説教記録7月

725日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

「新しいエアコン」マタイによる福音書 9:1417

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、人々と食事をしているイエス様に対して「あなたも私たちのように、律法で定められている断食をすべきではないですか」と言いました。貧しい人や罪びととして社会から軽蔑されているような人々とよく食事をされていたイエス様は、それに対して、律法を行うことが救いの手段であるという古い教えではなく、イエス様が与えてくださる新しい契約に生きることで救いが与えられることを教えようとしています。それは、イエス様と共に生きる、ということです。婚礼の宴会で花婿がいるのに悲しんで断食する人はいません。花婿である主と共にいてその恵みにあずかることによって信仰が与えられ救いが与えられるのです。食事は、主が食卓にも私たちと共におられることを喜ぶ大切な時です。

 断食せずに新しいぶどう酒であるイエス様と共に食事をすることを快く思わない人たちのことを、主は「古い革袋」にたとえます。新しいぶどう酒は、勢いよく発酵するので入れ物を膨張させようとします。伸縮性に富んだ新しい革袋だとぶどう酒が発酵してもうまい具合に伸びて調整をするので革が破れることはありませんが、弾力性のない古い革袋だと、ぶどう酒の膨張に耐えられずに破れてしまいます。イエス様(の言葉)には力があり躍動感があります。しかしイエス様の言葉を信じない、または信じているけれど信頼しきれない人は心の弾力性を失った古い革袋であり、イエス様を受け入れる器になれません。だから私たちは、イエス様を受け入れることのできる新しい革袋にならなければなりませんが、実際どうしたら私たちは新しい革袋になれるのでしょう。私たちは日に日に古くなっていきます、どんどん頑なになり、新しくなることはほぼ不可能ではないでしょうか?

 

新しい革袋になるためには、古い革袋は一度破れる必要があります。古い革袋である私たちは新しいぶどう酒であるイエス様を受け入れようとすると、イエス様の躍動感のある力を支えきれずに破れてしまうでしょう。でも破れた私たちを、主は見捨てず、新しい革袋に変えてくださるのです。古い自分が破れることは痛みが伴いますが、痛みの先には、主と共に歩む希望があります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)と聖書は語ります。

イエス様の御言葉をいただき主と共に歩むことによって、主は私たちを新しい器へと造り変えてくださいます。その新しさは私たちのためではなく、主に栄光を献げるためのものです。品川教会には新しいエアコンが設置されましたが、これは私たちの快適さのためでも教会の自慢のためでもありません。私たちが神様に集中して礼拝を献げるためのものです。すべては神様の栄光のためにあります。古い自分を新しい者に造り変えてくださる神様の栄光を表して歩みましょう。

 

718日 説 教―         牧師 山中 臨在

  「真夜中の賛美」  使徒言行録16:2534

  獄中で真夜中にパウロとシラスが賛美しています。彼らはとても歌を歌えるような状況にはありません。裸で鞭打たれた上に木の足枷が足にはめられています。鞭で打たれたら人間は声が出なくなるのです。また足枷があるため、鞭で打たれたあとにほっと息をついて横たわることもできません。しかも牢の一番奥に入れられていますから、この苦しみから逃れる道は絶望的に閉ざされています。右を見ても左を見ても闇の状況。こんな状況でよく歌が歌えたものです。彼らはどこを見て何を思って賛美の歌を歌ったのでしょう?彼らは右でも左でもなく、上を見たのです。私たちはいつも「上」の存在を忘れます。闇を照らす真実の光は「上」から注がれるのです。解決は前後左右にはありません。私たちはその「上」の方、主を礼拝するように招かれている者であることを忘れてはなりません。

 牢獄で真夜中に囚人が二人歌っている。これは異常なことです。普通だったら、他の囚人も看守も怒るでしょう。しかしこの時、他の囚人達はパウロたちの賛美の歌に聞き「入って」いたのです。これはもう人の心に触れる感動があったとしか考えられません。人間業ではないのです。そこに突然の大地震が起こり、牢獄の戸が開きました。この地震に一番揺れたのは、看守の心でした。もし囚人達が脱獄したら、看守がその責任を問われます。今まで安泰だった自分の人生の土台が大きく崩れ、彼は自殺しようとしますが、その時、看守には信じがたい出来事が起こりました。囚人達は誰も逃げなかったのです。看守は、何物によっても揺れ動くことのない土台を持っている人がいることを目の当たりにしました。「これは本物だ!」看守は思わず「救われるためにはどうすべきでしょうか」と聞きました。それに対してパウロたちは「主イエスを信じなさい」と言いました。前後左右ばかり見ていても救いはない。救いは「上」のお方、主イエスにあるのだということが実に説得力を持って語られ、看守の心の中にしっかりと刻まれた瞬間でした。

私たちが礼拝に招かれるのは、必ずしも自分に都合がいい時とは限りません。それは真夜中、最も都合の悪い、最も礼拝にふさわしくないと思う時でさえあります。真夜中こそ、私たちは前後左右ではなく、「上」なる方を礼拝するように招かれているのです。新型ウイルスの蔓延で集まることが難しくなり、感染の恐怖が襲ってきた私たちの心が揺れた時、解決の道がないと思われた時も、私たち教会は礼拝に招かれました。思いもかけない病が与えられ不安が襲った時も、日常生活の中で疲れを覚え聖書を読む気力さえ失われた時も、教会の中で様々な課題・問題が起こった時も、神様は一度たりとも「じゃあ今は礼拝しなくていい」とは仰らなかったのです。

 私たちが置かれているのが、朝でも昼でも真夜中でも、いや真夜中にいる時こそ、「上」なる方を見上げて心からの礼拝と賛美をささげていきたいのです!

 

711日 説 教―    松村 誠一 牧師

「互いに愛し合いましょう」ヨハネの手紙()4:712

岡田富美子(那覇新都心キリスト教会)先生が今日の聖書箇所を説教されたその概要を以下にご紹介します。

外からは迫害を受け、内では分裂。幾重にも傷を負った2世紀のヨハネ教会。この教会の群れを癒し、再構築するために書かれた手紙です。ヨハネ福音書、告別説教の中でイエスが語った「愛の掟」を深めていった時の、実践版がここにあります。愛が神御自身の本質であるという教えの究極的な源となっています。共同体メンバーへの声かけです。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」。「互いに愛し合う」という言葉はヨハネ福音書13章にも出てきます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(34)。ヨハネ福音書では主語は「あなたがた」です。でもヨハネの手紙での「互いに愛し合いましょう」の主語は「わたしたち」なのです、と。先生はここでハワイのモロカイ島のハンセン病の病棟で奉仕されたダミアン神父のお話を紹介されました。

ダミアン神父は御自身が発病するまでは、「あなた方ハンセン病のかたがた」と語っていましたが、ご自分の体に発病の印を見たとき、「あなたがた」から「わたしたち」と言葉が変化したように、ヨハネ教会も内外の問題が差し迫ってくるや、「あなたがた」ではなく、「わたしたち」に変化しました。その「わたしたち」には神がともなってくださいます。「それゆえに私たちは互いに愛し合う存在なのです」と岡田富美子先生が一人一人に語りかけられているその語りかけに、本当に心動かされました。

 私たちはどうでしょうか。神の愛を頂いた私たちは、神の似姿として創造された存在へと再創造されていくのです。だから私たちは互いに愛し合っていく存在なのです。互いに愛し合うということは具体的にどういうことでしょうか。それは他者の為に損をするということです。現代社会は全てのことにおいて、いつも得することばかり考え、行動しているのではないでしょうか。そして得することを考えて行動し、それが損に繋がってしまった時は怒りを覚えます。愛のゆえに損をすると、喜び、感謝、平安が与えられます。

 損をする、それは考え方においてもそうでしょう。自分の考えと違うと、すぐに否定し自分の思いを言い張るのではなく、他者の考えを、思いを、理解し受け入れていくことが望まれているのです。また金銭的にも、時間においても、労働においても、他者のために損をしていくことが望まれているのです。でも何が何でも損をしなさいではありません。神の御心に叶った損です。そのバロメーターは、損をして喜びがあるか、どうかです。

教会で、御言葉を共に読み、主の霊が働いてくださり、神の愛の迫りの中でエゴが砕かれ、互いに愛し合い、大いに他者のために損をし、喜びと平安の中で信仰生活を送ってまいりましょう。

 

74日 説 教―            牧師 山中 臨在

「腰痛、ヤバい!」エフェソの信徒への手紙4716

主は私たち一人一人に賜物(務め)を与え、キリストの体である教会を造り上げるために各自その務めを果たすことを期待しておられます。教会は全く異なる一人一人が補い合ってしっかり組み合わされてできています。人間の体のすべての筋肉がまんべんなく使われないことによって腰痛が起こるのと同じように、キリストの体も、一人一人がその務めを果たして互いに協力しなければ不具合を生じて痛みが生まれます。

 一人一人が務めを果たすために、聖書が与えるアドバイスは「おのおのの部分は分に応じて働く」(16)ということです。全員務めを果たせと言われると、プレッシャーを感じる人もいるでしょうが、そういう人にも、神様が与えられた務めがあるのです。それがその人に神様が託された「分」です。自分の分に応じた務めを果たすことがキリストの体には必要です。言い換えれば、自分の分に応じた働きをしさえすればいいのです。自分の分以上の働きをする必要はありません。自分の分以上の働きをすると、他の部分が正常に働かなくなって体は腰痛を起こします。自分の務めをしない人がいても、自分の務め以上の働きをする人がいても、体全体のバランスが崩れ、体は故障してしまい、結局どの部分も痛みを負うことになってしまいます。

 教会において、牧師は職分であって、身分ではありません。牧師という務めが他の信徒と異なるだけで、その務めの重みは他の信徒の方々と同じです。牧師であれ役員であれ誰であれ、教会の一人一人が互いに力を合わせて、教会の頭であるイエス・キリストの下で(15)、イエス様にいただいた自分の分の務めを行うように召されています。教会は、自分の霊的成長と信仰生活のためだけの場ではありません。「共に」神の国を造り上げてゆく共同体です。

 

 一人一人が、自分の分に応じた働きをすることで得られる恵みは何かというと、一人一人が無理することなく、キリストの体が健康を保てることです。そうなれば、頭であるイエス様を見上げ、その御言葉に触れ、祈る時間が増えます。それによって体の成長に必要な栄養を豊かに受け、イエス様に向かって成長するのです(15)。体の一部に負担がかかって腰痛などを起こすと、その痛みがイエス様に向かう集中を妨げ、イエス様が十字架にかかるほどに自分のことを愛してくださっていることや、この自分の存在を価値あるものだと言ってくださっていることに気がつけなくなるのです。主イエス様は、未熟な私たちをとことん愛し決して見捨てず、故障した体からの回復の道を優しく示し続けてくださいます。その愛に応え、私たちも一人一人、自分ができないと思ったり拒んだりしている自分の務めは何なのか、あるいは、自分が分を超えてやろうとしている務めは何なのか、御言葉に聞き、祈りながら主に聞いていきたいと思います。