説教記録8月

 

827日 説教―              村中 範光 師

                 「最後の戦い」

 キリスト教はイエス様をキリスト(救い主)と信じる信仰を土台としています。神によって創られたにもかかわらず、神を裏切り、罪を背負って生きている救いのない私達人間が、救われるようにとイエス様がこの世にお生まれになりました。

 4つの福音書では、イエス様の救いのみ業があますことなく記されています。ただ、一概に「救い」といっても、キリスト教徒以外の人たちには抽象的すぎてとらえどころがないかもしれません。実は、福音書ではその「救い」について具体的にさまざまに語られているのです。福音書はそれぞれ異なった著者が異なった読者に向けて書かれていますが、救いが中心テーマであり、イエス様の言葉、生き様を通して示されています。

 今回のイエス様が二人の犯罪人と一緒の十字架刑の場面(ルカ福音書 233943)では救いは「誰に及ぶのか」また「救われる時はいつなのか」について記されているとてもよい個所です。死刑判決を受けてイエス様は十字架の刑のため処刑場に連れてこられます。この個所はルカの福音書だけに記されています。二人の犯罪人も同時にイエス様の右と左に十字架につけられようとしています。この当時、十字架の刑は極刑です。この二人も十字架の刑に処せられているのですからきっと極悪非道の犯罪者だったのでしょう。二人もイエス様同様、人生最後の瞬間を迎えているのですが、イエス様への言葉がそれぞれに違います。

 十字架の刑の場面全体(マルコ、マタイ福音書)では、通行人、律法学者、祭司長、兵士は異口同音に「自分を救ってみろ」とイエス様をののしります。犯罪者の一人も同じ様に、「神の子なら自分を救ってみろ。」とののしります。そこには神への恐れも、自分の罪の悔い改めも、イエス様による救いもまったく意に介していない様子がうかがえます。反対にもう一人は「イエスよ、貴方のみ国においでになる時には私を思い出してください。」と語ります。彼の言葉には神への畏敬の念と、自分の犯した罪への悔い改め、イエス様による救い、を感じ取ることができます。

 彼の言葉に対して、イエス様は「貴方は今日私と一緒に楽園にいる」といってくださいます。この場面でどんな極悪非道の生き方をしてきたとしても心から悔い改めてイエス様に救いを求めるとき、必ず救われること、人生の最後の最後の瞬間まで救いのチャンスは与えられていることが示されています。これが福音、良き知らせなのです。

      (ルカによる福音書233243

 


 

813日 説教―                日隈 光男 師

   「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る」

  先月のチーム伝道で来日された方々が、苦しみや悲しみや絶望のなかで、信仰によって立ち上がる力が与えられたという証をされました。信仰による救いが語られました。

聖書の民イスラエルは弱小国故に神に選ばれたのですが(申77)周辺の大国によって侵略の苦しみを受け続ける苦難の民です。紀元前6世紀のバビロン捕囚も味わいました。

このコヘレトの言葉が記された紀元前300年頃も、大国の占領下におかれ、絶望的な日々を過ごしていました。冒頭から「空しい、すべてが空しい」と、閉塞感が伝わります。救いがないのです。コヘレト(集めるという名詞)は神を信じているが、神のなさることは解らないと言い、神の正義もまったく働かないと絶望しています。「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る」(15)と、神が創造された太陽でさえ神の働きを受けて、懸命に動いているように、人間もまた同じように、夜のような暗い人生を生きている時、神がともに居て支えてくださり、生きる力を与えて下さることを示唆しています。

真面目に生きていても苦しむことがあると言われるこの不条理な世の中で、「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になる」(812)とコヘレトは言う。神が共に居て下さることを信じる者は幸せであるから、人生の早い段階から信仰を持つことが良いと(121)「青春の日こそ、お前の創造主に心を留めよ」と彼は書く。(少し横道にそれます)19世紀末に現在のウクライナに多くのユダヤ人が住み,帝政ロシアの圧政下で苦しみを受けながら、信仰で生き抜いていました。彼らの生活を描いたのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」というアメリカのミュージカル映画です。聖書の言葉がたくさん出てくる楽しいものです。長女の結婚式の時に主人公夫婦が歌う美しい歌が「日は昇り、日は沈む」です。「いつのまに、この子らは大きくなったのだろう。慌ただしく月日が流れ、喜びと涙を湛えて時は過ぎてゆく」と。

目に見えない神が人となって、人の世に来て下さったのは、ローマ帝国の圧政下で苦しむユダヤの国のガリラヤでした。そこは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。ガリラヤは何百年にもわたって外国の侵略を受け続け、貧しい外国人が移住してきて定住していました。イエスの登場は「暗闇に住む者、死の陰の地に光がさした」と賛美されました。

「ガリラヤで抑圧された人々と共に生きるイエス」に、苦悩や悲しみの中に生きている私たちを重ねて見ることが出来ます。「ガリラヤ」は、「星の王子さま」の砂漠のように、人間の苦しみや悲しみを象徴しています。イエスの墓に行った婦人たちに「あの方は復活なさって、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。」と告げられました。今も、日々、復活の主は信じる者の魂に来てくださり、励まし、力づけて下さいます。

           (コヘレト157、マルコ1911)