに信じられないほど、それは人間の常識を超える驚くべき神様の業でした。

歩いている時に突然目の前にトルネード(竜巻)がやってきたら、地面にひれ伏せと言われます。人間の知恵がいかに優れていても、突然の竜巻の前に人間は無力で、地にひれ伏すことしかできません。それは自分の力を捨てて神様にゆだねることを意味します。人生のトルネードに遭遇した時も、私たちは伏せることです。神様の前にひれ伏すのです。

「礼拝」は元来「ひれ伏す」という意味です。つまり、礼拝は私たちが徹底的に主の前に低くなって伏し、主が高くされることなのです。「力を捨てよ、知れ 私は神」(詩編46:11)と聖書が語る言葉がまさに礼拝を指し示しています。私たちの日常生活には予想だにしなかった嵐やトルネードが襲ってくるかもしれません。神様はそこから私たちを助け出すために、私たちを礼拝に招き、自分で自分を助け出すことを捨て、主の前にひれ伏すように、そして主の助けを体験する恵みに与ることを願っておられるのではないでしょうか。ペトロやその教会の人たちにとって、ペトロが牢獄に捕らえられたことは、まさにトルネードに遭遇したような衝撃でした。このトルネードを前に彼らには力はなく、ひたすら主に助けを求めて熱心に祈りました。しかしこの祈りこそが力となって、主の助けを体験する恵みが与えられました。

牢獄から解放されたペトロは、教会に戻ってそこに留まることなく、神の大いなる業を伝えるために「ほかの所に」(17)行きました。脱獄したばかりで体力も弱っていたでしょうし、イエス様を3度知らないと言うほど臆病だったペトロが、これほど大胆に伝道の情熱をもつようになったのは、教会の人の熱心な祈りがあったからです。力のない私たちですが、祈りが結集されるとこんなにも大きな力となるのです。ぜひ共に祈りましょう。礼拝で、祈祷会で、家庭で、主の助けと導きを求めて祈っていきましょう!

「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(詩編121:1b-2

 

 

69日 説 教―           牧師 山中 臨在

         「聖霊に満たされる」

エフェソの信徒への手紙5:1521

          使徒言行録2:38

イエス・キリストの弟子たちは、イエスが十字架につけられた後恐ろしさのあまりみんなで一つところに隠れていました。イエスが復活なさって彼らに姿を現された時も、まだ大胆に証しする力がありませんでした。しかしペンテコステの日、聖霊が降って彼らは聖霊に満たされると、力を受けて、至る所で大胆にイエスを証ししました。彼らの多くはそのことゆえに殉教の死をとげましたが、聖霊に満たされた彼らは恐れることなく生涯福音を伝えてゆきました。

私達も聖霊に満たされて歩みたいものです。エフェソ1:13-14には、イエス・キリストを信じた者には聖霊の証印が押される、つまり聖霊が与えられると書いてあります。だからイエスを信じた私達には聖霊が宿っています。でも聖霊が与えられているのに、聖霊で満たされていない状態があるのです。私達は与えられている聖霊を「悲しませる」こともあるし(エフェソ4:30)、聖霊を消してしまうこともあり(1テサロニケ5:19)ます。ペンテコステの時にペトロが行った説教の中で彼は「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っています(使徒言行録2:38)。私達の心の中にはいくつもの部屋があり、すべての部屋の罪を掃除する、つまり罪の悔い改めをしなければ、心は聖霊に満たされません。きれいな部屋だけイエス様に見せて掃除できていない部屋を隠そうとしても、主はご存知で、そのことを悲しまれます。私達はすべての罪を主に告白しているでしょうか。自分をよく見せようとして隠している罪はないでしょうか。もし少しでも告白されない罪があるなら、少しでも聖霊に明け渡していない罪があるなら、私達は聖霊に満たされず、聖霊を悲しませる、あるいは消してしまうことになっているのです。

「満たされなさい」という動詞は、進行形で書かれています。つまり「聖霊に満たされ続けなさい」ということです。一度満たされたらそれで終わりなのではないのです。私達は一度悔い改めてもまた罪を繰り返してしまいます。だからその度に罪を悔い改めなさい、悔い改め続けなさい、というのです。聖霊以外に私達の心を満たそうとしているもの、告白されていない罪があるならそれを悔い改め、エフェソ5:1921に書かれているように、絶えず「賛美し語り合い、主を心からほめ歌い、神に感謝し、キリストに対する畏れをもって互いに仕え合っている」のか、吟味し続け、信仰生活を送りたいものです。聖霊に満たされて歩む信仰の道は、きっとワクワクすることと信じています。

 

 

62日説 教―             牧師 山中 臨在

「良い時も悪い時も」 (Ⅱテモテ4:15)                                                               

「御言葉を宣べ伝えなさい」とは、御言葉をそのまま伝えなさい、という意味です。自分の思想や主張を正当化するために御言葉を利用するようなことがあれば、御言葉を伝えることにはなりません。~~主義と呼ばれるものは、それがもともとは聖書から出たものであったとしても、その主義が神にとって変わるようなことになってはなりません。説教であってもそのような危険がありますから、語る者も聞く者も説教で御言葉が語られるように絶えず御言葉に接し、御言葉に聞き、祈り合うことが大切です。

 牢獄で死を目前に控えたパウロが命がけで「御言葉を宣べ伝えよ」と言っているのは「だれも健全な教えを聞こうとせず・・・人は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになる」(34)からです。これは私たちに語られているメッセージです。誰だって自分にとって良い話や励ましになる話は聞いていて嬉しいですし、逆に言えば耳に痛い話は聞きたくないことでしょう。でも聖書はあなたに都合の良いことだけを語るとは限りません。むしろ時としてあなたを斬るものでもあります。耳に痛いこと、聞きたくないと思うことも聖書は語ります。けれどそんな自分にとって都合の悪い時も、私たちは「真理から耳を背けては」(4)いけないのです。御言葉を伝えるとは、励ますことでもあるけれど、とがめ、戒めることでもあります(2)。むしろ自分に都合の悪い御言葉のメッセージを受けた時こそ、「耐え忍び」(5)ながら御言葉を受け止め、受けた御言葉を伝えなさい、とここで語られているのではないでしょうか。

 御言葉を宣べ伝えた結果、何人が教会に来てクリスチャンになったか、は問題ではありません。それは神様の仕事ですから神様に委ねればよいのです。私たちの務めは伝えることです。「(福音を)宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができようか」(ローマ10:14)と書かれているように。世の中は効率を重視します。キリスト教も例外ではないのかもしれませんが、私たちは良い時も悪い時も「うまくいくこと」ではなく「私たちがすべきこと」をするように主に召されています。それが「自分の務めを果たしなさい」と5節に書かれていることです。

 あなたによって今は良い時でしょうか、悪い時でしょうか。どんな時であっても御言葉を宣べ伝えなさいと聖書は語ります。私たち品川教会は、教会から一歩出て西品川2丁目の町内や戸越銀座の人々へ御言葉を宣べ伝える、またあなたのご家庭を一歩出て会社の同僚や学校の友人に御言葉を宣べ伝える、これが私たちの「務め」ではないでしょうか。その務めをなすのにあなたに都合の良い時も悪い時もあるかもしれませんが、主を信じ委ねて御言葉を伝えなさい、と神様は私たちに語りかけておられるのではないでしょうか。