説教記録7月

 

728日 説教―              牧師 山中 臨在

「生かされている喜び」    (マタイ福音書6:25~30)

私たちは自分の意志で人生を歩んでいると思っているかもしれません。仕事も勉強も遊びもスポーツも、自分がしたい時にして、疲れてきたら、自分の意志でそれをやめます。でも呼吸というのは、生まれた瞬間からずっとしているのに、疲れることはありません。自分の意志でやめようと思ってもやめることはできません。逆に病気などで、呼吸をしたいと思っても、続けることができない状態にもなります。呼吸は「している」のではなく「させられている」のであり、私たちは「生きている」のではなく、「生かされている」のです。そして私たちを生かしておられる方がおられ、その方がどんな方であるのかを書いているのが聖書です。

 イエス様が山上の説教をなさった時、ガリラヤ中から、いろいろな病気や苦しみに悩む人々が大勢集まってきました。イエス様はその人たち一人一人の悩みを受け止め、彼らに、「空の鳥を見なさい」と言われます。「あなたたちは明日をどうやって生き延びたらよいかわからないほど人生に疲れ、悩みに満ちているようだ。けれど、空の鳥は自分で働くことも紡ぐこともしないが、神様はこの名もない一羽の鳥でさえ養い、その装いは、頑張りに頑張った結果ソロモンが得た高価な着物よりもはるかに美しいよ。そんな鳥に比べ、あなたははるかに価値がありはるかに神様の愛を受けている。つまり神様に生かされているのだから、神様はあなたの人生の責任を負っておられるのです。心配しなくて大丈夫ですよ」このようなメッセージを送っておられるのです。

私たちは神様から、聖書に聞き、生き方の転換を求められています。本来神様から生かされている人生を、いつしか「生きる」ことに一所懸命になり、その結果がんじがらめになっている、そんな人生の土台を、自分自身の意志で頑張ることから、神様のみ心に委ねることへ転換しなさい、と神様からの語りかけを頂いているのだと思うのです。土台をどこに置くかによって人生は大きく変わります。というより、土台を転換しなければ、人生は変わりません。

 私たちは自分で日々努力し、責任を引き受けてそれを負って生きていこうとします。それはある意味素晴らしい生き方ですが、そうやって「生きる」中で、頑張れば頑張るほど、自分の重荷を負い切れずに疲れ果て、押し潰されてしまう自分の限界があるのではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちに、「生きる」ことから「生かされる」ことへの転換をしなさいと語られます。そしてあなたのいのちは生かされたいのちであり、あなたという存在そのものが、生かされて、赦されて、愛されている存在なのだと、私たち一人一人に生き方の転換をするように招いておられます。

 神様に生かされていることは何と感動的なことでしょう。生かされている喜びを抱く時、神様が与えてくださった人生に対する視野が広がります。喜びも笑いも苦しみも涙も、生かしてくださる方が与えてくれるものとして意味を持ちます。「生きる」人生から「神様に生かされている」人生に土台を転換して歩んでいきたいと祈ります。

 

 

721日 説教―                牧師 山中 臨在

「とんでもない恵み」      (出エジプト記34:110)

神様がエジプトから救い出したイスラエルの民は、神様の愛を示された10の約束、十戒をあっという間に破ってしまいました。怒った神様は「イスラエルの民を滅ぼす」と言われますが、民のリーダーであるモーセが必死に祈り願い、神様はその思いを変えて下さいました。民がこの契約を破ったのに、神さまは新しい契約をして下さいました。

契約は、お互いに約束を守るという信頼関係の基になされるものですから、イスラエルの民が十戒を破った時点で神様と民との契約は終わったはずです。しかし神様は、「お前たちが破った契約をもう一度契約をし直そう」と申し出たのです。とんでもない話です。神様は、「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。」(1)と仰いました。あなたが破った契約だけど、破ったのなら、新たに契約しよう、と神様が言っておられるのです。それが「憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちている」(6)神様のなさることです。神様の新しい契約が更にとんでもないのは、神様は、契約を結ぶ私たちがその契約を破ることがわかっているということです。人間は罪を繰り返し、神様との契約を破ってばかりです。相手が契約を破るとわかっていて契約を結ぶ人なんて普通はいません。それにもかかわらず神様は私たちを愛し新しく契約を結んで下さるのです。通常、契約を破った人はペナルティとして違約金を支払わなければなりません。しかし神様はその違約金を私たちの代わりに払ってくださるのです。神様の尊いひとり子イエス・キリストを十字架につけて私たちの罪の償いをして下さったのです。その根底にある根拠は、私たちに注がれる、神様の永遠の愛です。

私たち人間の愛は長続きしません。自分の都合で敵味方が変わります。昨日の友が今日は敵になっているのです。どこまでも自分中心です。人は約束をすぐに破ります。しかし神様はそういうことを丸ごと請け負って下さった上で、「それでも私は永遠にあなたを愛する、新しい契約を結ぼう」と語りかけているのです。私たちが神様の方を向いていない時や、神様を愛していない時、いや神様を裏切る時でさえ、このとんでもない恵みの契約に招き、長続きしない私たちの愛とは異なる永遠の愛を示して下さるのです。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。」(10)と神様がおっしゃるのがこの「とんでもない恵み」です。私たちはこのとんでもない恵みの中に毎日毎日生かされています。このとんでもない新しい契約を結ぼうと、毎日毎日神様から招待状を頂いています。その招待状を受け取る生き方も受け取らない生き方もあるでしょう。あなたはどちらの生き方をなさるでしょうか?

 

714日 説教 ―              牧師 山中 臨在

         「祝福の源」         (創世記12:1~5)

アブラム(後のアブラハム)は、「今いる所を離れて私が示す地に行きなさい」と神様から召命を受けました。アブラムは、それがどこなのか示されないのに、ただ「主の言葉に従って」(4)住み慣れた居住地を離れました。今と違って、この時代に居住地を離れること、特に自分の家族から分かれて旅立つことは、考えられないくらい大変なことでした。新共同訳の聖書にははっきりと書かれていませんが、1節は原文では、あなたは「生まれ故郷、親族、父の家」を離れなさい、と記されています。どんどん別れる度合いが辛くなっていきます。それでも私に従いなさい、という献身のすさまじい迫りです。この時アブラムは75歳。もう決して若くはなく、そろそろ慣れ親しんだ土地でのんびりと落ち着きたい時でしょう。それなのに主はアブラムにチャレンジを迫るのです。「私が示す地に行きなさい」と語る神様。この「行きなさい」という言葉は、原文では「レクレハー」という言葉ですが、レク「行きなさい」とレハー「あなたのために」という二つの部分から成り立っています。これは、行けという強い命令の中に、招きがあります。行き先も教えない、理不尽とも思える主からの命令は、実は私自身のため、私のために主が道を備えられていることを伝えるものなのです。

自分が住み慣れた所を離れるのは容易ではありません。しかしそのような召命を神様からいただいた時、私たちはそれをどのように受け止めるでしょうか。

2節で主は、主からの召命に向かうアブラムに「あなたを祝福し・・・あなたは祝福の源になる」と告げます。祝福の源になるとはどういうことでしょうか? 礼拝の最後のほうに祝祷がありますが、祝祷は、礼拝を通して神様との交わりを体験し、神様からの祝福を頂いた礼拝者が、その祝福を携えて世に出て行き、その祝福を世の人と分かち合うように遣わされるための祈りです。アブラムにここで神様が言われた「祝福の源となるように」というのはまさにその意味で、どこに行くかわからないけれど、神様に祝福されたアブラムは、その祝福を携えて遣わされる地に神様の祝福を分かち合いなさい、と言われているのです。だから礼拝は祝祷で「終わる」のではなく、ここから宣教が始まって行きます。

聖書を注意深く見てみましょう。アブラムは、神様から命を受けた大変な旅に一人で出かけたのではなく、妻や甥、そして他にも仲間がいました。福音宣教の召命において、神様は必ず共に働く仲間を与えて下さいます。逆に一人でやろうとすると主の召しに応えることができません。一人ですると、それは神様の召命ではなく、自分の決断、独断に変わってしまいます。自分の決断に従って頑張る時、他者への批判が出てきます。そうなると福音を伝えることはできなくなり、神様は喜ばれません。

主が立てられたこの品川教会の皆さんと「共に」主からの福音宣教の召命をいただき、主に仕え、他者に仕え、神様の栄光を現わしていきましょう

 

77日 説 教-             牧師 山中 臨在

  「イエスにある勝利」  ローマ信徒83139

与えられた聖書の箇所から二つのポインとに目を注ぎながら、御言葉を味わいたいと思います。                                                       

まず一つ目のポイントは、「私達は神様の愛から引き離されない」ということです。35節に、私達を神様の愛から引き離す可能性のあるものが挙げられていますが、これは「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、は神様がいるから怖くないよ」ということではなく、むしろこの世にはこのようなありとあらゆる困難が満ちていることを確かめています。困難は怖いです。クリスチャンであっても怖いのです。そして誰よりも、この手紙を書いたパウロ自身が怖さを身にしみていました。2コリントの1123節以下を読むと、パウロが遭ったありとあらゆる困難が列挙されています(投獄、鞭打ち、投石、遭難、盗賊、飢え渇き、裏切り、等々)。しかしそのすべての困難の只中に主は生きておられました。34節には、イエスは神の右に座って私達のために祈って下さる、とあります。神として、神様のすべての栄光と権威を持って私たちのために祈られました。つまり、イエスは全身全霊で私達を愛してくださったのです。パウロはそのことを体験しました。

二つ目のポイントは、「私達はイエスにあって輝かしい勝利を収めている」ということです(37)。私達の人生は、困難にぶちあたり、それを乗り越えたらまた別の困難が待っています。時としてあまりにも苦しみが大きく、困難に負けることもあります。でも負けてもいいのです。神様は私達を決して離さないのです。洗濯バサミがどんなに風が吹いても嵐が来ても洗濯物を離さないのと同じように、キリストの愛も私達を挟んで離しません。でも人生の嵐が吹くと主の洗濯バサミに繋がっているために痛みます。苦しいこともあります。でも主の洗濯バサミがあるからこそ痛くても私達は主の守りと恵みの中に生きることができます。主は私達を決して離さず、必ず総合優勝に導いて下さいます。「もうあなたは自分の力でがんばって戦わなくてもいいよ」と、主にある真実の平安を与えられる。これが、イエスにある勝利、イエスキリストにあって神様から頂いている、「輝かしい勝利」です。

神様は私達の味方です。人間は利害関係によって、昨日の味方が今日の敵になることがありますが、神様は、利害関係なく、いかなる時でも私達を愛しておられます。たとえ私達が神様を愛さなくても、私達を愛してくださるのです。イエス様は、愛する者に迫害され殺されながら、それでも尚迫害する人間を愛し続けました。こんな、人間の理解を超えるような尊い愛が注がれている、だから私達はイエスの愛から離されません。離れようがないのです。

私達は今年度「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」という御言葉を頂き、伝道に向かって歩もうとしています。しかし伝道することは、時に傷つき痛むこともあるでしょう。しかし痛いことや苦しいことは神様の愛が私たちを決して離さないことの証だと信じて、イエスにある勝利の約束に委ねて歩んでいきましょう。