2015年説教記録

6月28日説教―            牧師 松村誠一

     「福音はローマに、そして私たちに」

 パウロは第3回の伝道旅行を終えて、エルサレム教会への募金をもってエルサレムに行きます。しかしパウロはユダヤ人から律法を無視し、神殿を汚す者として捕えられ、殺されそうになります。その騒ぎをローマの千人隊長が聞きつけ、パウロを捕えローマの兵営の中に連行するのですが、これによりパウロは一命を取りとめております。パウロはその後ローマ総督によって裁判を受けることになりますが、ローマ市民権を利用しローマ皇帝に上訴しましたのでローマで裁判を受けるために、ローマに護送されます。パウロはローマに護送されるという仕方で、念願のローマに行くことが出来たのです。パウロはようやくローマに着くと、番兵を一人付けられますが、自分だけで住むことが赦されております。番兵によって見張りはされているものの、かなり自由が与えられていたようです。 そして使徒言行録28章17節以降ですが、パウロはユダヤ人たちを招いて、なぜローマに護送されたのか、なぜローマ皇帝に上訴したのかを説明し、そして集まったユダヤ人に対して、パウロは朝から晩まで神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようと試みております。

 

 このパウロの福音宣教によってある者はパウロのいう事を受け入れるのですが、他の者は信じようとしなかった、と著者のルカは記しております。そしてユダヤ人たちの間で、互いに意見が一致しないまま立ち去ろうとした時に、パウロはイザヤ書を引用しながら、福音をユダヤ人が拒否するのは、福音自体に問題があるからではない。これはイザヤによって預言されていることであり、神の壮大な全人類の救いの計画であることを再確認しております。パウロにより神の救いの計画を知らされている著者のルカはローマにおいてこそ、福音は語られ、救われる民が起こされていくことを確信してこの書を記しているのです。

       (使徒言行録28章23~31節)



― 6月21日 安藤理恵子先生をお迎えしての礼拝 ―

 

         「安らかに生きて、死ぬ」

玉川聖学院 学院長の安藤理恵子先生はヨハネによる福音書10115節の箇所から「安らかに生きて、死ぬ」と題して御言葉を語り伝えてくださいました。

 このヨハネによる福音書10章1節から5節までの箇所には羊飼いの話しが紹介されていますが、安藤先生はその羊飼いについてお話し下さいました。そして7節から15節までについては羊飼いについての解説で、イエス様ご自身が「わたしは羊の門である。」また「良い羊飼いである。」そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てるのだ。」ということについてお話し下さいました。以下安藤先生のお話しを要約し、記します。

聖書は、人間は罪人だと語っています。罪人とは人間同士が悪いことをしてしまった、だから罪人だ、というのではなく、真の神を神と認めない人間の性質を言っているのです。人間は本当の神と向き合うのは嫌だと、みんな思うのです。神様は葬儀の時だけで十分、自分の人生に大きく係わって下さるのは嫌、そのことが罪人ということなのです。しかし残念ながら、人間は自分の力では生きられないのです。

今タフな人間になることが求められています。いじめに遭ってもそのいじめを跳ね返して生きていける子ども。傷つけられても平気な子ども。でもこのような子どもがタフな子どもなのでしょうか。むしろそんな子どもは恐ろしい存在と言えるのではないでしょうか。本当のタフな子どもとは、傷ついても癒してくれる人がいて癒されてまた元気をもらって生きていく子どものことなのです。不安なことにあその不安を乗り越えていける子がタフな子どもと言えるでしょう。


傷ついても癒してくれる人とは、イエスのことです。イエスは「わたしは良い羊飼いである。」と言っています。羊とは私たち人間のことですね。イエスは私たちを養ってくださり、もし傷ついていたら、その傷を癒して下さるお方なのです。そればかりではありません。私たちのために命を捨てて下さった方なのです。私たち全ては“罪人”です。神の前に“罪人”は審かれる存在です。その審かれる存在である私たちのために、イエスはご自身の命を投げ出して、私たちの身代わりになり、十字架上で死んでいかれました。このイエスの中を、間を通って日々歩む者にイエスは私たちに癒しを与えて下さり、平安を与えて下さるのです。この与えて下さるというのは、一年分とか十年分まとめて、ということではありません。一日一日与えて下さるのです。

そのイエスの中を、間をということは“信じて”という言葉に置き換えることが出来ます。イエスを信じて毎日生きてゆく者に日々人間本来の生き方を示して下さり、平安な日を与えて下さるのです。そしてこの平安は死後にも続くのです。イエスの中を、間を通って、イエスから「これでいいのだ。これでいいのだ。」という神からの然りを頂いて生きてゆくことが出来るのです。

          (ヨハネによる福音書10115節)


― 6月14日 説教 ―             富田 敬二 先生

           「世にある教会の使命」

【聖書の宣言】

聖書は創世記(旧約)から始まり、黙示録(新約)で終わります。神の聖手になる世界(含む人間)の創造から、新天新地の実現までの壮大なパノラマです。別の言い方を用いるなら『神様からの人間へのメッセージ』なのです。神が創造されたものは『光り』も『水』も『天』も『地』も全て『良し』だったのです。創造の冠『人』もです。がその『人』が罪を犯して、『良し』とされたすべての物が『悪』となったのです。毎日『戦争』『天災』『地震』『殺人』『自殺』等のニュースは絶えません。天災や自然災害は『人間の責任』ではないと言えますか。『氷の結晶』の写真を見ると『水に感情・感覚があるのです』これには返す言葉がありません。

【旧約と新約の狭間で】神に創造された『全ては美しく完全で誤りが無かった』のです。がしかし、『神の像に似せて造られた人』が『罪』を犯したのです。教会は『アダムの原罪』と呼んでいますが、彼だけではありません。最初の人殺しはその長男カイン(創48)でした。『聖書』の最初から『背き』『追放』『殺人』物語なのです。それ故に『人類救済の約束の書』なのです。今朝の聖書の箇所です『聞け、イスラエルよ、彼らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽

くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と。人知で知る

神ではなく『全能者で創造者なる神』を心に迎え『約束の救世主』を待ち望むのです。

【救い主の出現】

旧約聖書の約束は2000年前に実現しました。それを『新しい約束の成就』すなわち『新約』と呼んだのです。『新約』とは『神の み子イエス・キリスト』のことなのです。イエスは『神の子』と呼ばれています。旧約のイザヤ書やミカ書に『神の子』の預言があるのです。」新約の福音書にはイエスの奇跡物語りがあります。嵐を静める(マタイ823~)等です。そのイエスが現代の『教会への命令』です。『一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民をわたし(イエス)の弟子にしなさい。命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は・・・いつも・・・共にいる。』と。教会こそ福音の伝道者なのですよ。

♦今日の聖句 ♦  

・聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記64,5

・イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によってバプテスマを授けあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは・・・いつも・・・共にいる。」

                   (マタイによる福音書2819~)


―6月7日 説教―                                 牧師  松村 誠一

                            「人々はしるしを欲しがる」

 「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」(マルコによる福音書8章11節)

  いつの時代でも同じだと思いますが、しるしや不思議、奇跡を起して見せたら、信じようという人々が大勢いるのではないでしょうか。イエス様の時代もそうです。ファリサ派の人々は、イエス様にしるしを求めております。多くの群衆がイエスのもとに集まって来る、しかもイエスは先祖伝来の律法を軽視している。このイエスを陥れようという魂胆をもって、しるしを求めたのです。

 イエス様は彼らの求めに対して「心の中で深く嘆いて言われた」と記されております。神を試みようとする人間の傲慢さに対する憤りが、嘆きとなったのでしょう。そしてイエス様は「どうして今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」。と言われ、そして彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸に行かれました。

 イエス様は今日においても「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と語りかけているのです。それではイエス様が神の子、キリストであることは、私たちはどのようにして信じることができるのでしょうか。それは、イエス様の生きざまを通して信じることができるのではないでしょうか。イエス様の地上での歩みが他ならぬ神の子、キリストのしるしなのです。イエス様は罪人の、病の中にある人の友となり、あるいは、この世から捨てられ孤独の中にいる人の友となり、生活を共にして神の然りを語り伝えられました。

 マルコによる福音書、15章33節以降には、無力に死んで行かれたイエス様の姿が記されています。そしてそのイエス様の姿を見て、百卒長は、「本当にこの人は神の子だった」と告白をしております。そこには奇跡も、不思議も起こっておりません。しかし神の子、キリストだからこそ、罪ある人間のなすがままに、十字架へと歩んでゆかれたのです。そして人間の罪がいかなるものであるかを明らかにし、その罪を無きものとするために、従順に死んで行かれました。そのイエス様の生き様を通して、私たちはイエス様が私たちの救い主であることが示され信じる信仰へと導かれたのではないでしょうか。

私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に導かれているのですから、信仰に不思議や奇跡、超自然現象を求めるのではなく、イエス様の生きざまに促されて歩む者でありたいと思います。そしてそのような歩みには、神様の出来事がいっぱい起こされていくのです。その神様の出来事を皆で拝し、信仰から信仰へと共に歩んでまいりましょう。

                 (マルコによる福音書8章11~13節)