記録記録(2016年8月)

 

828日 説教―     林 雄 植(イムウンシク)神学生

              「まことの信仰」

                  (マタイによる福音書152128)

今日は、東京バプテスト神学校専攻科で学んでいるイム・ウンシク神学生にメッセージを取り次いでもらいました。イム神学生はまず、雑誌で“お嬢さん”と“おばさん”の違いについて記されている記事を紹介してくれました。一言で言うならば周りの雰囲気や、その時その時の自分の立場を考え、そつなく行動するのが“お嬢さん”。周りの雰囲気や、自分の行動が人からどう思われても、自分が今、しなければならないことをすぐ行動に移すのが“おばさん”である、と。この話の紹介の後、カナンの女の物語へと話が進められていきました。イム神学生のメッセージを以下に要約しました。

マタイ福音書で出てくるこのカナンの女(母親)は自分の娘のためなら多くの人の視線をものともせず、主イエスに叫び続けています。いわゆる「おばさん」のグループに属する人の話です。この悪霊に取りつかれた娘が癒されたのは、自分の信仰によるものではなく、その母親の信仰によるものです。悪霊に取りつかれた娘を癒して貰いたい一心で、母親は大勢の前で「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んでおります。胸が張り裂けるような、切ない心であったに違いないでしょう。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。【詩編51:19】神様はこの打ち砕かれた霊を求め、憐れんで下さるということです。

私たちの人生の中で、なぜ多くの苦しみや困難が与えられているのか。視点を変えてみますと、主は私たちにこの「打ち砕かれた心」を与えるためと言えるのではないでしょうか。その意味で、むしろその苦しい状況こそが、主の恵みであり、祝福であると解釈出来るでしょう。このカナンの女のよう打ち砕かれた心をもって、主に全て打ち明けましょう。打ち砕かれた心をもって捧げる祈りには、必ず神様からの応答があるのです。

神様は時に私たちの祈りに対して沈黙を守ります。22節、23節を見ますと、イエス様はカナンの女のこの切ない叫びに対して、何もお答えになりませんでした。なぜでしょうか。それは、カナンの女の信仰の土台をより固くするためであったのです。神様が時に私たちの祈りに対してお答えにならないからと言って、挫折したり、落胆したりしてはなりません。神様は私たちを愛するが故に、最善の時に最高のものを私たちに与えて下さるのです。

しかし、いつ、どのようにしてかは、神様のみご存じです。私たちはただ、その沈黙を通して私たちに与えられる主の恵みを期待しつつ、ひたすら祈りを捧げる中で、静かに神様の時を待つべきではないでしょうか。

26節と27節を見ますと、カナンの女は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエス様のお言葉に対して、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という謙虚な姿勢で答えました。イエス様の度重なる拒絶にも関わらず、彼女は挫折することなく、最後まで謙虚な姿勢を貫き、イエス様に助けを求めました。この女のイエス様に対する態度、言葉にイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と彼女の信仰をほめ、認めて下さったのです。

 そうです。試練や苦難は私たちの信仰を再確認し、まことの信仰なのかどうか証明できる尊い機会でもあるのです。ですから私たちは試練に出くわすことを恐れてはなりません。試練の道から逃れようとしてはなりません。むしろ、その試練に大胆に向かい合い、乗り越えることによって、主の御前で、人々の前で、そして自分自身の前でまことの信仰を証明し、証しするべきではないでしょうか。私たちも「あなたの信仰は立派だ。」とイエス様のお褒めの言葉を頂くものでありたいと思います。          (説教要約:松村誠一 牧師)

 

 

 

821日 説教―     説教者 富田 敬二 師

           「み言葉と平和の発信」

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」 

             マタイによる福音書59.10

 

先の15年戦争(昭和4年満州事変から昭和20815日敗戦迄)からすでに71年が経過し、日本全土は戦争(争い)のない平和な日々に包まれ、多分、大多数の方は所謂「平和ボケ」の日常生活に甘んじている有様です。そのためでしょうか、痛ましい殺傷事件の横行なのです。静かで平和的な生活に不満足なのでしょうか。事件に刺激されて痛ましい出来事が横行とは何なのですか。不可解です。 

近時、日本国の為政者の中にも危険な思想→戦争必要論を発する者も おり、思わず『エッ、何で今』と声を出す世の中です。『戦争の臭い』をかぎたいのでしょうか。『人類の成長』は戦争にあると考えているようです。『戦争』とは『人類(国と国と)の殺し合い』なのです。あの15年戦争が実証している事なのです。あの戦争で勝った国(連合国)も負けた国もそれぞれの国と民族の打撃(痛手)は、戦後1020年では回復できない事を経験したことです。判り易い事として広島・長崎の原爆被害を語りますが、戦争とは、『人が人を殺す事』それも国家存立を前提としてなのです。

戦場の破れだけでなく、国家と個人の破れを目の当たりに経験した者として、キリストにある平和、天父との和解こそが、神の聖手、いぶきによって創造された者の発信でなければならないのです。

 

 

814日説教 ―     説教者 安藤 榮二 先生

      「不寛容の時代にキリストで」

長い間連盟の宣教部主事として働き、その後連盟理事長の責任を担いながら日本バプテスト浦和キリスト教会の牧師としてお働きになられた安藤榮二先生は現代社会を「不寛容の時代」という言葉でくくり次のように話されました。

アメリカ大統領候補の一人に差別主義丸出し、不寛容丸出しの人がいますが、でも多くの支持者がいます。アグネス・チャンが児童ポルノ規制の運動をしているようですが、このような運動をしているアグネス・チャンに「死ね」とか「殺す」とネットで脅かしている人がいるそうです。またあちらこちらでテロが起こりまた分裂騒ぎが起こっています。この現代社会は“不寛容な時代”という言葉で言い表されるのではないでしょうか。そして安藤先生はマタイによる福音書132430節から御言葉を語って下さいました。この聖書箇所は毒麦の話で、「天の国」のたとえ話です。安藤先生は「天の国はとマルコ、ルカの神の国と同義語です。このたとえ話は神の国のイメージを豊かに写し取っています。」と語られました。

さて、このたとえ話ですが、ある人が畑に良い種を蒔いたのですが、ある時にその畑に敵が来て毒麦の種を蒔いてしまいます。芽が出て来ると、麦と毒麦が生えて来たので、僕(しもべ)たちは、主人に毒麦を抜き取ってしまいましょうと提案をしております。しかし主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れの時、『両方とも育つままにしておきなさい』。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」と命じております。

安藤先生はこの箇所を読みイエス様の寛容を強く感じたのでしょう。安藤先生はご自身が毒麦ではないだどうか、自問され、このような私を“刈り入れの時”、すなわち終末まで待ち続けてくださっている。これは一つの救いではないでしょうか、と訴えておられました。そしてヨハネによる福音書517節の言葉「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」を引用され、毒麦かも知れない者をイエス様は忍耐をもって見守り、救い主としての働きを続けてくださっているのだ、ということを語り伝えてくださいました。

安藤先生は、この不寛容な時代にイエス様が語られた言葉に聞いていかなければならない。イエス様が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである。」(マタイ2540節)と語られたように、私たちも“わたしの兄弟であるこの最も小さい者”を受け入れ行きたい、行かなければならない。明日一人、明後日一人と、イエス様に突き動かされ受け入れいいかなければならない、いや受け入れていきましょう、と勧められました。

安藤先生の説教を聞き、不寛容な思い(罪)が私たちもあることをしっかりと認識しなければならない。不寛容な者ですが今も活きて働いておられるイエス様によって突き動かされ、寛容な者として隣人を受け入れていく者でありたいと強く思わされました。               (記:松村 誠一)

 

 

87日 説教―             牧師 松村 誠一

                「世に勝つ信仰」

 現代社会は私たちの信仰を骨抜きしてしまう世俗の力が働いております。このような現代社会で私たちが、この世に打ち勝ち、与えられた信仰に生きていくのはどうしたらいいのでしょうか。神に敵対するところの様々な力が働いているところが“この世”です。私たちの信仰を脅かす様々な力が働いているところが“この世”です。

 今年は戦後71年目にあたりますが、戦後の教会はどこの教会もたくさんの人々が集まってきておりました。しかし日本が経済的に安定してくると、多くの人々は教会から去っていきました。なぜ多くの教会員が教会から去って行ったのかはさまざまな理由あるでしょう。そしてそれに対してさまざまな見解が述べられていますが、要するに世に勝つ信仰をもっていなかったからではないでしょうか。

内村鑑三の抱いていた神のイメージ、すなわち父親的権威を持っておられる神様。この神理解も正しいでしょう。しかし日本にキリスト教を定着させるには母なる神の面をもっと訴えなければならないという声も聞こえてきます。遠藤周作の“沈黙”の小説で展開されておりますように、世の中の権力に、誘惑に、己の弱さのため、何度となく信仰を捨てても赦してくださる、その神の愛を宣べ伝えていかなくてはならない。神の愛はそのようなものだから。これももちろん正しいと思うのであります。しかし、そのイメージをドグマ化して神は父親的な存在である、あるいは神は母親的存在だと定義づけても、それは信仰の支えにはならないでしょう。

 私たちが、この世に打ち勝ち、与えられた信仰をもって生き抜いていくにはイエス様が神のもとから来られた方、イエス様が神の子キリストであると信じ続けていく、そこに勝利の秘訣があるのではないでしょうか。私たちの信仰は一度信じたらなくならない、というものではありません。私たちの信仰は日々イエス様を神の子救い主と信じ続けていく。そして主イエス様に従いつつ歩み続けていく、というものではないでしょうか。パウロもフィリピの信徒への手紙で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」(312節)と述べています。信仰をもってこの世を生き続けるには、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(311節)と求め続けていくことです。そして求め続けていくことができるのはイエス様が、“私を”捕らえて下さっているからなのです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書1633節後半)既に世に勝利しているイエス様が信仰を求め続ける私たちと共に働いて、この世に勝利して下さるのであります。私たちはイエス様が神の子、救い主であることを信じ続け、イエス様から信仰を頂き、この世に勝利していきたいと思います。

           (ヨハネによる福音書162833)