説教記録7月

726日 説 教―               牧師 山中 臨在

   「すごい!」  マタイによる福音書1319

イエス様が種まきのたとえを語り、土の固い道端や、土のすぐ下に石があって根をはることができない場所や、雑草が根の成長を阻む茨ではなく、イエス様が播いて下さる愛の種が育ちやすい良い土地となって御言葉を素直に受け入れなさい、というとても大切なことを私たちに教えています。その他にこの箇所から学ぶべき「主はすごい!」という点を3つ考えましょう。

 一つ目は、イエス様の蒔かれる種は良い地に落ちて30倍、60倍、100倍になることです。通常、実の大きさは5倍からせいぜい10倍くらいだそうです。しかしイエス様の播かれる種は30倍以上、100倍の実を結ぶというから、どれだけ大きな収穫であり、どれだけそれによって人生が豊かになることか、想像することもできないくらい「すごい」ことなのです。神様の恵みはそれほど尋常ではないのです。自分では見過ごしてしまって気がつかないたくさんの「すごい」主の恵みに気づくのが礼拝であり、教会学校での学び合いであり、祈りであります。

 二つ目は、御言葉を聞くことの「すごい!」です。イエス様の話を聞くために集まった大勢の群衆に向かって、イエス様は湖の上で舟に乗り腰を下ろして話しました。座って話すイエス様の話を聞くために群衆はよほど注意深く聞いたことでしょう。イエス様は、御言葉を聞くとはどういうことかを群衆に体験させました。道端や石や茨になって御言葉を聞かない者にならないためには、鳥のさえずりも、風の音も隣の人の咳払いも、その他日常の様々な心を惑わす一切の思いも脇に置いて主に向かい合わなければならないことを、実践をもって教えたのです。人生を100倍豊かにするほどに、御言葉に聞くことは「すごい」ことを覚えておきましょう。

 三つ目の「すごい」ことは、イエス様が家を出て湖で福音を語っていることです。イエス様のことをうとましく思う人々の圧力により、段々福音を語る場所に制限がかかってきましたが、イエス様の伝道活動はそれで衰退するのではなく、むしろ勢いを増しました。彼は山でも湖でもどこにでも赴き、ひたすら神の国の真理を語りました。コロナ危機の中で教会は一時閉鎖され、再開した今もいろいろな制限があります。伝道集会やチャペルコンサートを計画することも容易ではありません。だからと言って今伝道できないということではなく、伝道はどこででも、どんな状況でもできるのだと聖書は語ります。これは「すごい」ことです。大きなチャレンジではありますが、しかし私たちの小さな福音宣教の働きは、30倍、60倍、100倍にもなる実を結ぶ力を主が与えて下さっているのです。なんとすごい恵みでしょうか。

 あなたが見過ごしているたくさんの「すごい!」を聖書の中に探してください。あなたの心に御言葉が根を張るのを邪魔しようとするあらゆる石や茨を取り除くために、しっかりと心を開き御言葉に聞いていきましょう。そして困難な今の時代にあっても福音を語り続けましょう。

 

719日 説 教―                  牧師 山中 臨在

「笑おう」  ルカによる福音書62026

イエス様が笑ったという記述は聖書にはありませんが、イエス様は笑いについて語っています。「貧しい人や飢えている人、泣いている人は幸いだ、笑うようになるのです。人に憎まれ苦しくつらい思いをしている人はやがて喜び踊ります」と言うのです。嬉しい話です。けれどこの言葉は笑えない現実の只中にいる人々にはどう響くのでしょう。笑えない現実に直面している方々に、私たちは何と声をかけたらいいのでしょうか?

 喜劇の観客は、多くの場合、登場人物たちが悲劇に見舞われている様子を見て笑います。悲劇の渦中にいる登場人物たちには見えていないことが観客には見えていて、登場人物の悲劇は喜劇に変わることを知っているから安心して笑えるのです。演劇の世界では「俯瞰」(高い所から見ること)という言葉をよく使います。お客さんは俯瞰して喜劇を観ているのです。では私たちの世界で最も俯瞰する目を持っているのは誰でしょうか。それは主なる神様です。「今泣いている人は笑うようになるよ」と言われる主ご自身が、泣いている人が笑うようになるシナリオを書かれているから、その言葉には説得力があります。

私たちは、自分自身の視点以外にもう一つ、俯瞰する視点を持つことで人生が大きく変わります。聖書は、その俯瞰する視点、神様の視点で人生を見つめるようにと励ましてくれます。自分の視点で見ていたら永遠に対処しきれないと思える涙の体験をしていても、必ず神様のシナリオでは、その涙を笑いに変えてくれるのだということを教えているのです。

しかし、なぜ神様は苦しみや悲しみに泣くような体験を私たちに与えるのでしょうか? この問いも、自分の視点ではなく、もう一つの視点から見つめなければわかりません。主のシナリオは泣いている登場人物にはその時にはわからないけれど、後で神様の視点に立てた時にその大きな愛の計画を知ることができます。笑ってばかりいた時には気づかなかった神様の存在を、涙の経験を通して知るのです。神様は最も高い所から、登場人物たちが涙しているのをただ楽しんで見ているだけではありません。自ら十字架にかかることによって彼らの痛みや苦しみを体験なさったのです。だから私たちの痛みや苦しみや涙をご存知であり、その涙に寄り添ってくださっているのです。私たちの貧しさ、飢え、苦しみ、涙は、主の愛の眼差しがいつも私たちに注がれていることに気づくために神様が備えてくださったものです。イエス様の十字架は、私たちが笑えるようにと私たちを自由へと解放してくれました。これが救いの道です。この救いの道が与えられていることを信じる人生と信じない人生の二つしかありません。ぜひ信じる人生を歩みましょう。信じて共に笑いましょう。

 

 

712日 説 教―              牧師 山中 臨在

     「一番大切な教え」申命記6:49

イエス様は、一番大切な教えは「心を尽くし魂を尽くし力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」、第二に大切なのは「隣人を自分のように愛しなさい」であると言われました。数ある旧約聖書の教えの中で何が根幹にあるのかを見失うことがないように、イエス様がこのように言って下さったことは感謝すべきことです。「心」と訳されている原語「レーヴ」は、「知性、意」という意味で、「魂」と訳される言葉「ネフェシュ」は「命、自分自身」という意味です。また、「尽くす」とは「なくなるようにする」という意味なので、申命記で語るのは、「自分の知性も自分の力も自分自身もなくして、それらを主の前に差し出して主を愛する」ということになります。そのような愛を示した方がいました。イエス・キリストは自分の知恵も力も自分の命も捨てて、私たちの罪を赦し、私たちを救いの道へと導いてくださいました。それが愛するということです。愛することとは、イエス・キリストを通して神様が私たちに示してくださった生き方です。神様は罪びとの私たちを無条件に受け入れ愛してくださいました。それと同じように私たちも無条件の神様の愛を無条件に受け入れていくことが、主なる神様を愛するということなのではないでしょうか。イエス・キリストを通して示された神の愛を無条件に受け入れることができて初めて、人は愛とは何かを知り、他者を愛することができます。それが隣人を愛しなさい、ということにつながっていくのです。

さて、マルコ福音書でイエス様は、「神を愛しなさい」の前に、「主は唯一の主である」ということが大切な教えだと言っています(マルコ12:2830)。神様は一人です。二人も三人もいないのです。もし神様が三人いるとしても、そのそれぞれに「心を尽くし魂を尽くし力を尽くして」愛することはできません。でも私たちは唯一の神様以外のものを神とする誘惑を受けます。あちらの神様にもこちらの神様にもいい顔しようと思ったり、或いは神ならぬものを神とする(お金、地位、プライド、欲望など)誘惑を受けやすいのです。だからこそ「神は唯一である」という根幹の教えを心に刻む必要があります。

もう一つ、申命記は大切な教えをここで語ります。それは、唯一の神を愛せよという一番大切な教えを絶えず語り伝え、この教えを家の戸口の柱にも門にも書き記せ(9)というのです。戸口や門というのは、社会と自分の接点です。自分が唯一の神を愛する者であることを社会にも表明し、神の言葉を社会にも発信することを主は命じておられます。

主なる神様は唯一の主であることを知り、自分自身の条件なしに神様を愛し、そのことを伝えること、これが一番大切な教えです。そしてこれは礼拝の本質を示しています。自分自身(の都合)を主の前に差し出して礼拝することを最も大切な教えと受け止めて歩んでいきましょう。

 

75日 説教―  牧師 山中 臨在

「よろしく」 フィリピ信徒への手紙4:2123

品川教会では、今年の4月から礼拝の中に「平和のあいさつ」という時間を設けています。これはキリストの体である私たちが、お互いに主によって礼拝に召し集められたことを喜び合い祈り合う大切な礼拝の要素です。今日の箇所でパウロがしきりに使っている「よろしく」は、キリスト者の平和の挨拶です。

これはすべての人になされる挨拶であると聖書は語ります。「よろしく」には、一緒の空間にいることになる人に「どうか自分と仲良くしてくださいね」という意味合いがあります。キリスト者の「よろしく」は、一緒にあなたと礼拝する私と、主にあって親密になりましょう、ということになるでしょう。マタイ5:2324でイエス様は「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、・・・まず行って兄弟と仲直りをし・・・」と言っていますが、これは礼拝の本質を描いています。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって神と和解させていただいたのだから、お互いに主にあって和解し礼拝を捧げる者でなければなりません。だから「よろしく」は口先だけでできるものでは到底ないのです。和解が起こされるように相手のことを思いながら真剣に祈らなければならないし、また一人一人と親密に関わることは簡単には出来ません。「よろしく」と言うためには、相手をよく見ることが大切です。あなたの隣に座っている人をあなたはどれほど親密に、真剣に見つめているでしょうか。

また、「よろしく」は別れる時に、その場にいないその人の家族や知り合いに、自分からの挨拶を届けてくださいという意味でも使われます。パウロは今牢獄の中にいて、いつ死刑を言い渡されてもおかしくない状況です。彼の「よろしく」は、これが最後になることを覚悟した別れの挨拶であり、必死な祈りの要請ではないでしょうか。キリスト者の「よろしく」は互いに祈り合うことでもあるのです。私たちはどれだけ本当に真剣に祈り合っているでしょうか。一番いいのはすぐその場で祈ることです。相手を見ながら、相手の息を感じながら、親密に祈ることです。

そんな真剣で重みのある「よろしく」はまた、私たちに希望を与える挨拶でもあります。明日死ぬかもしれないパウロですが、パウロが死んだら教会の中で福音はなくなるのでしょうか。いいえ、パウロが死んでも、教会の誰が死んだとしても、「よろしく」を言い合う私たち教会の人々を一つに結び付けてくださるイエス様(21)は、今もこれからもずっと生きておられ、教会を支え、教会の人々の信仰を支えて下さいます。だから私たちは恐れず、主に与えられている信仰の友だちと共に、親密に「よろしく」と言いながらキリストの体を建て上げ、互いに平和のあいさつをする喜び(出会いの喜び、和解の喜び)を味わいたいと思います。