説教記録7月

 

731日 説教 ―            牧師 松村 誠一

     「疲れた者、イエス様のもとに来たれ」

 イエス様は目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人を癒し、救い主としての働きを具体的に始められたのですが、当時の律法学者、祭司長たち、またファリサイ派の人たちはこのようなイエス様を救い主として認めようとはしませんでした。かえって律法を守らないふとどき者として糾弾し、この世から葬ってしまうことを企むようになるのです。そして町の人々もイエス様を救い主として受け入れようとしなかったのです。この現実をイエス様は目の当たりにしてゴラジン、ベトサイダの町を叱っております。イエス様の怒りの言葉が1120節から24節に記されています。

 イエス様は怒りの言葉を発したあとに、父なる神に祈りを捧げております。イエス様の怒りの思いは祈りの中で、父なる神への感謝へと変えられていっております。イエス様は福音を受け入れない人々だけではない。福音を受け入れて救いへと導かれた人々もいることに目を向け、神に感謝を捧げております。イエス様は「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(2526節)と。「幼子のような者」とは、未熟な者、あるいは無学な者、愚かな者と言われている一般民衆のことですが、その人々は受け入れてイエス様に従って来ている。この現実をイエス様が直視した時に、これは、神の知恵であり、神の救いの御計画であることを悟り、神に感謝を捧げているのです。

そして今朝の聖書の箇所ですが、イエス様は、その神への祈りを捧げた後に、御自分に課せられている働きを認識し、その働きを明らかにしております。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。疲れた者、重荷を負う者とは、イエス様を救い主として受け入れ、イエス様に従って来た、「幼子のような者たち」です。彼らは背負いきれない重荷を負わされて、毎日毎日を過ごしていたのでしょう。彼らは、もう疲労困憊を通り過ぎ、生きる希望も失いかけていたのでしょう。そういう彼らに、イエス様は「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語りかけています。イエス様は神の子として権威を振るうのではなく、神の子でありながら、イスラエルの民衆、しかも弱い者、病で苦しんでいる者、差別されている者に連帯され、御自分に従って来なさいと。そして私の示す生き方に共に生きよ、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる、と語りかけているのです。

ひるがえって今日の私たちの生活ですが、過酷なノルマを与えられ、そのノルマ達成に必死になっている私たち。ノルマ達成出来なければ、存在価値も認められないような社会の中での生活は、心の安らぎもないのではないでしょうか。そして多くの人々この只中にいながらがこの現実を直視することなく日々喘ぎ過ごしでいるのではないでしょうか。そういう人々に今日もイエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と声をかけてくださっているのです。イエス様の語りかけに聞き従い、イエス様が与えてくださる安らぎを得て日々過ごしてまいりましょう。

        (マタイによる福音書112830節)

 

 

724日 奨励 ―                片桐 健司 兄

             「キリストの体」

2日間にわたって奥多摩でのキャンプ。すばらしい自然の中で、楽しく過ごせてきたことは本当に感謝でした。

神様ってどんな方?

2日目の朝は、鈴木広勝さんから私たちはキリストの体であることをお話ししていただき、そして松村先生からは、自然の中で神様のことを思うときを与えていただきました。松村先生の「神様のことをどう感じられますか?」という問いかけには「神様は鳥も緑も与えてくださった」「私(すべての人)に命を与えてくださった」「神様は、誰にも同じように愛を与えてくださった」「神様は、愛、平和・・・」と、皆さんは答えられていました。

神様はどこに?

では、神様はどこにいるのでしょうか。神様は、高い空の上にいるわけではありません。私たちの周りのどこにでもいます。誰も見ていないと思っても、神様はあなたのことをそっと見ています。あなたの心の中にもいます。

キリストの体になるために

このような神様に感謝して、キリストの体として私たちも歩めたらいいですね。そのために私が昔、教会学校で5つの大切なことを学びました。それは何でしょう?それは

  1. 聖書を読む。

  2. お祈りをする。

  3. 礼拝を守る。

  4. 献金をする。

  5. 友だちを教会にさそう。

の5つです。これは、今でも大切にしたいと思っています。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

テサロニケの手紙では、その大切なことをこのように書いています。「いつも」はどんなときでも、ということです。どんなにつらいときでも喜んでいるというのは難しいことですが、つらいときに神様のことを思うと、つらさが喜びに変えられます。「絶えず」ということも「いつでも」ということです。祈りとは神様とのお話です。道を歩いているときも、仕事をしているときも、教会で祈るとか、食事の前で「神様・・・」と祈るときだけでなく、いつも私たちは神様とお話することができます。いつも神様に話しかけることができたらいいなと思います。「どんなことにも」ということは、いやだと思うこともおもしろくないと思えることでも、困ったな、苦しいなということでも、感謝しようということです。なかなかできにくいかもしれませんが、すべて神様の計画のなかにあることを知ったときに、感謝することができるように思います。

奥多摩での楽しい2日間で得られた恵みを、みんなで分かち合いましょう。

           (テサロニケの信徒への手紙一51618

 

 

717日 説教 ―           牧師 松村 誠一

          「神の知恵であるキリスト」

パウロは第3回目の伝道旅行でエペソに滞在しておりますが、そのエフェソでこのコリントの信徒への手紙一を執筆しています。教会が設立して、一年でしょうか、二年経つのでしょうか、コリントの教会は早くもいろいろな問題を抱えておりました。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と分派が生じ、分派同志の争いがありました。またユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求め、パウロが語り伝えた福音からからどんどん離れ、イエス様の十字架の死がむなしいものになってしまっていたのです。

 そういうコリントの教会にパウロは語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と。十字架の言葉とはイエス様が十字架の死をもって救いの道を示され出来事が語り伝えている言葉でしょう。しかし十字架刑によって殺害されたイエスが救い主であるなど愚かなことであり、救い主とし信じることなど出来ない人々が沢山いたのです。そのような人々にパウロは、イエス様が十字架の死をもって示され救いの出来事は、わたしたち救われる者には神の力であることを語り伝えております。

123節前半に注目してみましょう。「わたしたちは、十字架に付けられたキリストを宣べ伝えています」。岩波書店から出版されている「新約聖書」で青野太潮先生はこの箇所を「それに対して私たちは、十字架に付けられてしまっているキリストを宣教するからである。」と、原文の通り現在完了形で訳しておられます。そして先生の著書「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」で次のように述べておられます。「キリストがまず『私たちのために』十字架にかかってくださったから、などというのではなくて、キリストは十字架上で、ご自身神のみ旨がわからなくなられて、あのように絶叫されているのです。それは『他者のために、その罪を贖うために死ぬのだ』などという崇高な思いを抱きながらの死の姿では、決してありません。キリストご自身も苦しみ、『弱さ』を包み隠されなかったのです。そしてさらに、そのキリストは、今なお私たちと『共に』苦しみつつ、呻きつつ、十字架につけられたままの姿でもって、私たちと共にいてくださるのです。だからこそ私たちは、最終的には、その十字架のキリストは、『私たちのため』の存在なのだ、と告白することができるのです。」(p,210,211

私たちも、この青野先生が示している(勿論パウロが示しているイエス様ですが)イエス様こそがまことの救い主であることを受け入れなければ、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの」となってしまうでしょう。

イエス様の十字架の出来事は、神の知恵であり、あの弱くされたイエス様において神の力が現れており、十字架の苦しみを担われたイエス様が今もなお、その苦しみを担いつつ、私たちに寄り添ってくださっているのです。

     (コリントの信徒への手紙一11825節)

 

 

 

710日 説教 ―               牧師 松村 誠一

              「新しい人間関係」

「金持ちの議員」という見出しが付いている箇所ですが、金持ちの議員はイエス様に「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねています。イエス様は「『姦淫をするな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはすだ。」と金持ちの議員に語りかけています。この議員は「そういうことは子供の時から守ってきました。」と答えておりますが、その議員にイエス様は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」と語りかけています。人間の行為によって永遠の命を受け継ごうとする金持ちの議員に、イエス様はそれでは人間の行為を徹底してみよ、と言っているのです。そして永遠の命は人間の行為によるのではなく、神の愛と憐れみによるものであることをイエス様は明らかにしているのです。そしてイエス様は結論として「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と述べおります。ここにおいても、イエス様は人間が救われるのは神の愛と憐みによるものであることを語っています。罪ある人間が永遠の命を受け継ぐには、らくだが針の穴を通ることが不可能のように不可能なのです。しかし、イエス様は「人間には出来ないことも、神にはできる」と語り教えております。そしてその話の締めくくりとして「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」と語っています。

イエス様のこの言葉を私たちはどのように理解したらいいのでしょうか。家は私たちが生活する上でとても大切なものです。妻、兄弟、両親、子供はとても大切な存在です。しかし、その大切なものに永遠の命があるのではないのです。その大切なものを捨て、神を第一にすることにより永遠の命を受け継ぐことが出来るのだ、といことが語られているのです。そして神を第一にすることにより、つまり永遠の命を受け継ぐことにより、この世の全ての事に意味があり、神の祝福に与ることができるのだということです。

神を第一とせず他のものを第一とする時に夫婦の関係においても、他者との関係においても危うい関係となってゆくのではないでしょうか。神を第一とする時に、妻との関係においても、夫との関係においても家族の関係においても正しい関係となり、神の祝福に与ることが出来るのです。神の国へと招かれるために、家や妻、兄弟、両親、子供を捨てるならば、それは捨てっぱなしではなく、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」とイエス様が語っておりますように、イエス様によって新たな正しい、そして意味ある関係が築かれていくのです。

     (ルカによる福音書182430節)

 

 

 

73日 説教 ―            牧師 松村 誠一

               「神の選びと祝福」

 今朝の聖書の箇所は、そのエサウとヤコブの誕生から始まり、兄エサウが長子の権利を弟ヤコブに渡してしまった出来事が記されています。最初にエサウが生まれ出て来て、次にヤコブが生まれてくるのですが、ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで生まれてきております。兄のかかとをつかんで生まれてきたということは、弟ヤコブが長子の権利をつかんで離さないということをその誕生から物語っているのです。またエサウは創世記368節に「エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。」と記されている通り、エサウはエドム人という民族をも指し示しております。ここでの物語は単に双子の兄弟に留まらず、イスラエル人とエドム人という民族間の争いをも暗示し語られております。

いよいよヤコブが長子の権利を奪い取る行動にでております。野原で猟をして疲れて戻ってきたエサウはヤコブに「お願いだ、その赤いもの(アドム)、その赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れ切っているんだ。」(2530)そのエサウの願いにヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」と答えております。このとんでもない交換条件をエサウはいとも簡単に受け入れてしまいます。長子の権利は、どうでもよいなどというものではありませんでした。家の長として財産全部を相続するわけです。この物語は創世記で数章にわたって続くわけですが、ご承知の通り、ヤコブは母親リベカにそそのかされ、父親イサクをだまし、まんまと長子の権利を手に入れてしまいます。しかしヤコブはエサウの恨みを買い、母親の兄にあたるラバンが住んでいる地に身を寄せることになります。ヤコブはここで、叔父のラバンに言いように使われ、実に20年間の月日をラバンのために働くことになります。

 兄エサウをだまし、まんまと長子の権利を得た、狡猾なヤコブ。このヤコブがなぜ、神から選ばれ、神の祝福にあずかることができたのでしょうか。神は何を基準に選び、何を基準に祝福を与えているのでしょうか。選びに関する聖書箇所を読んでおりますと、神に選ばれた人たちには一つの共通項があるように思います。それはヤコブにも見られますように、狡猾でとんでもない人間です。神は正しい人間だから、優しい人間だから、ヤコブを選ばれ、祝福したのではないのであります。その逆で裁かれて当然な人物です。しかし神は憐みをもって選ばれたのです。

私たちも神に選ばれた者です。私自身について考えてみても私が信仰に導かれ、キリスト者として選ばれた。それはどうしょうもない弱さをもっている。そしてその弱さのゆえに、様々な辛いことを経験しなければならない。悲しいことを経験しなければならない、そのような私を、ただ神の憐みよって信仰に導かれ、神に選ばれた者として神からの祝福を頂いて、信仰生活を送らせていただいていることに気が付かされます。そしてこれは私だけではないでしょう。キリスト者すべてがただ神の憐みによって信仰に導かれ、神の祝福を頂き、日々過ごしているのではないでしょうか。このことを今日共に確認をし、神に感謝しつつ日々歩んでまいりたいと思います。 

             (創世記252734節)