説教記録7月

 

730日―                      牧師 松村 誠一

         「イエス様 弟子たちを派遣する」

 マタイによる福音書281920節の箇所は復活されたイエス様の大宣教命令として有名な箇所です。生前イエス様は弟子たちを派遣するに当たり、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と命じています。しかし、復活のイエス様は、イスラエルという国、民族を超えて、全ての民を私の弟子にしなさい、と命じています。神は全世界に向かってイエスを死より甦らせ、死を滅ぼし、永遠の命が備えられていることを明らかに示して下さったのです。これはまさに福音であり、復活のイエス様もこの福音を宣べ伝えるように弟子たちに命じられたのです。そして弟子たちもその命令に忠実に従ったのです。これは事実です。事実だからこそイエス様の十字架と復活の出来事はイスラエルという民族を超えて、全世界へと伝えられていったのです。

 この時代はローマ帝国が世界を支配していた時代です。皇帝が神であり、皇帝礼拝が強要されていた時代です。全世界に福音を宣べ伝えるなど、容易にできる時代ではありません。あの弱い弟子たちはどうして、このイエス様の命令に従い得たのでしょうか。弟子たちはどうしてこんな勇気を持てたのでしょうか。それは20節です。「あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活のイエス様が世の終わりまで、いつも弟子たちと共にいてくださったからです。

今回のパートナー・シップ伝道で来られたマーシャ・ウッズさんの話を聞き、大いに励ましを与えられました。マーシャさんはあの弟子たちと同じようにイエス様の大宣教命令を聞き、学生時代に宣教師になることを決心し、ご自分の生涯を与えられた召しに忠実歩んで行かれました。タイ、ザンビア、リベリア、エチオピアなどの国々で20年間、そして日本の宣教師として実に20年間も福音宣教にあたっておられました。マーシャさんは日本でご子息を病で亡くされているのですが、日本で宣教師として働くことが出来て本当によかつた。私の第二の故郷ですと話してくださいました。

マーシャさんを宣教師として突き動かしてきたのはイエス様の語りかけです。復活されたイエス様がマーシャさんの心のうちに鮮やかに生きて働き、力と勇気を与え、宣教師としての働きを可能にして下さったのです。イエス様の大宣教命令は、当時の弟子たちにだけ語りかけられたのではありません。イエス様を救い主と信じる全ての者に語りかけられているのです。この語りかけを聞く者は、この語りかけに応答していくことが求められているのです。全ての民とは私たちにとっては家族の者、友人かも知れません。会社の同僚かも知れません。イエス様の言葉に応答する者にイエス様はいつも、共にいてくださり、神様の出来事を起こしてくださるのです。

            (マタイによる福音書281620節)

 

 

 

723日―                       牧師 松村 誠一

            「信仰と愛による交わり」

テサロニケの教会に派遣したテモテがパウロのもとに帰って来て、そのテモテからパウロはテサロニケの教会の様子を聞いたのです。そのテモテの報告を聞いてパウロは自分が心配していたことが取り越し苦労であったことが分かり、喜びをもって手紙を書いています。「ところで、テモテがそちらから私たちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもって私たちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたに是非会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。」(テサロニケの信徒への手紙一36

伝道者にとって福音を伝えた人々が「信仰と愛」をもって生活しているということは何にも代え難い喜びなのです。今回のパートナー・シップ伝道のチームリーダー、シャリーさんはこの伝道期間中に、何回もジャクソン先生に電話で報告をし、また集会の様子の動画を送ったそうです。ジャクソン先生は品川教会、横浜JOI教会の様子を知り、本当に喜びに満たされていたとシャーリーさんが報告してくれました。またウッズ先生ですが、このパートナー・シップ伝道が始まる前に仙台を訪問しております。先生ご夫妻が日本の宣教師として働いていた仙台の大富教会の教会員を訪ねております。かつての教会員との交わりは先生ご夫妻の喜びでもあると同時に仙台の教会員も大いなる喜びが与えられたのではないでしょうか。パウロはさらに7節で、「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。」と述べています。パウロは様々な困難と苦難に直面していたのです。その苦難、困難を乗り越えられたのはテサロニケの教会員の信仰なのです。信仰と愛による交わりは、キリスト者に喜びを与えてくださり、その喜びこそが、さらに信仰と愛に生きる力となっていくのです。
 
パウロはイエス様が間もなく再臨される、その再臨を非常に近く感じていました。パウロ自身がやがて来る再臨の確かさは、テサロニケの教会員との主にある交わりなのだ、この交わりこそが終末の時にイエス様の御前に立つことの保証であり、それを保証するものとして、希望、喜びが与えられているのだということを語り伝えております。

今私たちを取り巻く社会は決してキリスト者にとって、喜べる社会が築かれているとは言えません。私たちも、パウロとテサロニケの人々と同様に、様々な苦しみや困難があります。不法がはびこり、正義が歪められております。差別があります。様々な誘惑に出会います。憎しみの心に支配される時があります。そのような中にあって私たちもパウロとテサロニケの教会員のように信仰と愛による交わりを通して励ましあっていくことが望まれているのです。主にある兄弟姉妹が信仰と愛によって生かされ、信仰による励ましを与え合い教会生活を共にしていきましょう。

    (テサロニケの信徒への手紙一3613節)

 

 

 716日-トニー・ウッズ先生をお迎えしての主日礼拝()

      「勝利と大審判の間に」

 今日は「パートナー・シップ伝道」最後の主日礼拝で、先週に引き続きトニー・ウッズ先生がメッセージを取り次いでくださいました。ウッズ先生はルカによる福音書1911節から始まるムナのたとえから「勝利と大審判の間に」と題してお話しくださいました。先生はこのイエス様のたとえ話は、イスラエルの一つの歴史が背景にあります、とその歴史をまず紹介されました。

紀元前4年にヘロデ大王の息子アケラオがユダヤ、イドマヤ、サマリアを治めていた時のことです。アケラオの悪政に耐え切れずユダヤ人代表がローマまで行きローマ皇帝にアケラオを排斥するよう働きかけ、またアケラオもローマまで旅をし、王として留まれるようにローマ皇帝に陳情したという出来事です。この出来はアケラオが国に帰って来てユダヤ人代表を殺害したという歴史で、当時のユダヤ人誰もが知っているこの出来事をたとえ話に取り入れたのでしょうと。ローマを訪問していたアケラオが突然ユダヤに戻り、ユダヤ人代表を殺害したように、神の最終的な裁きは突然、思いがけずやってくるのだということを、この記述によって読者に語りかけているのでしょう。

 たとえ話に出てくる“ある立派な家柄の人”とはイエス様ご自身でしょう。主人は旅立ちに際し十人の僕にそれぞれ一ムナを渡しています。旅から帰った主人は人の僕があなたの一ムナで十ムナもうけました」と報告を受けています。その報告を聞いた主人は「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」と称賛しています。二番目の僕は「一ムナで五ムナ稼いでおります。主人はこの僕も称賛して「五つの町を治めよ」と語りかけています。あとの僕は「ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。」と報告をしています。その報告に主人は「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。」と怒りの言葉を語りかけています。

 ウッズ先生はこのたとえ話はクリスチャンに語りかけられているのですよ、と。そして次のように話をされました。私たちクリスチャンンは信仰を持てばいい、というのではだめなのです。私はクリスチャンだよ、聖書を信じているよ。でも誰にもそのことを言ったことがありません。私は人には分からないかも知れないが十字架の首飾りをいつも身に付けています。「イエス汝らを愛する」と書かれたステッカーを車のバンパーに張り付けています。しかし人にイエス様のことを伝えたことはありません。それではあなたはイエス・キリストを拒否しているのとおなじなのですよと。神様はあなたにご自分の財産を預けているのですよ。その財産(賜物)を有効に用いてください。福音を宣べ伝える者になってください。家庭でも、近所の方にも、友達にも。是非お金を福音宣教のために捧げてください。時間を是非神様のために捧げてください。イエス様が再び来られるときに「良い僕だ。よくやった。」と称賛の言葉を頂く者になりましょう、とお話くださいました。(ルカによる福音書191127節)

                                                                             (記録:松村 誠一)

 

 

-79日-トニー・ウッズ先生をお迎えしての主日礼拝(Ⅰ)

              「向こう岸に渡ろう」

 私たちの教会は今日から来週の日曜日まで米国から主にある兄弟姉妹との「パートナー・シップ伝道」のプログラムを計画し、その第一日目の主の日、トニー・ウッズ先生が御言葉を取りついて下さいました。「パートナー・シップ伝道」とは米国南部バプテスト連盟に加盟している教会の信徒が日本の教会を訪問し、日本の教会の信徒の方々と協力して福音宣教の業にあたるという伝道プログラムです。この「パートナー・シップ伝道のメンバーとして私たちの教会に来てくださったトニー・ウッズ先生は40年間海外の宣教師として働かれ、今はリタイアしてオーストラリアに住んでいます。先生は20年間、日本で、そして20年間はタイ、オーストラリアの他 ザンビア、リベリア、エチオピアなどの国々で宣教師としてお働きになっておられます。2011年の東日本大震災の時はただちに”災害救援隊“の一員として東北に来られ、被災者の救援活動にあたってくださった先生です。

 先生は日本で宣教師として働いているさ中、長男トレバー君を16歳で主のみもとに送るという悲しみの出来事に遭遇します。先生ご夫妻は白血病で苦しんでいる長男が癒されるため必死で祈ったのですが、その祈りは叶えられず先生ご夫妻の腕の中で主のみもとに召されていきました。

先生ご夫妻は、イエス様がご自分の弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた言葉を私たちに語りかけられた言葉として聞き宣教師になり、海外での宣教活動をおこなってきたのです。長男トレッパー君の出来事は先生ご夫妻にとりまさに“向こう岸に渡っているさ中の出来事”だったのです。ですから弟子たちがイエス様に「主よ、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫んだ言葉を先生ご夫妻も叫んだそうです。その時先生ご夫妻は「黙れ、沈まれ」という、聖書の御言葉が心の内に響いてきたというのです。そのイエス様の言葉により、先生ご夫妻は神様を信頼し続け、この経験から神の愛と恵みとをより深く理解することが出来たそうです。この神様への信頼がなければ、長男の死による嘆き悲しみの中で生きていくことがむずかしかったと思います、と述懐されていました。そしてまだまだ神様がなさることが理解できず、また疑問がいっぱい出てくると思いますが、今回のように神様を信じる信仰により危機に遭っても神様は私たちを愛し、慰めを与えてくださり、その悲しみを乗り越える勇気を与えてくださることを確信しています、と。そしていつか神の国で私たちの人生を振り返った時に全てのことが神の御心のもとに行われていたことを知り、神のなされたことを喜ぶ日が来ると信じていますとお話しくださいました。

 人生には危機がある。しかし、全てをご存知のイエス様がいつも私たちと共にいてくださり、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と語りかけ、その危機を乗り越える勇気と方法を与えて下さるという力強いメッセージが心の内に響いて来ました。感謝。(マルコによる福音書43541節)

                      (記録:松村 誠一)

 

 

72 説教―                 牧師 松村 誠一

        「神の国の喜び」

テサロニケの信徒への手紙一は新約聖書の中で一番早く書かれた書物であります。パウロは紀元49年第二回伝道旅行の途中、シルワノとテモテと共にフィリピからテサロニケに来て、この地に福音を宣べ伝え、教会を立て上げております。パウロのテサロニケでの伝道はルカによって記された使徒言行録17章に報告されておりますので後ほど確認して頂きたいと思います。

パウロによるこの地での伝道は非常に短い期間ではありましたが、多くの人々が救いに与り、教会が立てられていったのです。しかしこの福音の進展はユダヤ人に嫉妬心を抱かせ、彼らが起こした暴動により、パウロは教会の兄弟姉妹と残念ながら別れざるを得なくなってしまったのです。その別れた兄弟姉妹を覚えてパウロは「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが──なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」(テサロニケの信徒への手紙一217)と書き記しています。この短い文書ですが、いかにパウロがテサロニケの教会の兄弟姉妹を祈りに覚え、愛していたかが伝わってきます。そして「だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。」(18節)と述べております。パウロは、テサロニケに行くことが主の御心であることが示されているにもかかわらず、行けないということがパウロにとって非常につらいことであるということを伝えるために、“サタンから妨げられました”、という言葉で表しているのだと思います。19節「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」と述べています。パウロはイエス様が間もなく再臨される、再臨を非常に近く感じていました。そのイエス様の御前で、テサロニケの教会の兄弟姉妹と会うことができる。それは絶対与えられるものであることをパウロは主イエス様から知らされているがゆえに、その確かさかを伝えているのであります。いや、パウロ自身がやがて来る終末の確かさは、テサロニケの教会員との主にある交わりなのだ、この交わりこそが終末、イエス様の御前に立つことの保証であり、それを保証するものとして、希望、喜びが与えられているのだ、ということを語り伝えているのです。

いよいよパートナー・シップ伝道が来週から始まりますが、チームメンバーの方々と福音宣教を担いつつ主にある豊かな交わりの時を過ごしたく思っております。この福音宣教の業、そして交わりを通して私たちは喜びが与えられ、希望が与えられることでしょう。この喜び、希望は終末の時に与えられる喜びであり、それらを私たちは先取りして今主イエス様から与えられるのです。福音宣教の業を共に担いつつ終末、イエス様の御前に立つ確かさ、喜びを自らのものにしたいと思います。

           (テサロニケの信徒への手紙一21720節)