説教記録6月

 

626日 説教―             牧師 松村 誠一

               「バベルの塔」

 「バベルの塔」の物語は文明発祥の地、シンアルの地、すなわちメソポタニヤの歴史の中で起こった出来事が前提で述べられています。聖書には“バベルの塔”として出てきますが、ジックラトウと呼ばれる階段状の建物がそれです。このジックラトウはメソポタニヤの各都市の神を祀る神殿で、宗教的な儀式が執り行われていたようです。このバベルの塔の記事が創世記11章に記されておりますが、この文書はイスラエルの民がバビロン捕囚時代に成立したと言われています。イスラエルは紀元前587年、バビロニア帝国に滅ぼされ、指導者たちは捕囚の民とてバビロンに連行され、そこでの生活が余儀なくされております。イスラエル民族にとってこの捕囚の出来事はなかなか受け入れることができませんでした。この著者は、神は何故自分たちを捨てられたのかと苦悩の中で神と対峙し、示されたことを記しているのです。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」。(111-4)バビロン帝国はまさにここに記されているように、周辺諸国を傘下に入れ、大帝国を築いていたのです。その大帝国バビロンが滅びへと向かって行くその有様を見て著者は、これは人間のおごり高ぶりによるものであることが示されたのです。“天にまで届く塔のある町を建てる”これはまさに神になることを願い、塔を建設していたのです。しかし神は、人間のおごり高ぶりをそのままにはしてはおかれないのです。7節ですが、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」と。これは人間に対する裁きと同時に救いの御手がのべられるのです。天まで上ろうとする人間に対して、神はその時、その時に適って“降って来られ”御自分の意志具体的に示されるお方なのです。

イエス様の降誕の出来事もまさに、神が降って来られた出来事です。ここに記されている“神が降る出来事”は、イエス様の降誕へと繋がっていくのです。神は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわれたのです。人間のおごり高ぶりはその限度を知らないのです。著者はそのような人間理解の上に立って、神は人間の高慢な企てに、介入し、この企てを阻止し、御自分の意志を具体的に示されたのです。

さて私たちは神の意志を伝達するお方、イエス様がへりくだって来て下さったのですから、そのイエイエス様に聞き従い、この神無き時代を信仰を頂き歩んでいかなければなりません。そして私たちは、“来たりませ主よ”と、主が再び“降って来られる”ことを祈り願って日々歩んでまいりたいと思います。

      (創世記1119節)

 

 

 

619日 説教 ―             牧師 松村 誠一

              「正しい福音理解」

使徒パウロはガラテヤ地方には第2回伝道旅行の時と、第3回伝道旅行の時に訪れ、この地で福音を語り、多くの人々をイエス・キリストによる救いへと導いております。ところがパウロがガラテヤを去り、次の伝道地に行くや否や、律法主義的キリスト者たちがガラテヤの教会に入り込んで来ております。彼らはパウロが語るイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ救われるという教えを不十分だとしてパウロを非難すると共に、さらにほかの教えを説き、ガラテヤの教会員たちをキリストの福音から引き離なそうとしていたのです。パウロはガラテヤ教会のこのような事態を知り、直ちに激しい言葉をもってガラテヤの教会員を叱責すると共に、正しい信仰について書き記したのが、このガラテヤの信徒への手紙です。ガラテヤの教会員が乗り換えようとした“ほかの福音”とはどういう福音なのでしょうか。“ほかの福音”とは人間が救われるのは確かに神の一方的な恵み、憐れみである。しかし人間の側でもそれなりに努力しなければならない、そのために律法が与えられているではないか。だから律法が命じているように割礼を受けなければ救われないのだ、という教えです。ガラテヤの教会の人々も、言われてみればその通り。自分たちもそれなりに努力をしなければならない、そのように思ったのではないでしょうか。そしてそれなりに努力することにより、自分はあれもした、これもした、という何をしたかが教会内で語られ始め、徐々に自己満足の信仰へとなびいてしまったのです。

 パウロはこのようなガラテヤの教会員の信仰の在り方を看過することが出来ず、再度改めて福音を語るのです。その福音が端的に14節に記されています。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」

イエス様の十字架の死と復活の出来事は人間の罪の赦しが人間の行為、努力など全く関係なく、全ての人間に無条件で与えられている神からの一方的なプレゼントであることを語り告げています。そして私たちがそのことを信じ、その信仰に立つ時に人間は本当に謙虚にされ、神様から創造された人間として生きる思いが与えられていくのです。

イエス様が無条件で私たちの罪を赦し、死から命へと招いてくださるお方であることのメッセージが福音でありこれ以の福音は福音ではない、ということを私たちはいつも確認をして、共にイエス様を救い主と信じ、感謝して日々過ごしてまいりましょう。

         (ガラテヤの信徒への手紙169節)

 

 

 612日 説教 ―           牧師 松村 誠一

          「罪を赦されるイエス様」

律法学者たち、そしてファリサイ派の人々とイエス様の律法理解には決定的な相違がありました。まずはその律法理解の相違についてみて見たいと思います。神はイスラエルの民を選び、この民と契約を結びます。神がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神の民となる、という契約です。そしてこの契約に基づいて民の側には、神の民であり続けるために、守らなければならないあり方が定められております。その定めが律法です。

そしてその律法の中心であるモーセの十戒は、命令ではありません。文体で言うと直説法で記されています。つまり、「殺すなかれ」ではなく「あなたは殺さない」であり、神との契約関係にある民にとっては、人を殺すことはあり得ないと受け取らなくてはならないのです。しかし、その律法がいったん人間の手に渡ってしまうと、人間は、その律法を神との関係において理解するのではなく、“律法”が神となり、また自分たちも律法の管理者となり、他者を裁く基準にしてしまうのです。旧約聖書の時代においても、いや新約聖書の時代、そして今日においてもこのような誤った理解、受けとめ方がされてきております。イエス様はそのような律法理解に否を唱えているのです。

さて、姦通の女をめぐって律法学者、ファリサイ派の人々とイエス様との会話をみて見たいと思います。律法学者たちやファリサイ派の人々がイエス様をおとしいれるために、朝早く姦通の現場に乗り込み姦通の罪を犯した女を現行犯で捕まえております。そして彼らは捕まえた女をイエス様の前に引っ張り出して、イエス様に質問をしております。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じております。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。この姦通の罪を犯した女は、ユダヤ教の律法理解に従いますと石打の刑です。イエス様が「赦してあげなさい」と答えるなら、彼らはモーセの律法を無視したかどで訴えようとしていたのです。

ところがイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えておられます。このイエス様の答えこそ、人間が律法の管理者となり、他者を裁く基準にしてしまっていることへの否の言葉ではないでしょうか。この女は神の意志のもとにある自分と共に生きるべき無くてはならない隣人なのだ、この女を裁くことがおできになる方は罪のない神ご自身だけなのだ、ということを教えておられるのです。そしてイエス様はこの女に「私も、あなたを罪に定めない」と語りかけています。罪に定めない、と宣言をした後でイエス様は「これからは、もう罪を犯してはならない」と語っております。これも命令ではなく、「もうそのようなことは出来ないだろう、というこの女に対する内的な促しの言葉です。イエス様の罪の赦しは、罪を認めているわけではありません。罪を裁かれる方だけが、罪を赦すことが出来るのです。イエス様はご自身が罪を負われることにおいて女の罪を赦されたのです。そしてそのイエス様は私たちの罪を赦されるお方であり、わたしたちにも「これからは、もう罪を犯してはならない。」と語りかけてくださっているのです。

          (ヨハネによる福音書8111節)

 

 

 

65日 説教―           牧師 松村 誠一

      「思い煩いから解放されて」

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ44

パウロは一致を見出すことができず、争いがあるフィリピの教会に対して上記の言葉を語りかけています。

教会は神と人間との関係が回復され、築かれていくところです。そして神との関係が回復された者は、同時に人間関係の回復へと向かっていくのです。イエス様は律法学者の「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ2236)という質問に次のように答えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ223739

神を愛すことと隣人を愛することは密接につながっています。神との関係が成立した者は、具体的に隣人を愛する者へと導かれていくのです。私たちと神との関係は神の一方的な赦しがあるからこそ関係が回復し、成立しているのです。その関係にある者は、他者を赦し、受け入れ、主によって一つとされていくのです。そして主によって一つとされていく時に喜びが与えられていくのです。パウロが「主において常に喜びなさい」と語っていますが、“喜びなさい”のこの喜びは、一致を欠いている者同士が、主の赦しをいただき、主によって一つへと導かれた者に与えられる喜びであります。

 パウロはさらに「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ467)と語っています。

 私たちは悩みがあります。不安もあります。苦しみもあります。しかし、悩み、不安、苦しみによって私たちの心が支配されてしまうなら、私たちは自分を見失ってしまい、思い煩うことになってしまいます。 

パウロは、今抱えている悩み、苦難、不安、それらすべてを神の御前に申し上げるなら、神が私たちの心に平安を与えてくださり、そして解決への道備えをしてくださるのだと教えています。

主によって一つとなっていく、そして喜びが与えられていく、広い心があたえられていく、思い煩いから解放されていく、神の平安が私たちの心を支配して下さる。これらは一つの輪として繋がっていることに気付かされます。私たちキリスト者もこのパウロの勧めの言葉を受け入れ、主によって一つとなり、喜びに満たされ、思い煩いから解放されて日々歩む者でありたいと思います。

        (フィリピの信徒への手紙449節)