726日 証 ―            証:堤 秀幸

 

                       「カイザルのものはカイザルに」

昨年この同じ時期にお話させて頂いたのが、「なくてならぬものは多くはない。いやひとつだけである」というマルタとマリアのおはなしでした。その時に私は「イエス様に聞くという生活を選びとっていくこと。それは自分を捨てるという信仰を積み上げていくこと。」のお話をしましたが、自分自身が一向に変わっていないことを恥ずかしく思っています。

そんな中で、本日また私が奨励をさせて頂くことになり、大変恐縮をしています。

本日のテーマ「カイザルのものはカイザルに」は口語訳聖書のことばです。新共同訳聖書は読んで頂いたように「カイザル」ではなく「皇帝」となっています。私たちが良く知っていますシェイクスピアの戯曲に出てくる「ジュリアス・シーザー」はカエサル=カイザルですが、口語訳聖書のカイザルはこの人ではなく、彼以後に皇帝の地位についた人たちのことを「カイザル」と呼ぶようになったようです。それで新共同訳は「皇帝」にしたのかもしれません。この箇所は、イエス様をおとしいれようとパリサイ人とヘロデ派の人たちが一緒になって「ローマに納める税金」のことについて尋ねています。ユダヤはローマによって支配されていましたが、神の民であるユダヤ人は異邦人であるローマに税を納めるべきでないと考えていたユダヤ人がパリサイ人も含めて多くいました。また反乱を起こしたりもしています。

逆に、ヘロデ王朝に従順な「ヘロデ派」の人々はローマによって王様としての地位を得ていましたので、ローマの統治には「協力的」でした。ローマに税を納めなさいと言えば、反ローマの民衆の支持を失い、反対にローマに納める必要はないといえばヘロデ派から訴えられる。というどちらにも難しい判断でした。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と想像もしなかったことをおっしゃいました。

さて、この箇所の意味合いですが、バークレーの注解書によれば次のように書かれています。我々は二重の国籍を持っている。一つは自分が生まれ育った国の国籍。クリスチャンは国家に対して良き市民として、義務を怠ってはならない。もう一つは天国の市民であること。クリスチャンは神に対して責任を取らねばならない。もし神のみこころに反するようなことがある場合には、それに反対し、それに関与してはならない。しかし、この二つの義務の境界線がどこにあるかは、イエスはいわれない。これは個人の良心の問題である。「カイザルのものはカイザルに」は「日本国のものは日本国へ」となります。

私は以前勤めていた会社で同期のものに「おまえがクリスチャンか?」といわれたことがありました。それ以来その言葉がいつも私についてきて離れません。青野先生の「どう読むか、聖書」の本の中に「ぶどう園の日雇い労働者の譬話」に関連して、「あなたはどこに立っているのか」と書かれている箇所があります。「おくれてぶどう園に行って、一時間しか働いていないのに一日分の賃金をもらったひと」と、まさに自分が同じであることにこの本から気づかされます。「おもえはどこに立っているのか」と。翌日になっても変わらず、1時間しか働いていないのに1日分の賃金をもらっている私。私の残りの命が終わるまで、わずかなものしか返せないでしょうが、「神のものは神に返しなさい。おまえはどこに立っているのか」と自分に問い続けていきたいと思っています。

(マタイによる福音書221522

 

―7月19日 説教―                                 牧師 松村誠一

                            「イエス様による癒し」

 ベトザタの池の周りには、様々な病気を抱えた人々が共同生活をしておりました。日本の湯治場をお考え頂ければ、この聖書の場面が良く理解できるのではないでしょうか。この池は間欠泉だったようです。池の水が動く時に最初に水の中に入った者は、病気が癒される、という言い伝えがありました。そこに重い病気にかかり何と38年間も池に入ることが出来ず池の傍らにいた人が、イエス様と出会って、イエス様の言葉によって病気が癒されたという話です。

 イエス様は、この病人に対して「よくなりたいか」と声をかけております。このイエス様の問いにこの病人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。と答えています。なぜ、この病人はこのようにしか答えられなかったのでしょうか。それはこのベトザタの池での生活がそのような答えをさせたのでしょう。この病人は“病気が癒されたい”というよりも、そこでの人間関係が病い以上に辛かったのではないでしょうか。私を水の中に入れてくれる人がいない。つまり、そこでの人間関係が閉ざされて、自分に係わってくれる人がいないのだ、ということをこの病人は訴えているのです。池のほとりでの闘病生活は人よりも先に池の中に入らなければならいという競争社会です。ここでの生活は病気を患っている人にとって、その病気以上に、辛いことだったのではないでしょうか。そのことをご存知のイエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じられたのです。

 ベトザタの池のほとりとは、今日の私たちの社会そのものではないでしょうか。自分が治りたいために、他の人より先に池に入っていかなければならないように、自分がこの世の勝利者となるためには、他者をかき分け、自分の存在をいつもアピールしなければならない。他者の存在が目に入ってこない社会が築かれています。そしてこのような社会はいつの時代でも、競争に破れ、傷つき、社会からはじき出されてしまう人がいるのだ、ということをこの聖書を通して知らなければなりません。

そして私たちが38年間も病気で苦しんでいる人であり、そしてまた同時に38年間も病気の人をベトザタの池のほとりにほっておいた多くの人々なのです。 私たちも“誰も私を池の中に入れてくれる人がいない”と悲嘆している人間ではないでしょうか。しかし、そのような私たちにイエス様は「起き上がりなさい」と声をかけてくださっているのです。そしてその呼びかけに答えるならば、私たちは癒され、そしてその呼びかけに応え、神が与えて下さる使命に生きることができるのです。そしてその生き方こそ、人間としての責任ある生き方なのです。また人間として責任ある生き方とは“38年間も病気で苦しんでいる人が周りにいるということを覚え、その人の隣人となっていくことでしょう。      

                   (ヨハネによる福音書5章1~10節)


―7月12日説教―                                  牧師 松村誠一

                      「悔い改めなければ滅びる」

ローマの総督ピラトがエルサレムに巡礼に来たガリラヤ人を殺害し、そして彼らの血を見せしめのために、彼らがいけにえとしてささげた動物の血に混ぜて、一緒に捧げた事件が報告されています。

この事件をイエス様に伝え人物は、このような悲惨な目に遭ったのは神からの罰を受けたのではないかという思いがあったのでしょう。イエス様は「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と話され、シロアムの塔が倒れた事件について語っています。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と。

まず、私たちはここで学ばなくてはならないことは、不慮の事故、あるいは偶然に巻き込まれて亡くなられた方は罪を犯したからであるとか、他の人より罪深いからと理解してはならない、ということです。そして同時にそのような仕方で亡くなられた方が、どうして亡くなったのか、その理由を見出す必要はないということです。イエス様ご自身も、なぜそのようなことになったのか、何もお答えになっておられません。イエス様が語っているのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という事です。そしてイエス様は人々の悔い改めをどんなに望んでいるのかを告げ知らせるために「実のならないいちじくの木」のたとえ話を語っております。ぶどうもいちじくもイスラエル民族を指しております。畑の持ち主は神、園丁はイエス様ご自身です。畑の持ち主は園丁に3年も経てば実を結ぶのに、このいちじくの木は一つも実を結ばない。そんな木は伐り倒してしまいなさい。と命じるのですが、園丁は「御主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実が鳴るかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」とぶどう畑の持ち主にお願いをしております。

3年間とは、イエス様の公生涯を思い起こすことが出来るのではないでしょうか。イエス様は、救い主として公生涯の3年間、福音を宣べ伝え、悔い改めを迫りました。本田哲郎神父は“悔い改め”を“低みに立って見直す”と訳しています。本田神父の訳に従いますと、イエス様は低みに立って見直していくことを迫った、ということになります。そして最後は、十字架の死、そして復活の出来事を通して、低みに立って見直して生きることが、神によってよしとされ、死から命へと生かされることを明らかにして下さいました。私たちも“低みに立って見直し、福音に信頼してあゆみを起こし、復活の命を頂き、日々歩んでまいりましょう。

                       (ルカによる福音書13章1~9節)


―7月5日説教―                 牧師 松村誠一

           「与えられた“私”を生きる」

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコによる福音書8章34~36節)

イエス様は、ご自分に従うことを選び取った者に「自分を捨てる」ことを要求しております。自分を捨てる、ということはどういうことでしょうか。“自分”とは肉をもって生まれてきた生来の自分であります。この生来の自分というのは、神との関係が無い自分であり、その自分はいつも自己中心で、自己愛に満ち満ちております。“自分を捨て”とは、そのような自分に気付き、その自分に否を言える自分であることだと思うのです。この否を言えることが出来るのは、イエス様が御自分の生涯を通して具体的に示して下さった愛に触れることによってであります。イエス様は次に「自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と語っています。自分の十字架とは、その人、個々人に与えられた重荷でしょう。肉をもって生まれてきた生来の自分です。これはイエス様を信じたら消えてなくなるものではありあません。自分に与えられた十字架として背負っていかなければならないものです。しかしそれを背負ってイエス様の後に従っていく者が本当の自分として生きる者とされるのです。

フランシスコ会の本田哲郎神父は上記の箇所について「 3.11 以後とキリスト教」(ぷねうま舎)で次のように述べています。「ここは『命』ではなく、プシュケーなのですから『自分自身』あるいは『自分らしさ』を失ったらどうにもならない、と言っているところです。とすれば、イエスはやはり、どう生きるのか、いかにして互いに相手を大切にし合うのかと問うているのであって、それこそが、死ぬ時の安心感や平静さの支えになるというメッセージを含んでいると思います。」(p、188,189)36節は本田神父の訳ですと、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分らしさを失ったら何の得があろうか。」となります。“自分らしさ”とは、神が望んでおられる自分として生きることであります。イエス様が「私を」どのように見て、どのように接して下さっているかで「私を」が決定されていくのです。それには御言葉と祈りです。御言葉を頂き、祈る中でこの私がいつも問われます。そしてイエス様はどのような私として歩むべきかを、いつも心の内に示して下さいます。そしてこれだけは確かなことですが心の内に示されたことが、自分自身にとって不利であったり、いやなことであったり、損をすることであっても、それを行っていく者に、事の大小にかかわらずイエス様は必ず、喜び、平安を与えてくださいます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主イエス様に従って歩んでまいりましょう。

       (マルコによる福音書8章31~9章1節)