説教記録8月

830日説 教―                村中 範光 先生

      「イエス様を語る」 使徒言行録8:2640

伝道は教会の大事な働きの一つです。今年度の年間聖句がまさにそれです。ただ伝道と聞くと、つい教会でその活動がなされているからとか個人的にはとても難しいと感じられている方は多いと思います。イエス様はせっかく「あなたがたは」とイエス様に従って生きようとしている一人一人の人たちに、すなわち私たちに語り掛けて下さっています。そこで個人としての伝道について一緒に考えてみたいと思います。

新約聖書のなかにはイエス様の死後イエス様の事を伝えようと活動した人々の記録が「使徒言行録」として残されています。多くの人たちの活動が記されていますが、今回はステファノの話に耳を傾けてみましょう。ステファノは最初のキリスト教徒の集まりでギリシャ語を話す人たちの奉仕の為に選ばれた7人の一人です(使徒6:1-7)。7人の中には最初の殉教者になったステファノも含まれていました。初代キリスト教会はイエス様を救い主として信じ、イエス様の事を伝えたいとの熱い思いを持った人たちの集まりでした。私たちの伝道への第一歩は、イエス様の事を伝えたいとの思いではないでしょうか。その思いの実現のために必要なのは一所懸命な祈りです。イエス様ご自身いつも祈っておられました。伝道についての具体的な祈りは、「誰に、いつ、どのように」かをお示し下さいという祈りでしょう。

フィリポの祈りは聞き届けられ天使が伝え、霊が導いてくれました。彼が出会ったのはエチオピアの宦官、それも高官でした。宦官は特別な地位にいる人で、女性しかいない居住区の管理とさまざまな仕事を担っていました。女性しかいない場所なので去勢されていました。エルサレムでの礼拝に参加しての帰り道でした。彼は深い信仰をもっていましたから聖書をよく読んでいました。ただ彼のまわりには教えてくれる人がいませんでした。彼がちょうど読んでいた箇所は「苦難のしもべ(イザヤ5213-53:12)」の箇所でした。「彼」と書かれている人が誰なのかとの問いかけに、フィリポは丁寧に解き明かします。救いを必要としている人のためにご自身をお捧げくださったイエス様こそ「彼、苦難のしもべ」なのだと。長い間心に引っかかっていたメシア、救い主は誰なのかを大事な聖書の教えを基にはっきりと示されて、彼はバプテスマの決心をします。

個人の伝道ではイエス様の事を伝えたいとの思いを持ち祈ります。主はきっと祈りを聞いてくださり、自然な出会いに導いてくださいます。私たちは霊に導かれて、その方との対話の中でイエス様の事を、それも私のイエス様、私が感じ、思っているイエス様を語れると思います。私たちの伝道はまずイエス様のことを知ってもらいたいとの思いからスタートします。祈りましょう。

 

 

―823日 説教―              牧師 山中 臨在

          「平和を実現する」

   (マタイによる福音書5:9  エフェソ信徒への手紙2:1416)

イエス様は「平和を実現する者になりなさい」と語ります。この言葉は、「争いのある所、平和のない所に平和を作りなさい」という大変重く厳しいものです。世界の平和は国のリーダーが作るものだ、と考えるなら、「平和を実現する人々は、幸いである」というイエス様の言葉は、各国の権力者が聞くべきなのかもしれませんが、ここでイエス様がこの言葉を投げかけたのは、権力者ではなく、一般民衆でした。そして今を生きる私たちにもその言葉は注がれています。きっと私たちは争いたくない、平和が来てほしいと望んでいると思うのですが、そんな私たちの心に、争う思い、争いから逃げ見て見ぬふりをする心、争いを相手のせいにする思いが潜んでいます。自己中心の思いや敵意を私たちは神様の前に隠すことができません。私たちの心に敵意が潜んでいるなら、平和など実現できっこないのに、なぜイエス様はそんな私たちに、平和を実現する者は幸いだと言うのでしょうか。それは私たちに「神の子」となってほしいからです。

 ここで使われている「神の子」という言葉はイエス様に用いられる言葉です。平和を実現することができるのはイエス・キリストなのです。イエス様は平和のために何をなさったのでしょう。彼は「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14,16)。私たちの心にある自己中心、神と他者に対する敵意という罪が平和を妨げています。その私たちの敵意という罪をすべてイエス様は身に受けてくださって、自らは十字架にかかり、敵意もろとも死なれました。敵意を背負わせた人間を恨み滅ぼすのではなく、赦されました。ここにおいて「もう敵意はないのだ!」と神様は真の平和宣言をなさったのです。これが神の愛であり、これが「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ2:14)ということです。

 でも私たちはいまだに敵意を抱いているから、まだ敵意は存在しているではないかと思うかもしれませんが、それは私たちがイエス様の十字架を間に置いていないからです。新型コロナウイルスのワクチンが待望されていますが、ウイルスがあってもこれをなくすワクチンがあれば、ウイルスの脅威から守られます。イエス様の十字架は、敵意という罪のウイルスの脅威から私たちを守り平和を実現するワクチンです。だから私たちは常に「イエスの十字架」というワクチンと共に歩いて行かなければなりません。それが、神の子イエス様と共に歩む私たちもまた神の子と呼ばれる、ということなのではないでしょうか。

「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ルカ24:36)と聖書は語ります。イエス様の十字架を私たちの真ん中に置くことが平和を実現することです。

 

816日 説 教―             牧師 山中 臨在

    「社交辞令」 コロサイ信徒への手紙3:1217

戦後75年、私たちは今、平和でしょうか。聖書は私たちに「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」(15)と語ります。原語では「キリストをあなたの審判にして平和に向かいなさい」という意味です。運動競技では審判に競技の判定を委ねるように、「私たちが平和に向かおうとするなら、人間の判断ではなくイエス・キリストの判断に委ねることが大切だ」と聖書は言うのです。運動競技の究極的な目的は、それによってお互いを知りお互いを思いやりお互いを尊敬し合い、良い交流をし、学び合い、協力し合い励まし合うことです。勝ち負けにこだわって相手を傷つけたり侮辱したり自分の優越感を得るためのものではありません。私たちの人生も、自分とは異なる人々と共に生きる中で、違いを非難し合うのではなく、違いを喜び、違いから学び、違いを通して励まし合うことが神様に求められています。それが平和に通じる道であり、そのためにイエス様に審判になっていただくことが大切です。

イエス様を審判に置くための鍵は、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容(12)、そして愛(14)を身に着けること」です。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛。これらはイエス様が示された生き方です。私たちが自分の力で獲得することはできません。イエス様のユニフォームを身に着けないと得られないものです。私たちが自分独自のユニフォームを着ようと思うと平和が起こりません。平和のためにはイエス様の愛を示すユニフォームを着てイエス様の栄光のために歩むことが必要です。

そのユニフォームを着ている一人一人はそれぞれに個性がありますが、各自が好き勝手にしていたらチームとして一つになれません。訓練が必要です。イエス様のユニフォームを着たチームに必要な訓練として聖書は「互いに忍び合いなさい、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい」(13, 16)と教えています。忍耐をもって互いに諭し合うためには、主の言葉を宿らせて愛をもって語ることが必要です。キリストの言葉には社交辞令がありません。人を思いやるけれど人に忖度することはありません。どこまでも神中心です。人間中心の社交辞令は問題の本質を覆い、他者への無関心を引き起こしますが、この無関心こそが恐ろしい戦争を引き起こすひきがねとなります。神中心であることが平和を作り出します。私たちは、自己中心の人生から神中心の人生に変えられる必要があるのです。

「この平和にあずからせるために、あなたがたは召されて一つの体とされたのです」(15)と聖書は語ります。教会はキリストの平和を表すチームです。チームの一員であるあなたは何(誰)のユニフォームを着て、誰を心の審判にしているでしょうか? 誰を審判にしたら、真の平和が得られるでしょうか。

 

 

―8月9日 説 教―             牧師 山中 臨在

      「 心 」サムエル記上16:1~13      

 神様はサウルをイスラエルの王に選びました。しかし王となったサウルの行いは主のみ心にかなったものとならなくなり、やがて神様はサウルを王に選んだことを悔やむようになります。そしてサムエルをエッサイという人のもとに遣わし、彼の末息子で半人前とされていたダビデを次の王に任命し、サムエルはダビデを祝福したのでした。

7節に注目しましょう。「主は心によって見る」と訳している新共同訳は原文に忠実です。人は自分の目、自分の得た情報に従って物事の判断をするが、神様は「人間が見るようには見ない」で、ご自分の心によって(つまり、主のみ心に従って)人を選ばれる方です。ダビデが他の兄弟に比べて信仰深く謙遜であり、かつリーダーシップもあったから王に選ばれた、のではないのです。その理由は神様にしかわかりません。

そして、あなたもダビデのように主に選ばれています。あなたが優秀だから、あなたの心が美しいから、あなたが信仰深いからではありません。それはただひとえに神様のみ心によるのです。神様があなたを愛してくださったからです。罪ゆえに神様から切り離され滅びの道を行くばかりだったあなたを神様は見捨てずに愛されて、あなたを礼拝に招き、神様に出会わせてくださいました。半人前で王様候補になる資格のないダビデを神は王に選ばれたように、取るに足らない私たち、神様に愛され選ばれる理由のない私たちをも救う為にイエス様が十字架を背負い私たちを救いの道へと導いてくださった、それが神様の心であり、神様の愛なのです。

その神様のみ心を主の召しとして受け入れそれに従うことが信仰です。サウル王の存命中に次の王を任命せよという主の命令はサムエルには命の危険を伴うものでした。少年ダビデにとってイスラエルの王になるのは思いがけないことだし荷が重いことだったことでしょう。しかし彼らは主のみ心を受け入れ、従いました。どうしたらいいかわからないけれど「なすべきことはわたしが告げる」という神様の言葉に従いました。私たちはどうでしょうか? もし自分がやりたくないと思っている奉仕をするようにと神様の召しを受けたら、自分にはふさわしくないと思える主の召しを受けたらどうしますか? あるいは、自分はこの奉仕をぜひやりたいと思っていることを「やるな」と主に言われたら、どうしますか?

きっとどれも難しいしきついし、または面白くないことかもしれません。しかし神様の心はいつも私たちを最善に導いてくださることは真実です。私たちには見えていないことが神様には見えています。だとしたら徹底的に神様の心に従っていくこと、それが一番確かなこと、一番平安な道です。神様は取るに足らない私たちを選び出し救いの道へと導いて下さる方です。その神様を信じて、確かな、平安の人生を歩みましょう。

 

 

82日 説 教―                         山中臨在牧師

       「神様のシナリオ」       エレミヤ書29:414

バビロンに捕囚され絶望感が漂うユダの人々に、偽預言者は、あと2年したらバビロンは滅び皆故郷に帰れると言いましたが、神様は預言者エレミヤを通して「偽預言者にだまされてはならない。70年経ったらあなたたちを故郷に連れ戻すから、今はバビロンに留まって、そこで日常生活を送りなさい」と語ります。敵地で悲惨な生活をしているユダの人々には残酷な宣言のようにも聞こえますが、しかし神様は、「これは将来と希望を与える平和の計画である」とおっしゃいます。

 この平和の計画は神様が書かれたシナリオです。大国バビロンがユダの人たちを強制連行したのではなく、神様は「わたしがエルサレムからバビロンへ送った」と言います。神様がバビロンに遣わしたと言うからには、そこには意味があります。遣わされた人には役割があります。それがシナリオなのです。敵地であるバビロンは、居心地が悪く苦痛に満ちた場所です。でもその苦しい所で神様は人に役割を与えておられるのです。それは、「その町の平安を求めてその町のために祈りなさい」(7)ということです。捕囚された人々にしてみれば、敵国バビロンが一日も早く滅びて自分たちは故郷に帰りたいと思っているのに、神様はそこに留まって、バビロンを覚えて祈る役割を捕囚民に与えました。人間の計画と神様の計画は異なります。望ましいとは思えない苦しい状況にいる時、神様がそこに自分を遣わしたのであることを知りましょう。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は言われました。困難の中にあっても、自分を苦しめる人や事柄のために祈る役割を与えられていることを覚えましょう。そのような状況でも福音を伝えていく役割が私たちに与えられています。

 また、神様のシナリオは、私たちに「待つ」ことを教えます。ユダの人々は、日常の中で主の恵みに鈍感になり、「心を尽くして主を求める」(13)ことを忘れていました。そんな彼らの心が砕かれ、神様に再び心が開かれるためには、70年という「待つ」時間が必要でした。神様の赤信号に止められると自分の計画が狂ってしまうので嬉しくありませんが、神様は私たちの命を守るためにそこであえて止めるのです。み言葉に聞かず、自分の計画を実現しようとする人間の耳や目や心が神様に開かれ、神様の恵みや命を守る神様の平和の計画に気づくために神様は「待つ」ことを求められます。人は、神に背き神の恵みに鈍くなり神から離れてしまっています。それが「あらゆる国々、あらゆる地域に追いやられた」(14)人間の姿ですが、そんな私たちを主は「神のもとに連れ戻す」(14)と約束されているのです。そんな平和の計画を立てるほどに私たちを愛しておられるのです。

 70年後の平和の計画のために、今私たちは神様によってここに遣わされています。主のご計画のために今の私たちの信仰、私たちの礼拝、私たちの祈り、私たちの伝道が必要です。