2018年7月説教記録

 

729日 説 教―                    眞柄神学生

                「二つの願い」  

『箴言』は2,300年ぐらい前に書かれたものといわれています。箴言の30章の1節は「ヤケの子アグルの言葉」ではじまります。アグルはヘブル語では「金で雇われた者」、「集める者」の意味があり、金で雇われた傭兵だったかもしれません。アラビア半島の北部のマサの人です。ヤケ、アグルのどちらもへブル人の名前ではないので、へブル人でないことは確かでしょう。それなのに、へブル人の神ヤーウエを自分たちの神としているのです。

アグルの願いは「二つのことをあなたに願います。」で始まります。へブル人にとって“二”はとても重要な数字です。アグルは死ぬまでこばまないでくださいと言っています。「むなしいもの」とはなんでしょうか。ヤーウエの神から選ばれたイスラエルの神が異邦人の神を神とすることが「むなしいもの」なのです。「偽りの言葉」とはなんでしょうか。神に不服従になる言葉です。偽りの言葉を言う者は、命を守ることができず、滅びていくのです。

そして、『貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養ってください』と続けます。「貧しくもせず、金持ちにもせず」、中庸の道をアグルは神に望むのです。中庸の道を進み、神から与えられる定められたパンで養われることに、アグルは満足をみるのです。金銭への過度の欲望は、人を神から離し、滅亡へと追いやります。イエスも言っています。『だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』(マタイ624節)と。

それでは、「貧しさ」に関してはどうでしょう。聖書の中では、「貧しい」と書いてある表現が、「金持ち」と書いてある表現よりはるかに多いのです。新約のなかで、イエスは貧しい人達に好意的です。マタイの115節には『貧しい人には福音をつげ知らされている』とあります。貧しい人々をこそ、イエスは顧みられたのです。貧しい人への侮りを、イエスは祝福に転換してくださったのです。

続けて、アグルは『わたしのために定められたパンで養ってください』と言っています。『養われる』ということは、神におのれを全面的にゆだねるということです。どのようなことがあっても、神を信頼し、自分の全存在をゆだねるということです。新約の時代を生きる私たちにはこの『私のために定められたパン』が何を意味するかおわかりでしょう。そうです、神のみ言葉です。 即ち聖書の言葉です。私たちはみ言葉によって日々養われていくのです。アグルは多くを求めず、中庸を貫くことを神に願ったのです。

 私もまた、日々「神様、この罪深い私をお赦しください。悔い改めますので、私と共にいつもいてください」と願っています。      

          (箴言3079節)

 

 

―722日 説 教―            富田 敬二 師

       「共に居られる主」

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そしてイエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よわたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

 

◆四つの福音書は貴重な証言集

新約聖書の最初の四つの福音書は、神の独り子 主イエス・キリストが、人の子として生まれ、今から2000年の昔、ユダヤのベツレヘムとその周辺で歩まれた「日々の記録」が、その弟子たちの記録として記され、残されている貴重な証言集なのであります。主は、ガリラヤ湖の漁師たちに『私に従って来なさい』更に『人をすなどる漁師になるのだ』と全く新しい使命をお与えになったのです。

 

イエスの誕生 ― 受難物語

救い主イエスの誕生は、東方に不思議に輝く星の出現ということで、ローマ皇帝の耳にも伝わり、皇帝は、自分の世界制覇という実現の危惧を感じ、この子の誕生を阻止するために、二歳以下の子供の虐殺を命じ、一大虐殺が行われるのです。両親ヨセフとマリアは、天使によってその事を知らされ、急いでエジプトへ脱出し、その難を逃れるのです。この聖書記事は、クリスマス物語に続く主イエスの物語のクライマックスです。兎に角、人となられた神の御子 イエスの受難物語なのです。

 

十字架の意味

イエス・キリストの短い30年の生涯は、ゴルゴダ山上での十字架で、その救い主としての生涯を閉じるのですが、人類の歴史に、神は実にその独り子を世にお与えになるほど、私達を愛してくださったという確固たる「救い主」としての歩み、そして、今キリスト教会のシンボルとして、ゴルゴダ山上の十字架が人々の心の平安を、そして、永遠の生命を確固として約束してくださっているのです。品川教会の礼拝堂の正面には、大きな十字架が掲げられ、主日礼拝毎に信徒のみならず、この教会の集会に参加される方に強い印象を与えております。主の御苦しみを思う十字架以上に、救いの喜びを象徴する十字架として、礼拝堂に正に輝き、証ししているのでしょう。教会員である私達は、この十字架を仰ぎ見る度に、信仰の原点である主イエス・キリストの、十字架を深く思いみるのであります。罪を犯す事なく、私達の信仰を再考するため、主ご自身が、あのゴルゴダ山上で十字架刑に処せられた事、そしてその真意を礼拝毎に深く思いみて、日毎、悔い改めに目覚めねばならないでしょう。

 

主が共に居られる

主日礼拝の賛美と祈り、更に牧師からのメッセージを通して、日毎の歩みをキリストの聖旨として整え、あるいは反省する、そのような悔い改めが必要なのです。キリスト者の日常生活はその意味において週のはじめの主日礼拝から、「主が共に居られる」という素敵な感激に歩みはじめるのです。主日礼拝こそ神様からの直接のメッセージを心に刻みつける大事な時なのです。

聖霊なる神様は、今という時に常に私達と共に居てくださり、励ましを与えてくださり、主の歩まれた聖なる道を、あきらかにはっきりと示してくださるのです。罪深い私達は、ともすると、この世の歩みに安きをおぼえ、知らず知らずに、み言葉から遠ざかり、主のみ声すら聞き分けることが出来なくなるのです。

 

主イエスの大宣教命令

日曜日の礼拝に参加する事に満足し、み言葉を「きく」事にとどまるだけで、み言葉に『生きる』という更なる一歩に欠けていないでしょうか。今日の聖書には『それゆえに』とあります。世に在る信仰者に向かって『あなたがたは行ってすべての国民を弟子としなさい』と。この弟子とは、主イエスの弟子を表しているのです。『すべての国民を弟子と』することを 主はあなたに期待しているのです。教会の教役者、牧師だけではありません。あなたの心の態度が問われているのです。

        (マタイによる福音書281620節)

 

715日 説 教―                牧 師 松村 誠一

      「見えるものは見えないようになる」

イエス様が生まれつき目の見えない人の目を開けられた、この癒しの出来事の結論部分です。イエス様によって目を開けてもらった人はユダヤ人によって外に追い出されてしまいます。イエス様はその人を探して会われ、彼に質問をしております。「あなたは人の子を信じるか」。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。その彼の言葉にイエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と記されています。人の子とは救い主、キリストを指している言葉として使われております。イエス様はご自分が神の子キリストであることを信じるかと問うているのであります。彼は人の子とは一体どういう存在であるか知らなかったのです。しかし、その方を知りたい、そして信じ受け入れたいという切実な思いをもってイエス様に接した男にイエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と、ご自身が救い主、キリストであることを明らかにしております。当時のユダヤ社会で自らキリストと名乗ることは、神を冒涜することであり、命をも奪われる犯罪でした。イエス様はそれを十分に分かっていて、ご自分でキリストであることを明らかにされたのです。そして目を癒された男も「主よ、信じます」と言ってイエス様にひざまずいております。この告白も本人にとって命がけの告白だったのではないでしょうか。イエス様によって目が開かれたからです。さて、ここにきてイエス様が目の見えない人の目を癒された出来事を通してイエス様が語り教えようとしている中心が見えてきました。それは39節からです。「イエスは言われた。わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。この“見える者”とはユダヤ人、ファリサイ派の人々のことです。彼らは律法を厳格に守ることによって救いが得られると信じていました。そして律法を守れない人々を見下し、裁いていたのです。律法を守れない人々は神の救いから除外されていると考えていたのです。これが「見える者」となった人間の姿なのです。自らが「見える者」となる時に、“見えないようになり、他人を裁かずにはいられなくなるのです。自ら“見える者”となる姿は、当時のユダヤ教のファリサイ派の人々だけではありません。私たちもイエス様を信じる信仰生活の中で、自ら“見える者”となってしまうことがあるのではないでしょうか。私は正しい信仰によって救いに与っている。正しい私は信仰生活の中で兄弟姉妹を裁くということがあるのではないでしょうか。あるいは、教会生活はほどほどに、友人や、知人の付き合いも大切。仕事も大切。だから教会での奉仕は無理はしない。神様は赦されるお方だからこの程度の信仰生活でも救いに与っているのだから。これも「見える者」となって生きてしまう私たちの姿ではないでしょうか。

私たちすべての人間は“見えない者”なのです。その“見えない者”がイエス様によって“見える者”とされたのです。このことを抜きにして救いはあり得ないことを決して忘れてはいけないのです。

                          (ヨハネによる福音書93541節)

 

 

78日 説 教―                  牧 師 松村 誠一

           「信仰は神との出会い」

今朝もイエス様が生まれつき目の見えない人の目を開けられた癒しの出来事を学んでまいりましょう。イエス様は地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい、と命じております。彼はすぐにそこに行き、目を洗うと見えるようになったのです。このイエス様の癒しの出来事は、イエス様を排除、追放へと進んで行きます。このユダヤ人とは、ファリサイ派の人々です。14節に「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」と記されています。これは律法違反だということで、律法違反者は罪人であると断定し、裁いていくのです。彼らは、当の本人から事情を聞いてもらちがあかない、それなら彼の両親を問いただそうと、両親を呼んで聞いております。両親もユダヤ人たちを恐れ息子の目を開けたのはイエスですとは言えなかったのです。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放することを決めていたからです。会堂から追放ということは、社会から追放されるということであります。ですから両親は本当のことを言えなかったのでしょう。

 ユダヤ人たちは、またイエス様によって見えるようになった人を呼び出し、「イエスは罪ある人間なのだ、そのことを認めろ」と脅してきております。しかし男は、冷静に「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。」と答えております。この答えを聞いたユダヤ人たちはさらにエスカレートし、この人を脅かしております。この人とユダヤ人との会話は昔の話ではなく、今でもこのような内容の会話がいたるところで繰り広げられているのではないでしょうか。どんな組織、団体でも権力を握った者は、その組織を維持していくために、物事の真理、真実に目を向けるのではなく、自分たちの権力維持のために不必要な人を排除し、排斥へと動いていくのです。教会という組織も例外ではありません。そして当時のユダヤ教の指導者も例外ではありませんでした。

 権力を握っていたファリサイ派の人々の追及に対して、この目の見えなかった人は、イエスというお方に出会って、目が見えるようになったのだと言っているのです。この人は自分の目を開けた人が、罪人であるわけがない。目を開ける力のあるお方は、神のもとから来られたのでなければ何もおできにならなかったはずですと。この人がこのように告白ができるのは、イエス様と出会い、目を開けてくださったという事実によってであります。信仰は生きた経験によって、イエス様との出会いによって与えられるのです。この出会いによって何が真実であるかを判断する思い、心が与えられていくのです。私たちもイエス様と日々出会い、霊の目が開かれ、何が真実であるかを確かに知り、真実に生きる者として発言し行動していきましょう。

                 (ヨハネによる福音書9章2434節)

 

 

71日 説 教―        牧 師 松村 誠一

   「神の業がこの人に現れるためである」

イエス様とその弟子たちは道を通っておられると、生まれつき目の見えない人にイエス様は目を留められました。おそらくこの目の見えない人は通りすがりの人々に物を乞うために道端に座り込んでいたのだと思います。イエス様はその人に目を留められたのです。そして弟子たちも目を留めたのでしょう。弟子たちはその人を見てイエス様に質問をしております。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と。弟子たちの質問の背景には、この世において人間が受ける苦しみは、人間が犯した罪の報いであるという苦難応報の思想があるのです。この思想は日本においても根深くあるのではないでしょうか。

イエス様は弟子たちの質問に対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えております。弟子たちは、この目の見えない人はなぜ目が見えなくなったのか、その原因がどこにあるかが関心事であり、その答えをイエス様に求めたのです。イエス様は、目が見えないのは罪を犯したからではないということをきっぱりと語り教えております。そしてイエス様は、その原因や責任についてはお答えにならず、その目的と意味はなんであるかを語り教えております。その目的と意味は、神の業がその人を通して現れる、そのためなのだとイエス様は語られたのです。目が見えない、それはその人にとって大変な重荷であり、苦しみです。目だけではなく、いろいろな障害をもっておりますと、それはその人にとって苦しみであり悲しみであります。しかし、その苦しみから、悲しみから解放され、心のゆがみも癒されていくのは、イエス様のまなざしと、この語られた言葉であります。

 イエス様はこの目の見えない人の未来に光と希望を与えられたのです。この人に神の業を現すために生きよ、と語りかけられたのです。この方こそ今も活けるイエス様であり、真の神なのであります。“神の業が現れるために”、というイエス様の言葉は、今でも障害を持っておられる方に、まさに福音として語りかけられております。私は重い障害をもっている兄弟が、自分の出来る限りを尽くして教会の奉仕をしているその姿を見て、イエス様は今も活きて働いておられることを確認させられております。これは私にとって感謝なことで、信仰に生きる喜びを与えられております。

 さて、私たちについて考えてみたいと思います。私たち一人一人、宿命的なもの、あるいは自分では処理することの出来ない重荷を負っている。それゆえに苦しみ、悲しみ、自分の置かれている境遇をのろったり、嘆いたりしてはいないでしょういか。しかし、そうゆう私たちにも、イエス様は「神の業が現れるためである」と語りかけてくださっているのです。宿命的な重荷や、置かれている境遇に支配されるのではなく、それに打ち勝って与えられた人生を歩むことが出来るのは、イエス様のまなざし、イエス様神の然りの言葉なのです。

           (ヨハネによる福音書9112節)