説教記録8月

829日説 教―               牧師 山中 臨在

    「アンパンマンの生き方」

          マタイによる福音書253140

アンパンマンのモデルはイエス・キリストだそうです。飢えている人、泣いている人、社会的に弱い立場にあった人を助け、自分の肉体を差し出して私たちを救われたイエス様の生き方を、アンパンマンを通して伝えているのです。アンパンマンの作者(やなせたかし氏)にとって真の正義とは、難しい主義主張ではなく、飢えた人にパンを与える、ただこの一つです。これがアンパンマンのやっていることです。アンパンマンは武器を持たず、彼はただ、自分の持っているもの(自分の顔=アンパン)を差し出して人を助けています。アンパンマンでなくてもできることです。イエス様が言われる「飢えている人に食べさせる、喉が渇いている人に飲ませる、旅人に宿を与える、裸の人に着せる、病気の人を見舞う、牢獄にいる人を訪問する」ことも、特殊な技能がなくても、誰にでもできることです。しかし誰でもできそうなことが実はなかなかできないのではないでしょうか。人は他者と関わることで自分が傷つくことに対する恐れがあります。やなせさんは「傷つくことを覚悟しなければ正義は行えない」と言います。アンパンマンは人を助けると、即ち自分の顔をちぎられると自分の力がなくなり傷つきます。それでもいつも困っている人を探して助けられるのは、自分が傷ついたらジャムおじさんが必ず新しい顔を作って力を与えてくれることをシンプルに信じているからです。

私たちの信仰生活はどうでしょうか。周りの人々に目を向けているでしょうか。確かに他者と関わり他者を助けようとする時には大なり小なり傷つくのでしょう。面倒臭いことかもしれません。しかし神様がそんな私たちに「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得」る(イザヤ40:30-31)と言っておられます。アンパンマンは自分が傷ついても力を回復してくれるジャムおじさんを心から信頼して、人と関わり人を助けます。私たちも自分が傷つくことを知っていながらその傷をいやしてくださる主を信頼して他者と関わっていこうとしているでしょうか。何よりも、イエス様ご自身が傷を受けられたことによって私たちが生かされ力を受けていることを覚えているでしょうか。

他者に手をさしのべることは、誰か立派な人だけに委ねられたことではなく、神様の助けなくしては立つことのできないこの小さな「私」に神様が託されていることです。それは面倒臭そうですが、実は喜びあふれるできごとなのではないでしょうか。アンパンマンの歌はこう言います、「そうだうれしいんだ生きる喜びたとえ胸のきずがいたんでも」。そして小さな他者に手を差しのべることは自分にしてくれたことだと言って、イエス様は喜んでおられるのです(40)。

あなたはどんなアンパンマンになりますか?小さな者の小さなわざを喜んで下さる神様の招きに応えて歩みたいと思います。

 

822日 説教 ―                         牧師 山中 臨在

「あなたと関わりたい」 ローマの信徒への手紙15 : 713

 「すべての民は主を賛美せよ」と主は言われます。世界中の人々が心を一つにして礼拝をするということを神様は求めておられますが、今私たちが住む世の中は、一つとなっているでしょうか。あちらこちらで争いが絶えず、民族や性に対する差別が横行し、独裁者の支配下で多くの人々の命と自由が奪われているのが現状です。苦しみの中にいる人たちの痛みを、私たちはどのくらい感じているでしょうか。

 「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7)と聖書は語ります。「受け入れる」というのは、「きらいな相手のことも我慢して付き合う」ことではなく、心から歓迎する、あるいは心から仕えるという意味です。それはイエス様の生き方でした。イエス様に敵対する私たちを主は心から受け入れてくださったのです。イエス様は王として華やかに生まれたのではなく、貧しい家畜小屋でひっそりとお生まれになり、また自分の弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13章)。彼はそのようにして自分を低くして人に仕えられました、それがイエス様がおっしゃる「人を受け入れる」ということなのです。そのように「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」すなわち、相手の足を洗うように人に仕えなさいと、主は求められているのです。

 イエス様が小さい者として生まれ私たちに仕えてくださったのは、私たちがどんな者であろうとその私たちに関わってくださるためです。身分の高い人、すぐれた頭脳を持つ人、裕福な人、あるいは信仰深い人たち「だけに」関わるためではないのです。むしろ身分の低い人、貧しい人、苦しんでいる人、信仰深くない人とこそ関わりたいのです。名もないあなたに関わるために十字架にかかって死なれたイエス様を見上げ、私たちもまた互いと関わり互いを受け入れるものでありたいと思います。

 人と関わることは、面倒くさいことかもしれません。皆自分のことで精いっぱいです。しかしその中で多くの尊い命がないがしろにされていく現状を見て、私たちの心は何も感じないでしょうか。「おのおの善を行って隣人を喜ばせなさい」(ローマ152)と聖書は語ります。それがイエス様の歩まれた生き方でした。私たちはこの言葉をどう受け止めるでしょうか。

 

  忙しい私たちにも、他者と関わることができます。それは祈りです。他者を覚えてほんの少し自分の時間を献げて主に祈る時、主はその祈りを聞いてくださいます。一人の小さな祈りが教会中で結集されれば、さらに豊かな実を結ばせてくださることでしょう。あなたに関わってくださったイエス様が歩まれた生き方に倣い、私たちも隣人を覚えて祈りましょう。

 

815日 説 教― 牧師 山中 臨在

「安全・安心」出エジプト記203,1317

最近よく聞く「安全・安心」という言葉は、誰にとって安全・安心なのかがはっきり示されていないと説得力がありません。ある人やある国にとっての安全・安心を確保するために、他者や他国の安全・安心が奪われている現実の中にいる私たちに、聖書は何と言っているのでしょうか。

十戒の後半の5つ(「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の家を欲するな」)は、他者との関わりに関する戒めです。姦淫とは、平たく言えば不倫をすることですが、それは自分の欲望のために隣人の家族を破壊し隣人の安全・安心を奪う行為です。他者の所有物を盗むことはその人の人格を侵害し、他者の安全・安心を損なう行いです。偽証とは裁判だけのことではなく、噂話や悪口などを含み、他者の安全・安心を焼き尽くしてしまいます。隣人の持ち物を欲して手に入れると自分は安心しますが、奪われた者の不安にはお構いなしです。「殺す」(ラーツァハ)という言葉は、自分の安全・安心を得るために他者の安全・安心を奪うすべての行為を意味します。従って、物理的な殺人だけでなく、ここに書かれていることはすべて、他者を殺す行為であり、このことは今を生きている私たちに語られている戒めです。

 またこの戒めは、単に他者との関わりにおける道徳や倫理を教えているのではありません。中心にあるのは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(203)ということです。すべての生命は神が創造し治めるもので、人が好き勝手に取り扱うことはできません。だから生命を殺すことは、神を神としないことなのです。姦淫も、真の神以外のものを第一にする偶像礼拝です。社会が豊かになればなるほど人間の欲望は膨らみ、隣人を貪ってでも自分の欲求を満たそうとし、自分の安全・安心のためには隣人がどうなろうとお構いなしになっていきます。しかし隣人は神が命を与えられた尊い存在です。隣人に対する罪は、神を神としない罪であり、神に対する罪でもあるのです。

  真の安全・安心は、神を神とすることによってのみ与えられます。「私」が主語になっている安全・安心は平和を生み出しません。各国が自国第一主義を唱えて自国の安全・安心を模索している間は、世界の平和は訪れません。一部の国が平和になったと勘違いする中で、痛み、苦しみ、そして憎しみが広がり、結局平和とは程遠い世界になっていくだけです。各国のリーダーたちが神を神として真の平和が訪れるように祈りましょう。同時に私たちは一人一人、自分自身の中にある、自分の安全・安心のために他者を殺しても構わないという思いに気づかなければなりません。それに気づかせてくれるのは、御言葉です。御言葉に絶えず触れ、唯一の神を神とするところに立ち帰り、罪を悔い改めていきましょう。キリストにある平和が私たちの心の隅々にまで行き渡るように祈ります。

 

88日 説 教―              牧師 山中 臨在

 「初心」Ⅰテサロニケの信徒への手紙1110

テサロニケの教会は、生まれたばかりの教会なのに早くもひどい苦しみを受けて労苦していますが、驚くべきことにそんな中でもまだ赤ん坊のこの教会から、主の言葉がその地方全体に響き渡り、彼らの信仰が至るところで伝えられています。苦しみの中でも「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主に倣う者となって」いたのです。これは、伝道開始60周年を迎える私たち品川教会の原点、立ち返るべき初心なのではないでしょうか。

赤ちゃんは未熟で手がかかりますが、新しく生まれた命に、止められない喜びと感動があります。また赤ちゃんは自分では何もできないことがわかっているため、ひたすら親を見つめ、一切疑うことなく親を信頼します。テサロニケ教会も品川教会も、生まれた時には、全幅の信頼を主に寄せて、神様に愛され命を与えられた喜びと感動が満ち溢れていたでしょう。そしてその喜びと感動を伝えずにはいられなかったのです。テサロニケ教会同様品川教会も、地域からの苦情がある中でも、主に信頼し主にある希望を見つめて、心を合わせてひたすらに祈ったことでしょう。教会は礼拝や伝道への情熱を止めることはできなかったのです。まさに「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」ていたのです。そして苦しみの中でも神の言葉を伝えた主イエス様に倣う者として、日夜伝道に励みました。

 時間が経つにつれ私たちは信仰の初心を忘れていきます。教会の本来の目的や喜びを見失ってしまうのです。教会の初心に戻ることを聖書は「偶像から離れて神に立ち帰る」と表現しています。偶像とは、神ではないものすべてです。文字通りの像に限らず、お金、名誉欲、対立、差別、など自分本位なことは皆偶像です。そして残念ながら人はみなこの偶像を持っているのですが、それらを皆手放して神様に立ち帰りなさい、そして疑うことなく赤ちゃんのように無邪気に神様を信じて神様を愛して神様を伝えてゆく初心に戻ることが大切だと、聖書は語っているのではないでしょうか。

 建物が立つためには、丈夫な柱が必要です。教会の3本柱は、礼拝、祈祷会、教会学校です。60年を迎えるにあたり、私たちはこのことをぜひ覚えておきたいと思います。イエス・キリストという大きな柱を中心に、私たちは礼拝、祈祷会、教会学校の3本の柱を守り、これを見失わないようにしましょう。これらの柱がないと教会は崩れてしまいます。その他のもの(教会組織や様々な行事・活動など)はこれらの柱を支えるための良い手段ですが、それら自体が柱(目的)ではありません。教会は時代と共に変わるべきところは変わっていくことは大切ですが、時代が変わっても変わらないものが、イエス・キリストの柱を中心とした、礼拝、祈祷会、教会学校の3本柱です。

教会が還暦を迎える今、これらの大切な柱を思い、初心に立ち帰ってただ主を見上げて礼拝し、福音を伝えていきましょう。

 

81日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

    「 あしあと 」 イザヤ書46:34

  人は一人では生きていけません。特に挫折や試練の只中にいる時には、誰かそばで一緒に歩き支えてくれる人が必要です。神様は、クリスチャンになったからと言って必ず成功したり必ず病気が治るとは言いません。むしろ信仰を持っても試練や困難が襲ってくるとおっしゃいます。そんな時でも神様は「あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(申命記318より)方なのです。

  しかし聖書が伝えるメッセージは、それ以上のものです。主は私たちを背負ってくださるといいます(34)。共に歩くだけではないのです。共に歩いてくれる人に抱きついたり寄りかかることで、私たちは少し重荷が軽減されますね。でもそれではすべての重荷からは解放されないのです。どこかで自分は立っていなければなりません。本当に苦しい時というのは、自分が立ち上がれない時ではないでしょうか。立ち上がれず倒れている人を助けるには、その人を「背負う」ことが必要です。人を背負うとは、その人の全体重をかつぐことですが、それはその人の全存在を担うことです。その人の喜びは勿論、病気も貧困もあらゆる苦難をすべて引き受けることです。それは実際私たち人間には不可能です。残念ですが、いくら家族であっても、親友であっても、他者の喜びや痛みの全てを理解して担うことはできません。しかし一人だけそれができる方がいます。イエス・キリストです。イエス様はすべての人の痛みや重荷を背負って十字架の道を進まれました。そこには肉体的にも精神的にも極限の苦しみがありました。それを御自分が経験することによって、私たちすべての人間の苦しみを背負ってくださったのです。「それほどまでに神はあなたのことを愛しているよ」ということを伝え、そして復活なさって、死の先にある希望を自らが示してくださいました。困難や試練の時に、「あなたを背負う」と言ってくださる方がいることを知って信じること、その方にしがみついて背負ってもらうことが信仰なのではないでしょうか。

  あるクリスチャンが書いた、「あしあと」という詩はこのように言います。「主と共に歩む人生をふりかえると、いつも二人分のあしあとがあった。一つは自分のもの、一つは主のもの。しかし自分の人生で一番つらく悲しい時に、一つのあしあとしかなかった。『主よ、なぜ私の人生の一番つらい時にあなたは私と一緒に歩いてくれなかったのですか』と問う私に、主は『私の愛する子。あしあとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていたのだよ』と答えた。」

  背負ってくださる主は、私たちの人生のいつも、たとえ私たちが神様を信じていない時も、神様に目を背けている時でも私たちを背負ってくださる方です。それを信じる人生はより豊かで、より平安なものになるのではないでしょうか。

  あなたの人生には誰の足あとがありますか?あなたの人生にはいつも変わらずに必ず、主の足あとがあることを信じて歩みませんか。