説教記録6月

626日 説 教―           牧師 山中 臨在

    「私は何者だろう」 出エジプト記2:1125

イスラエル人でありながらイスラエルを支配するエジプトの王宮で育った モーセは、イスラエル人を助けてもイスラエル人から疎外され、やがてエジプ ト王からも指名手配され異国へ逃亡し、寄留者としての生活を余儀なくされます。そんなモーセに主は、イスラエル人を率いてエジプトから脱出させるリー ダーとなるように命じますが、自分は一体何者なのかわからないモーセはそれ が理解できずに苦しみます。

あなたは何者ですか。親、学生、社長、教師・・・。自分が何者であるかを 知っていると、自分が何をすべきかが明確になりますが、その「何者か」が崩れた時、今までのアイデンティティが失われ、途方に暮れ、絶望に襲われることもあるかもしれません。

仮設住宅で生活をしておられる震災の被災者の方々を訪れた時、彼らもまた 寄留者なのかもしれない、と思いました。顔見知りのいる仮設住宅に入っている人はまだしも、震災のために、日本全国に散らばっている被災者も多くいま す。被災地から来たというだけで疎外され、厄介者扱いされる体験をした方々 は、その不条理さの中で、一体自分は何者なのだろう、と思われたことでしょ う。彼らが行きたくて行った場所ではありません。モーセと同じように逃げる ようにして仕方なく来た土地なのです。被災者に限らず、社会からつまはじき にされている方々、見捨てられたと感じる方々は世界のあちこちにおられます。 自分がどんな存在であるのかわからなくなり、挫折や苦しみを味わう時、私たちはどう感じるでしょうか。

しかし聖書は、私たちがどんな存在であっても、挫折し苦しむ私たちに、神 様の方から出会ってくださると語ります。自分が何者かわからず途方に暮れて いたモーセに神様の方から出会ってくださったように。そして神様は「わたし はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守る」(創世記 2815)と約束してくださる方です。私が「何者」であっても、「神の子」と いうアイデンティティを与えてくださり、それはこの世の価値観と違って変わることがありません。

そして神様は私たちに「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエ ジプトで寄留者だった」(申命記 1019)と言います。「挫折に苦しむ人がいたなら、あなたたちはその人たちを愛しなさい。挫折し苦しむあなたたちに神様が出会ってくれたように、その人たちの苦しみにも神様が出会ってくださる ことを思っていたわり合いなさい」と私たちに語りかけておられるのではないでしょうか。

あなたの周りにいる人は今、どんな痛みや挫折を味わっているでしょうか。 自分が何者であるのかを見失ってうめいていないでしょうか。この世の価値観 ではあなたとその人は異なる「何者か」でしょう。けれども神様はあなたのこともその人のことも「神の子」というアイデンティティを与え、いつも私たち を顧み心に留めてくださる方です。永遠に変わることのないその方をぜひ信じて歩んでいきましょう。

 

619日 説 教―              牧師 山中 臨在

   「命の源」  創世記2:47

第二次世界大戦の末期、日本で唯一地上戦となった沖縄で日本軍による組織 的な戦闘が終結した623日を、沖縄県では、戦争の過ちを二度と繰り返さずに世界の平和を祈る日としています。沖縄の方々は「命どぅ宝(命こそ宝)」 という思いを大切にし、命の尊さを叫び続けておられます。命こそ宝。それは 聖書が私たちに語るメッセージでもあるのではないでしょうか。 創造主なる神様は、人間に命の息を吹き入れて生きる者としてくださった命 の源です。人間は土の塵で造られたとても脆い存在です。すぐにしぼんでしまう風船のようです。苦しみ悩みすぐにしぼんでしまう私たちに、神様は命の息 を吹き入れてもう一度ふくらませてくださいます。私たちを放っておかず、いつも私たちと共にいて私たちに息を吹き入れ続けてくださるのです。何と心強いことでしょう。

他者の命もまた壊れやすくしぼんでしまいやすいものです。命の源は神様で す。命の取り扱いができるのは神様だけなのです。それなのに、私たち人間は 神様を差し置いて命を支配しようとしているのではないでしょうか。今世界の あちこちで戦争が起こっています。自国を守るために敵を撃退しようと必死の 戦いが繰り広げられています。敵が撃退されると喜び安堵するのが人間の心理 です。しかし撃退され死んでしまった敵の命の源は神様なのです。人が神様に とって代わって命の源になることはできません。命の源ではない人間が他者の 命を支配することはできません。他者の命もあなたの命と同様、土の塵で造ら れた、風船のような脆い存在なのです。

戦争は「互いに愛し合いなさい」という御言葉に逆らう恐ろしい罪です。戦 争は人を狂わせます。理性を失わせます。人から愛を奪います。でも残念なが ら人間はその初めから争いをしてきました。自分の都合のためには他者の命を 排除してもよいという思いを持って来ました。それは命の源である主のみ旨に 逆らうことです。戦争で殺された沖縄の人たちすべてが米軍に殺されたのでは ありません。日本軍による沖縄住民の殺害や集団自決もありました。だからもう二度と、人の命を軽んじるようなことをしてはいけないのだ、という思いが 「命どぅ宝」にはあるのです。

人生は素晴らしいものです。でも人生は苦しいこともたくさんあります。何 かに傷つき疲れてすぐにしぼんでしまいます。そんな私たちに主は「わたしを 求めよ、そして生きよ」(アモス書 54)と語ります。私たちは、しぼんだ時 には命の源である主に助けを求めることができます。なぜなら主はいつも私たちのそばにいてくださるからです。そしてしぼんだ私たちに主が命の息を吹き 返してくださるのです。この恵みを信じて歩む人生はなんと素晴らしいことでしょうか。

 

612日 説 教―         牧師 山中 臨在

「キリストの香り」  Ⅱコリント21417

今日(612 日)は「花の日子どもの日」の礼拝を献げています。花の日 子どもの日には、よく子どもたちが礼拝のあと、地域のために働いてくださっている警察署や消防署などに花を持って出かけて日頃の感謝を表します。ところで花は、色彩豊かで視覚を喜ばせる役割がありますが、もう一つ、香りを放つ特徴と役割があります。花の香しい香りに心が和み喜びが与えられるでしょ うし、また香りがすることで、その花が見えていなくてもその花が近くにある とわかります。聖書は、「神はわたしたちを通じて、キリストを知るという香りを漂わせる」(14)と言います。言い換えると、私たちはキリストの香りを 放つ役割が与えられているのです。目に見えないキリストですが、私たちに接 することで「ああ、確かにイエス・キリストがここにおられるのだな」「イエ ス・キリストの愛は素晴らしいな」ということが伝わり、それによってキリス トの希望、喜び、慰め、励ましが人に与えられていく、そんな務めを私たちは 仰せつかっているのです。

ところで香りがしない花もあります。実は花の香りは人間のためではなく、 虫のためにあるそうです。花は虫を誘って、虫に花粉を運んで実や種ができる のを助けてもらうのです。花はそれぞれに香りを持ち、人間が感じない香りで あっても虫にとっては誘われる香りがあるのです。キリストの香りも、「良い 香り」(15)だと書かれていますが、しかしそれを感じない人もいます。中に はその香りを不快に思う人もいるでしょう。神の言葉である聖書が放つ香りも 時として人の心には不快に思われることもあるでしょう。しかしイエス・キリ ストのメッセージを受け取った時に、今まで感じなかったあるいは不快だった 香りは「命に至らせる香り」に変わっていくのです。

また「神の言葉を売り物にするな」(17)と聖書は語ります。純粋に神様の 言葉を伝えるのではなく、人に好まれるように不純なものを加えて聞こえが良いものに御言葉を変えてはいけない、というメッセージです。これは、キリス トの香りを放つ役割をいただいている私たちの香りは、実は人を喜ばせるので はなく、神様を喜ばせるためのものなのだということではないでしょうか。神 様を喜ばせることは、旧約聖書に描かれているいけにえ、犠牲のことです。イ エス・キリストは私たちの罪の犠牲となって十字架にかかられました。私たち はそのキリストの犠牲によって救いの道が開かれましたが、「わたしたちはキ リストによって神に献げられる良い香りです」(15)とあるように、私たちも また自分を神様に喜ばれるために献げ、それによってキリストの香りが至る所 に広められるように召されています。そのために、神に属する者(17)である 私たちは、神様の言葉をそのまま誠実に(17)伝えていかなければなりません。 キリストに結ばれて私利私欲なく御言葉を語ることがキリストの香りを放つ ことなのです。

私たちは、家庭、近隣、職場、学校で、いつでもどこでもキリストの香りを 放っているでしょうか。私たちの教会が、地域の方々に、キリストの香りを放 っていくことができるように共にお祈りしましょう。

 

65日 説 教-              牧師 山中 臨在

    「BIG BOSS」使徒言行録2:113

今日(65 日)はペンテコステです。イエス様が復活してから 50 日後に 聖霊が降り、聖霊の力を受けた一人一人は自分自身の言葉ではない言葉で福音 を語り始め、やがてイエス様を信じる人たちが起こされて教会が誕生していき ました。ペンテコステの出来事が起こった時、「一同が一つになって集まって」 いました。イエス様の弟子たちは皆イエス様に導かれ一つのグループとして活動してはいましたが、最初から一つになっていたわけではありません。彼らは 「この中で誰が一番偉いだろうか」という議論をしていたのです(ルカ 946)。 イエス様が自分の十字架の死をあらかじめ伝えた時、彼らは動揺しましたが、 弟子の一人イスカリオテのユダは師匠のイエス様に失望したのか、お金に目が くらんだのか、イエス様を裏切ります。これはすなわち仲間を裏切ることでも あります。イエス様が復活して弟子たちの前に現れた時にいなかったトマスは、 仲間が「復活されたイエス様がオレたちの所に来てくださったよ」と言っても、 それを信じませんでした。皆自分中心で、自分が一番(ボス)だと思っていま す。だからなかなか一つになれませんでした。

そんな彼らが「一つになっていた」のです。イエス様が十字架につけられた 時、そして復活の後昇天された時、自分がボスになろうとしていた彼らは十字 架のイエス様、昇天されるイエス様を見て、「イエス様より上に行くことがで きない」ことを実感しました。イエス様こそボスの中のボス(BIG BOSS)だ ということを悟りました。世の中にいろいろボスはいますが、その人たちが皆、 ボス中のボスを見上げる時に初めて、皆が一つになれます。

さて弟子たちは一つになって集まって、何をしていたかというと、彼らは祈 っていたのです。一つになるということは、ビッグボスである主に向かって皆 が祈ることです。聖霊の臨まれることを一つになって祈る時に、福音は前進し ます。私たちも真のビッグボスを見上げて一つとさせていただき、共に祈りましょう。祈りなくして聖霊の力を受けることはできません。聖霊の力を受ける ことなくして福音宣教は前進しません。

聖霊の力を受けた弟子たちは、それぞれに異なる言葉が与えられました。全く知らなかった言葉を話せるようになり、全く予期していなかった所の人たち に福音を宣べ伝えることになりました。必ずしも自分の行きたかった所や伝え たかった人たちではなかったかもしれません。福音宣教の困難もたくさんあり ました。けれど、この真のビッグボスの采配には間違いがありません。私たち も信仰生活を送る中で、あれがしたい、これはしたくない、そんないろいろな 思いがありますが、しかしビッグボスである主がお命じになられたならその道 を信じて歩みましょう。その道は間違いがないのです。

イエス様が捕えられて一目散に逃げた弟子たちは、聖霊の力を受けて大胆に 福音を語る者に変えられました。真のビッグボスである主に委ねる時、聖霊の 力は私たちを変えてくださいます。