説教記録8月

 

826日 お話 ―              片桐健司兄

     「神の業がこの人に現れるためである」

■みなさんは、もうダメだと思ったことはありますか? 誰もが何度もそういうことを感じるときがあるかと思います。私も何度となく、そういう思いをしてきました。中学校のときには、数学のテストの問題が解けなくて、時計を見たらあと2分しかない! もうダメだ、と本気で思いました。

■今日は、二つのお話をします。

ひとつは、落語にあるお話です。与太郎さんは、お金をすっかり使ってしまって、もうダメだ、死ぬしかないと思いました。そして、首をつって死のうかと思いましたが、首のつりかたが分かりません。困っていると、「俺が教えてやろうか。」と誰かが言います。「お前は誰だ?」「死に神だ。」

■死に神は言いました。「人間には、運命というものがある。残念だが、お前はまだ死ぬ運命にない。だから死にたくても死ねない。お前に金儲けのいい方法を教えてやろう。医者になれ。死にそうな患者が来るから、その患者の寝床に行ってみろ。もし、俺様が枕元にいたら、その患者は死ぬ。これはどうしようもない。もし、俺様が足下にいたら、おまじないを唱えろ。そうしたら、俺は消え、その患者は助かる。」

■お医者さんになった与太郎さんは、死にそうなたくさんの患者さんを治し、たくさんのお金を儲けましたが、医者をやめて贅沢をして、お金を使い果たしてしまいました。

■そこでもう一度お医者さんを始め、患者さんがきましたが、その患者さんは枕元に死に神がいるではありませんか。これはまずいと思いました。そこで4人の人に頼んで、死に神が居眠りをしている隙に、布団をさかさまにしておまじないを唱えました。そしてその病人は治り、与太郎さんはたくさんのお礼をもらいました。

■「大変なことをしてくれたな!」と言って死に神がやってきました。「地獄のろうそくの火がさっきの患者とお前のと入れ替わった。ほら、お前の命はあとほんの少しだ。」「ギャーッ!」

■人の運命は自分で勝手に変えることはできません。しかし、真剣に願うことで、神様は恵みを用意してくださいます。アブラハムには、サラとハガルという二人の奥さんと、それぞれにイサクとイシュマエルという子どもがいました。サラは、ハガルたちをここから出してほしいとアブラハムに頼みました。アブラハムは心を痛めましたが、二人を出すことにしました。

■ハガルとイシュマエルは、荒野をさまよい、倒れそうになりました。もうダメだと、ハガルは大声で泣きました。そのとき、そこに井戸があったのです。二人は助かりました。もうダメだと思うとき、そこに恵みがあったのです。

■人の力ではどうしようもないことでも、もうダメだと思うそのとき、そこに恵みがあるのです。主を信頼して歩むことができればと思います。

 

                   (創世記21921)

 

 

819日 奨 励 ―              眞柄光久神学生

           「思い直される神」

神様は、絶対に間違いなどされない方だから、「思い直す」ことはないと思っていたのですが、ヨナ書を読みますと、神様が「思い直す」と3ヶ所(3931042)に書かれていて、思い直される神であることがわかります。 創世記の3章、アダムとエバの話し、善悪の木の実をアダムもエバも食べたのに死にませんでした。「食べても、死なない」ここに、神の「思い直し」の原形があります。イサクの奉献はどうでしょう。神はアブラハムにイサクを焼き尽くす捧げものとして捧げよと命令しますが、イサクを殺そうとするその瞬間、神は「殺すな」と言われます。ここにも神の「思い直し」を見るのです。 新約では、シリア・フェニキアの女の信仰(マタイ152128、マルコ72430)のところです。娘を治してほしいと思う母親としての愛情の深さと切実さにイエスは思い直されるのです。でも、神はただ単に、安易に思い直してくださる神ではありません。神に思い直してもらうためにはどうすればいいのでしょう。ヨナは祈りますが、祈りがすでに聞かれていることを確信しているのです。疑問を持ちません。神へ全幅の信頼を置いています。ヨナはまた、自分の祈りがすでに神に届いていると確信します。このことによって、神は、一旦 滅ぼそうとしても、思い直されるのです。祈りが聞かれているとの確信をもてば、神は思い直してくださいます。

以前、高校生が「なぜ人を殺してはだめなのか」と問いかけました。それは…人は愛の存在だから殺してはいけないのです。どのような悪人でも、神が魂に聖霊をもって働きかける時、回心し、神から愛される存在に変わることができます。だから、殺してはならないのです。また、神は、人間だけではなく、『無数の家畜』にも神の愛を示されます。

林京子と言う被爆作家の、「トリニティからトリニティへ」という作品の中で、アメリカニューメキシコ州トリニティを訪問した時のことが書いてあります。トリニティとは人類初の核実験が行われた場所です。その場所に、被爆から50余年を経て林京子は立ち、実験よって、一瞬のうちに焼き殺された無言の植物や、動物たちのことに思いをはせ、さめざめと涙を流すのです。トリニティという名は日本語に訳すと「三位一体」です。人類史上最も残酷な兵器を爆発させ、地上の命あるものをすべて焼き殺した場所の名前が、皮肉にも「三位一体」と名付けられているのです。神は人だけでなく、動物も惜しまれ、災いを下されることを思い直され、神の愛の中に置かれます。なにゆえに…。人、動物、植物はすべて愛の存在だからです。愛の神によって造られたすべてのものは愛の存在だからなのです。

             (ヨナ書4章:2節)

 

 

― 8月12日 証し―         原 剛 兄

     「お返しできないほどの恵み」

品川教会に通わせて頂き約23年の時が流れました。品川教会での多くの出会いに改めて感謝いたします。中でも、今はもう、天に召されましたが、牧師婦人である愛子先生との出会いから多くを学ばせて頂きました。品川教会で目に飛び込んできた様々な光景に私は驚ろかされました。教会にはいつもたくさんの弱い方がおられました。そしてその方たちは、教会と言う場所の敷居を超え、牧師館にも入り込み、まるで、そこに生まれ育った一人のように、食事をし、寝転がり、テレビを見て、ときに風呂に入り、泊まっていました。いろんな方が、それぞれの弱さをそのまま持ち寄り、さらけ出し、交わっていました。

「宴会をもよおすときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」これは、イエス様が、神の国とはこういうところだ、ということを説明するために、語られたたとえ話です。神の国は、何もお返しできないものが、何もお返しできないことを前提に招かれ、そこで、大切なひとりとして扱われる、そんな世界だということです。

愛子先生がその生涯を通じて見せてくださった世界、まさに、この神の国を証ししたように思います。有名な個所ですので小さい頃から何度も読んできた箇所です。私はこの箇所を昔から読んでいても、僕は目が見えるし、歩けるし、それなりに元気だし、何かされたら、それなりにお返しできる人間だと思いこみ、この話を、良い話ではあるが、あまり直接自分とは関係のない話のように感じていました。

しかし、愛子先生との出会いを通じて、気づいたことがあります。それは、誰でもない、私自身が、この宴会に、招かれたその張本人だということです。私は、愛子先生に何もお返しできませんでした。何もお返しできない、罪深い私が、イエス様の哀れみにより、ただただ愛されて、何の条件もなしに、招かれている。このような、大切なメッセージを愛子先生から頂けたことを、人生の宝として感謝申し上げます。

そしてまた、この言葉に励まされます。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 私からは何もお返しできませんでした。しかし、イエス様が、愛子先生に、あなたは幸いだ、とおっしゃるのです。ここに希望があります。その希望は私たち自身がベースではありません。イエス様の哀れみ、神様の約束された永遠が、ベースです。 永遠なる神様のもとに、愛子先生が共におられることを祈ります。

    (ルカによる福音書14章:1214節)

 

 

― 8月 5日 説 教―             日隈 光男先生

    「手を差し伸べて触れるイエス」

「イエスは憐れんで、手を差し伸べて触れられた」(マルコ141)、この御言葉は、妻の看病中、支えられた御言葉の一つです。

イエスさまの姿勢が表れています。「重い皮膚病」のひとは、祭司によって社会から隔離命令が出された病気と孤独に苦しむ人です。社会から除け者にされています。新共同訳が「重い皮膚病」と改訳したのは19964月の「らい予防法」の廃止にともなうものです。従来訳は長い間「らい病」としてきました。彼はイエスさまに近づく事を、律法で禁止されていました。

イエスは彼の姿を見て、憐みの心が大きくなり、自分から手を差し伸べて触れました。そして、愛情を持って癒しにかかわっていきました。らい病は今では治る病気になっていますが、昔は不治の病として本人はもとより、周囲の人々も苦しみました。約150年位前に、ノルウエーのハンセン医師がらい菌を発見し、ただちに特効薬の開発が世界で始まり、75年後の1943年に、アメリカでプロミンという特効薬の合成に成功し、今も進化しています。

 しかし、ご存じのように、それまでの歴史は、当事者や関係者に重い負担がかかる悲惨な病気でした。キリスト教も長いあいだ救援活動に携わってきました。

 新共同訳聖書翻訳委員の一人である本田哲郎司祭の「小さくされた人々のための福音」の同一箇所を見ますと、「らいをわずらっている一人の人がイエスのもとにやってきて、ひざまずき(中略)イエスははらわたをつき動かされ(放っておけないという気持ちになり)手をのばしてその人を抱きしめ」と訳されています。 本田司祭は日ごろ通称釜ヶ崎にある「ふるさとの家」を中心にして、日雇い労働者やホームレスの人々の支援活動をしています。本田司祭はその人たちに学びながら聖書の読み直しをしています。社会的弱者とされた人々を、「神は抱きかかえ、神の力を注がれる」と、力強く翻訳しておられます。

 イエスの言葉の背景に、旧約の信仰者の思いが重なって見えます。有名な詩編139編を読みますと「神は前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いて下さる」と、神は苦しみの中におかれた人間を、両手でしっかりととらえて下さるという、神の意志が賛美されています。主なる神は、わたしたちの魂をどこまでも追い求めて下さり、わたしたちの心を見抜いて助けてくださるのです。

 人生避けて通れない苦しみとして「生老病死」という言葉がありますが、人生は重荷を負って生きるものです。しかし、主なる神は、その人間に目を掛けてくださり、弱い時にもとらえて下さるのです。弱小の民イスラエルを選んで宝の民と愛された主です。アブラハムを選ばれたときも、彼が主の命令に従って、父の土地ハラン出て、荒野で流浪生活をしていた時です。ヤコブも荒野に逃げ、途方にくれた弱い時に夢の中で、神が共に居て下さることを知りました。換言すると、ひとは弱い時にこそ、神の支えの御手が伸ばされていることを知るのではないでしょうか。パウロも「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っております。

        (マルコによる福音書1章:4045)