説教記録8月

 

825日 説教―                 牧師 山中 臨在

   「天国のレストラン」ルカによる福音書6:3136

天国のレストランにはとても長いお箸が出てきます。長すぎるので、それを使って食べることができません。それにもかかわらず、天国のレストランのお客さんは皆楽しそうです。自分で食べることができないのに楽しそうにしているのは、皆お互いに食べさせて合っているからです。皆がそうしているから、お互いにとても親しくなるし、食べさせてくれてありがとう、という感謝の気持ちがあふれるし、おいしい料理も食べられるから幸せな気持ちになるのです。

 イエス様は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:32)と言っておられます。自分のことしか考えていない人は、いつもイライラして幸せになることはできません。でも人のことを考えて人に善いことをしている人は、人の笑顔を見て自分も嬉しい気持ちになります。イエス様自身がこのような生き方をされました。困っている人を助け、病気の人のそばに行き、みんなから嫌われている人の友達になりました。「そんなイエス様と同じようにあなたがたもしなさい。」それが、イエス様が私たちに望んでおられることなのです。「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあります・・・あなたがたは憐れみ深い者となりなさい」(35-36)とイエス様が語っているのはこのことです。あなたの周りに困っている人はいませんか? 悲しそうにしている人はいませんか? 一人ぼっちの人はいませんか? もしくはあなたのあまり好きじゃない人はいませんか? そんな人を見た時、あなたはどうしていますか? かかわると面倒くさいからほったらかしにしていますか? でもイエス様は、そういう人たちを愛しなさい、助けなさい、と言われていることを、心に刻みたいと思います。あなたのことも、自分勝手でわがままな人だな、と神様は思っておられたのに、それでもあなたを愛し助けようと、イエス様をこの世に送って、私たち一人一人を助けてくださったのです。

   私たちもイエス様がなさったように、お互いに思いやり、助け合いながら生きていきましょう。

 

 

818日 説 教―         牧師 山中 臨在

「天国の聖歌隊」コリント信徒への手紙()12:1227

天国の聖歌隊は多様性に富んでいます。あらゆる年齢層、あらゆる好みを持つ人、あらゆる国籍の人、そしてあらゆる時代の人が皆一緒に喜びを持って歌っていることでしょう。聖書は「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」(14)、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18)と語ります。神様は、私たちがいろいろであることを喜んでおられます。私たちは自分と同質、同じものを求める傾向があって、自分と違うものは心地よくないことも多いかもしれません。しかし神様は、私たちがお互いの違いを認め尊重し喜ぶことを望んでおられます。

 また、天国の聖歌隊には、すべての人が必要です。神様は一人でも天国の聖歌隊員が欠けているとおわかりになります。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」(20)とあります。体が健康であるためには、すべての器官が必要です。それぞれに意味があって神様がそれぞれの器官を作られたのです。

さてもう一つ聖歌隊にとって大切なのは、ブレンドです。聖歌隊全体としてうまくまとまっていなければなりません。合唱では、誰かの声が突出してはいけません。天国の聖歌隊は「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って」(25)います。聖書はこのように語ります。「ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した」(2歴代誌5:13)、また「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をほめたたえさせてくださいますように」(ロマ156)と。それぞれに異なる声と楽器、そして異なる個々の存在であるのに、一人の人のように、神をほめたたえ礼拝するのが天国の聖歌隊の姿です。心を合わせるためにはお互いよく聞き合うことが大切です。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(24)と聖書は語ります。人は皆弱い部分、足りない部分があります。それを認め合い助け合い聞き合いながら、キリストの体が作られていくのです。人の欠点を批判する前に、主にあって、自分も欠点のある者であり、その欠点が他者によって補っていただいていることを謙虚に受け止める、それが天国の聖歌隊ではないでしょうか。

 最後に忘れてはならないことは、天国の聖歌隊は、イエス様をかしらとする統一体であることです。「あなたがたはキリストの体である」(27)明確に聖書はこう語ります。自分たちがたたえられるのではなく、そのかしらであるイエス様に栄光が帰されなければならないことを私たちは忘れてはなりません。

 多様な働き、多様な考え方、多様な年齢層、それは分裂を起こすためのものではなく、お互いを尊重し合い、聞き合い、祈り合うために主が与えてくださった豊かさです。そのことを覚え、天国の聖歌隊のような教会となっていきましょう。

 

811日説教 牧師 山中 臨在      

        「平和が残るために」    (創世記25:711)                                                               

アブラハムは175年の生涯を終え、彼の息子イサクとイシュマエルが父を葬ります。異母兄弟であったこの二人の息子が共に父を葬ったことは注目に値します。幼い頃イシュマエルにからかわれたイサクと、イサクの母サラによって荒野へ追い出されたイシュマエル、長い間音信不通であったこの二人に、時を経て和解が起こったのだとすれば、そこに、主による平和の原型を見ることができるのかもしれません。この箇所は、神による平和、あるいは人間の争う性質について何を語っているのでしょうか。

平和を表すヘブライ語は「シャローム」といいます。このシャロームの語源的な意味は、「ありのままの姿で」です。しかし人間のありのままの姿は、争う性質に満ちているようです。世界は自国第一主義を唱える人たちが多く、結果的に争いが絶えません。しかしこれは国と国の問題ではなく、私たち自身の心の中にひそむ問題ではないでしょうか。自分本位の私たちのありのままの姿では、平和を作り出すことができないのです。

真の平和はイエス・キリストを通してのみ与えられます。イエス様は平和の君として神がこの世にお遣わしになった救い主です。そして争う本質を持つ人間と人間との間に立ち、敵意の壁を取り除かれる方です。イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と言っています。イエス・キリストによる平和は残る、

つまり平和がなくならない、世が与える平和とは違うのです。世の中では、それぞれの国が自国の平和をあれこれと考えて戦略を立てます。自国の安全のためには、外部から攻撃されたらそれと戦うこともやむなきとしています。また国連安全保障理事会は、実際には世界の平和を守るために戦争を起こしているような実情です。矛盾しています。矛盾しているのにそれがまかり通っています。いや国同士のレベルでなく、私たち一人一人の中に、自分を守るためには他人を攻撃する性質があって、自分が勝つと「平和になってよかった」と思っています。勝った人には平和だけれど負けた人にとっては平和ではない矛盾。この矛盾を解消するためには、ありのままの私たちではダメで、イエス・キリストに仲裁に入ってもらうしかありません。イエス・キリストが私たちの間に入るならば、真の平和はなくならないのです。イエス・キリストのみが、争う人間の隔ての壁を取り除くために十字架にかかって死なれました。しかし死んだだけではなく、復活して永遠の命を約束され、今も生きておられます。だからキリストの平和はなくならないのです。ありのままの私たちは、イエス・キリストを仲介人としていないから、平和が残らないのです。

 シャロームのありのままとは、神様が私達を造られた状態、神に信頼し、神が遣わされたイエス・キリストを真ん中に置いている状態のことです。私たちはそこに帰られなければなりません。

  

 

84 日説教―            牧師 山中 臨在

      「最後の晩餐」      (マタイ26:2630)

イエス様と弟子たちが最後の晩餐で食したのとって腐敗や罪の象徴であは、「種いれぬパン」でした。イスラエルの人にるパン種を過ぎ越しの食事の時には用いなかったのです。最後の晩餐には、種いれぬパンであるイエス様は罪のない方であること、パンが裂かれたのは、イエス様ご自身が十字架で体を裂かれたこと、そしてパンを食べるということは、そのイエス様を心に受け入れることを表す意義があります。パンの次に一同は杯を飲みます。出エジプトの折、家の戸に小羊の血を塗ったイスラエルの民は、神の裁きから免れましたが、この最後の晩餐においては、イエス・キリスト自らが流される血によって、それを受ける者は神の裁きを免れることが象徴されています。神様の愛の契約が確かなものであることを示すために、神の独り子イエス様ご自身が犠牲となって血を流してくださった、それほどまでに、神様は人を愛してくださったことを改めて感謝したいものです。

 さて最後の晩餐では「何を」食べるかの他に、「誰と」食べるか、ということが大切です。主の晩餐式は、「私が」主の晩餐にあずかる、のではなく、「私たち」があずかるのです。私たち、というのは、キリストをかしらとするキリストの体です。

教会はキリストの体です。自分一人でその体ができているわけではありません。主の晩餐とは、主の十字架の贖いによって、私たちが主の体とされることを記念するためのものです。自分さえよければ良いという態度は、神様のみ旨に反します。主の晩餐は、そのクリスチャンのありようが問われます。「誰と」主の晩餐にあずかるのかをクリスチャンは考えなさい、というメッセージがあります。種いれぬパンは罪のない象徴だと言いましたが、クリスチャンは罪がないのではありません。イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦された罪びとであることを忘れてはなりません。従って私たちは常に自分だけでなく、キリストの体を形造る他者のことを思い、他者に思いをはせなかった自分の罪を悔い改めることを主の晩餐にあずかる度に忘れないようにしなければならないのです。

  私たちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典を大切にします。これらはイエス様が私たちに命じられた「オーディナンス」と呼ばれる、大切なものです。主の晩餐にただ形式的にあずかるのではなく、自分の罪を悔い改める時、またイエス様の贖いによって救われてキリストの体として一つとされたことに感謝を捧げる時といたしましょう。