説教記録(6月)

 

624日 奨 励 ―                 片桐健司 兄

         「愛すること、愛されること」

■学校の先生をしていると、授業中に歌い出したり、授業のじゃまをしたりする子に出会います。言うことを聞かなくて、どうしようかと困ることがあります。そんなとき、皆さんが先生だったらどうしますか? 困ったときは、イエス様だったらどうするかって考えればいいんですね。でも、イエス様はこんなときどうするのでしょう。

■羊飼いは、羊を守ります。たとえ言うことを聞かないでどこかへ行ってしまった羊でも、命がけで羊を探します。実は、羊飼いとはイエス様のこと、羊は私たちです。イエス様は、勝手なことをする私たちを命をかけて探し、救ってくれるのです。

■新聞を見ていたら、一人の女の人が男の子を預かって大変な目にあっているという話が載っていました。その子は学校にも行かず、ゲームに夢中になって、母親もどうしようもなくて、その女の人がその子を育てているのでした。中学生のその子は、ゲームをやめるようにその女の人に言われて、その女の人に暴力をふるい、その女の人は極寒の日に車の中で一晩を過ごしていました。

■でもこの女の人はあきらめませんでした。その子と、ずっと向き合って、とうとうその子は立ち直ったのです。そんなつらい思いをしながら、どうしてその子と関わり続けることができたのでしょうか。それは、その女の人に「愛」があったからだと思います。

■愛することとはどういうことでしょうか。この女の人は苦しみました。愛することは苦しいことです。

■2週間前に吉田真司先生の話を聞きました。真司先生のお父さんの吉田晃児牧師は、教会に来た人に、やり返しも止めもしないでたたかれ続けたそうです。すごい先生だと思います。どうしてそういうことができたのか。相手の人は、もっと苦しいということが分かっていたからです。愛することは、相手の苦しみが分かるということです。

■初めに話した授業中に落ち着かなかった子は、ある日、やはり授業中騒いでいたのですが、授業が終わってから私の所に来て、「先生、ごめんなさい。いけないと思っていても、できないの。」と泣きながら話しました。私は何もできなかったけれど、いつか変わると待っていました。信じていました。愛することは、待つことです。信じることです。あの女の人も、いつかその子が変わると信じて待っていたのです。

■新幹線の事件で、女の人を守ろうとして、亡くなった男の人がいました。その人は、命をかけてそばの人を守ろうとしました。イエス様は、十字架にかかり、私たちを守リ、救おうしました。苦しかったと思います。痛かったと思います。そうすることで私たちを愛してくださったのです。

■そのイエス様が復活したのです。愛は勝ちます。愛は永遠です。

                              (マタイ181014)

 

 

617日 説 教―               牧 師 松村 誠一

         「すべての人の良心にゆだねます」  

  パウロがコリント教会を離れますと、この教会にエルサレムから巡回伝道師が来て、パウロと違った福音を宣べ伝えたのです。彼らはエルサレム教会の推薦状を持っており、パウロは偽使徒であり、正しい福音を語っていないとコリントの教会員に言いふらしたのです。コリントの教会も未熟だったのでしょう、彼らが言うようにパウロは偽教師である、ということを受け入れてしまうのです。このことにより、パウロとコリントの教会員の関係は険悪な関係になってしまいます。パウロは巡回伝道師のように、エルサレム教会からの推薦状は持っておりませんでした。パウロが異邦人伝道に自分の人生をかけたのは、イエス・キリストに捕らえられたからであり、誰かから命令されたからではありません。「キリスト教徒を迫害していた者が伝道者としての道を歩ませていただいている。これは神の憐みだ。その神の憐みを受けて伝道者として働いているのだから、あなたたちから偽教師だとののしられても私は落胆しない。」と、自分の心境を語っています。 そして2節ですが、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」とパウロは語っています。パウロは巡回伝道師たちがそのような卑劣な行為をしようとも、自分は神の言葉を曲げずに真理を明らかにすることによって、その福音の正しさを証しするのだと言うのであります。 そしてその正しさはすべての人の良心に委ねるというのです。

パウロが語る、その福音が覆い隠されている現実があるならば、パウロは精一杯イエス・キリストを宣べ伝えると、自分に与えられている職務を再確認するのです。そして福音を覆い隠してしまうもの、それはこの世の神であるとパウロは言うのです。4節ですが「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」と。パウロは巡回伝道師の説く神はこの世の神だと言っているのです。つまり人間の肉欲的に生きようとする思いをかなえてくれるものがこの世の神だと言っているのです。パウロはこの世の神が福音の真理を覆い隠してしまうなら、私はさらにイエス・キリストを宣べ伝えるのだと言っております。天地を創造された神が、イエスキリストを信じる信仰において、我々の心の闇に光を照らしてくださったからであり、イエス・キリストによって示してくださった神の救いの業、それが福音なのだ、その福音をパウロは語り伝えているのです。

 

    私たちもパウロが語る福音を聞き、その福音によってイエス様と出会い、救いに与り、喜びと希望をいただいて日々歩んでまいりましょう。

      (コリントの信徒への手紙() 416

 

 

2018年6月10日 特別伝道集会   牧師 吉田 真司

 

      「神様って本当にいるの?」

2015年までの10年間、私は大分刑務所の受刑者コーラス部の指導をしてきました。そこには、様々な理由と状況の中で、法に反した行動の結果、強制的に自分の罪を見つめながら生きている一人一人がいました。私はその刑務所の活動に行く度に、自分の心を問われて帰ってくるのです。それは、クリスチャンがいつも口にしている言葉、「私は罪深いものですが・・・」という言葉が、どれほど実存からの告白になっているだろうか、と。

そしてそれと共に、「罪が赦される」ということの感謝と喜びとを、どれだけ実感を伴った告白としてささげているだろうか、と。 私はその働きのなかで、自分に対して課していたことがあります。それは「どんな人に対しても偏見をもたない」ということです。まず笑顔です。しかも上っ面でなく、真心からの笑顔です。そういう出会い方は、実際に刑務所で生活している方々は慣れておられない。いや、この「シャバ」と呼ばれる世界に出たらもっと偏見で見られて、仕事なく、家族なく、失望して、わざと法を犯して、再び刑務所に戻って行く、そういう人たちが多いのです。その一人ひとりに「普通」に接する。その「普通」の出会いは誰でも嬉しいですよ。笑顔になりますよ。相手は「あぁ、この人は自分を前科者扱いしない」と感じるわけです。 私にとって「イエス・キリスト」とは、そういう出会いを究極的に与えて下さるお方です。イエス・キリストに出会う時、それまで「お前はもう救われない。もうお終いだ」と言われ続けてきたどんな人も、「いや、そうじゃない。私にとっては、あなたはかけがえのない存在だよ」と声を掛けて頂けるのです。そうすると笑顔になるのです。誰だって嬉しいですよ。「お前はダメだ、ダメだ、ダメだ」と言われ続けてきたのに、「いや、お前は決してダメじゃないよ。」と言われたら嬉しくないはずがないですよ。

それは一言でいえば「愛」なのです。イエス・キリストは神の愛そのものなのです。その愛には限界がないのです。私たち人間の愛には限界ばかりですが、イエス・キリストを通して表された神の愛には限りがないのです。この愛に、私たちは本当に救われるのです。「神様って本当にいるの?」・・・この問いに対して、イエス様はこう言われます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」(ヨハネ14:9-10)と。「神様って本当にいるの?」・・・この問いに対して、私はこう答えます。「はい、イエス様、あなたが神のひとり子、いや『神』そのお方です」と。神であられながら人間となられ、神であられながら人間の貧しさを経験され、神であられながら鞭打たれ、血と涙を流し、叫び、そして死なれた、あのイエス様の中に、神の姿を見るのです。 

皆さん、このイエス様を信じて下さい。イエス様と出会ってください。イエス様はどんなに罪深い者をも愛して、そのお言葉で励まして、その血潮で清めて、新しい私たちへと造りかえて下さいます。イエス様は救いです。自分を罪人として認め、イエス様を信じることによって、私たちは永遠の滅びではなくて、永遠の救いに入れられます。このお方をどうぞ受け入れて下さい。

    (ヨハネによる福音書14章1~11節)

 

 

63日 説 教―              牧師 松村 誠一

            「放蕩息子のたとえ話」

放蕩息子のたとえ話ですが、ある愚かな息子が、父親を捨てて疾走してしまいます。父親は大金持ちで、いなくなった息子のことが心配で、あっちこちを巡り歩き息子を探し回わりますが探すことが出来ませんでした。そして疲れ果てて、行き着いた町に留まざるを得ませんでした。父親は富に任せ、その町に大邸宅を建て、そこに住み着いてしまうのです。父親は世の人々からも愛され、尊敬され日々過ごしておりましたが、相変わらず息子を探すことが出来ず、悲しみの中におりました。息子がいなくなり50年が経ち、死期も近づいた父親は、遺産を受け継ぐ息子もいない、いったい残された人生どのように過ごそうかと悩んでおりました。そのような中、突然息子が、この大邸宅の前に現れたのです。しかしこの息子は大邸宅の調度品の素晴らしさに驚き、怖れを抱き、逃げ出そうとします。父親は迷い込んできた青年が息子であることに気が付き、早速使いをやって、息子を連れてくるように命じます。しかし息子は驚き、逃げ出そうとするのですが、使いの者によって捉えられた息子は失神し倒れてしまうのです。それを見た父親は、いきなり息子に私が父親だ、ということを告げるのを止め、息子が心を開く時まで待つことにします。

 父親は二人の男に声をかけ、自分の息子と一緒に便所掃除夫として雇います。息子は安心して大邸宅の便所掃除夫として住み込みで働くようになります。息子は周りの人々からもよくしてもらい、充実し日々を過ごしておりました。息子は周りの人々からの好意に応えようとして、よく働くようになります。この様子を見守って来た家主は、その息子に、「しもべよ、ここに来なさい。今持っている莫大な財産を与える人を探している。お前にこの財産のすべてを受け取ってもらいたい。私は、この財産の所有主だが、これからは、お前がそうなってほしい」。ところが下男でしかないと思い込んでいる息子は、そのような話を聞いても全く関心を示さない。相変わらず自分が与えられた貧しい小屋で、質素に暮らしておりました。いよいよ死期が迫って来た父親はみんなに語ります。「みなさん、聞いて欲しい実は、これは私の息子で、私はその息子の父親である。そこで、私の財産のすべてをこの息子に任す。」と初めて息子に、また皆に明かしたのです。この話の最後は次のような言葉でとじられております。「仏の慈悲も、また、かくのごとし。」(法華経「信解品」)

 宗教学者の奥村一郎氏は「つまり如来または仏が、あらゆる方法をつくして、その尊い教えによって人を助け、育て救うのは、ちょうど、この貧しい息子に対する長者の父のようであるという。」と解説しています。

 イエス様が話された放蕩息子のたとえ話はどうでしょうか。放蕩息子がどんなみじめな姿になってしまったとしても、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と息子を無条件に赦し、受け入れています。よい人間になって初めて神に受け入れられるのではなく、罪人を無条件に受け入れてくださる愛の神であることが、このたとえ話で示されているのです。私たちは“放蕩息子”“放蕩娘”であり、そのような者をイエス様は受け入れてくださっているのです。

           (ルカによる福音書151124節)