説教記録8月

828日 説 教-           牧師 山中 臨在

   「愛の帯」コロサイの信徒への手紙3:1217

聖書は「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに赦し合い なさい」と言います。人はなかなかそれができず、寛容さを持てない自分や他 者を赦せず、戦争は絶えません。そんな私たちに、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と聖書は迫ります。これは「ローマの平 和」に対して使われていたと思われます。ローマ帝国は武力と搾取により、平 和という名のもとに多くの人々を犠牲にしました。これに対して「キリストの 平和」は、キリストご自身が犠牲になって与えられた、真の平和です。このキ リストの平和を生きる者となるように私たちは招かれているのです。

キリストの平和を生きるために「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成 させるきずなです」と聖書は語ります。きずなと訳されている言葉は元来「帯」 という意味を持ちます。着物を着る時、多くの着物のパーツがばらばらにほどけないようにそれらを帯で結びます。いろいろな違いを持つ私たちがばらばら にならないように結び付けて一つの体としてくださるのが主の愛という帯な のです。スポーツ選手は試合でユニフォームを着ますが、それは自分がどのチームに所属しているかを示すためです。ユニフォームは自分の栄光ではなく、 チームを指し示すために着ます。いわばチームを一つに結ぶ愛の帯です。キリ ストチームにいる私たちは、愛の帯を身に着けてキリストを指し示しているで しょうか。

キリストの愛の帯で結ばれて愛を着るということは、キリストの愛が何であるかを知ることではないでしょうか。私たちは罪びとであり、元来神様に愛される資格のない者です。そんな私たちに愛を注いでくださったことは感謝すべきことです。私たちにはその感謝の思いがいつもあるでしょうか。本来神様に 愛される存在ではないこの者のために、命を捨てて私たちに救いの道を開いて くださった、それがキリストの愛です。愛をいただいた私たちもまたその愛を 他者に示し、主にあって一つとされてキリストの平和がなるように招かれているのです。

神の家族として、キリストの体である教会を私たちはしっかりと建て上げて いきましょう。私たちは一人一人異なります。生まれ育った環境も考え方も、 仕事も学歴も、得手不得手も、また一人一人が抱えている祈りの課題もすべて 異なります。聖書の理解の仕方も全く同じというわけではないでしょう。でも それらがキリストの愛の帯で結ばれたならそれぞれの働きが互いに助け合い 励まし合って、キリストの愛を証しするとても素敵な体とさせていただけます。 そんなキリストの体となることを目指して歩みましょう。

 

821日説 教―             牧師 山中 臨在

 「励まし合う」ヘブライ人への手紙10:1925

互いに励まし合うことが教会の存在意義であり、礼拝の意義であると聖書は 語ります。 2425 節で聖書は「互いに・・・集会を怠ったりせず、むしろ励まし合い ましょう」と語りますが、これは集会(礼拝や祈祷会等)には休まず出席する ようにお互いに励まし合いましょう、という意味に捉えられがちですが、厳密 には、「礼拝を怠らないようにしましょう、なぜなら礼拝は励まし合うものだ からです」ということを教えています。礼拝に出て自分の満たされない思いが 満たされたり、自分が元気になってよかった、というだけではなく、互いに励 まし合うのが礼拝だと言うのです。あなたの存在そのものが励ましです。イベ ントに参加するためには入場券が必要ですが、礼拝者は入場券を必要としませ ん。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れ」(19)ます。イエスが 十字架にかかって命を捨てられたことによって、神と人との隔てを取り除いて くださったので、すべての人が、神との交わりの礼拝へ招かれています。あの 人も、この人も、そして私までもが礼拝という「新しい生きた道」(20)に招 かれています。だから礼拝者とされたこと自体、イエスからの励ましです。新 しい道を歩くことは一人では不安ですが、自分は一人ではなく、隣人が一緒に いて共に礼拝していることでお互いに励まし合っているのです。

当時ヘブライの教会は、ローマ帝国からの迫害や、教会内部に山積する問題 に苦しんでいました。信仰が揺れ動き倒れそうになった彼らを支えたのは、共 に礼拝に集う仲間がいたことでした。主の「希望を揺るがぬようにしっかり保 つ」(23)ように励まし合っていたのです。自分一人では希望を保つことは難 しかったかもしれません。でも一緒に礼拝する人がいることで「この信仰は真 実なのだ」と確信することができるのです。それが礼拝の意義ではないでしょ うか。

その礼拝は、「真心から神に近づく」ことだと聖書は語ります(22)。神と 親しく交わることが礼拝なのです。厳密に言えば、神のほうからまず私たちに 近づいてくださったから、私たちはそれに応答することが真心から神に近づく ことです。もし教会が神よりもこの世の価値観を優先するようなことがあれば、神から遠ざかることになり、信仰共同体ではなくなってしまいます。残念なが ら教会は常にその誘惑にさらされています。だからこそいつも主の言葉に聞かなければなりません。だからこそお互いに「愛と善行に励むように」(24)励 まし合いなさいと聖書は語るのです。私たちが、主イエスの愛を知るのは、教 会という信仰共同体の中で、主が示された愛を実践して互いに愛し合い励まし 合うことによってです。互いに祈り合い、互いに主の愛を持って愛し合い、御言葉を分かち合うことによって試練の中に主の希望を見出し、励まし合うこと ができるのではないでしょうか。それによってまた、主の愛を教会内外の人たちに証ししていくことにつながると信じています。

 

814日 説 教―          牧師 山中 臨在

挨拶しましょう

コリントの信徒への手紙()13:1113

聖書は、礼拝共同体である教会の人々に、聖なる口づけによって互いに挨拶 を交わしなさいと語ります。当時口づけは、親密さを表す挨拶の方法でした。 「聖なる口づけ」とパウロは言い、ペトロは「愛の口づけ」という表現を用い ています。これは、聖なる方イエス・キリストの愛に根差した交わりをする、ということです。主が与えてくださった、共に礼拝する家族との交わりを受け 入れることで喜びと恵みが与えられます。教会員同士は、イエス・キリストを 救い主と信じ礼拝すること以外には共通点がありません。互いの違いが浮き彫りになると、対立したりして良い交わりができなくなることもあり得ます。しかし主が興してくださったこの共同体は聖霊の力で支えられ、人間の力ではなし得ない愛の交わりへと導かれています。イエス・キリストの愛に根ざして交 わりをするということが、「聖なる口づけをもって互いに挨拶をする」ことなのです。その挨拶を通して、主なる神様との平和・交わりが現わされます。それは神様に栄光を帰する礼拝の行為です。

聖なる口づけの具体的な指針を聖書は「喜びなさい。完全な者になりなさい。 励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と教えます。 喜びとは程遠い現実の中でも、私たちの中には喜びであるイエス様が宿ってく ださっていることを知りなさい、また不完全な私たちの中に完全な方が宿って おられることの恵みを受け取るようにと聖書は言います。多くの異なる意見、 価値観、習慣、好みが混在する教会において、一つになるより分裂していく方 へ流れが傾くこともあるかもしれません。しかしそんな時こそ「イエス様だったらこんな時どうされるだろう」ということに思いをはせる絶好のチャンスです。自分をあざける者のために祈られ和解の道を開いてくださったイエス様が 私たちと共にいてくださるのです。その方を私たちの挨拶の中で指し示していくことが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われたイエス様の言葉に応答する礼拝共同体の役割ではないでしょうか。

私たちの礼拝には「平和のあいさつ」という時間があります。これはまさに 「平和の口づけ」です。単なる儀礼的な挨拶や報告の時間ではありません。主によって礼拝に集められた者同士が、互いにキリストによって愛されている存 在であることを喜び合い、教会の大切な行事や祈りの課題を分かち合うなかで、励まし合い祈り合い、一つとされていく恵みの時であり、主の栄光を表す礼拝の行為です。

礼拝にはいろいろな方が集められます。知っている者同士が集まると嬉しいしホッとしますが、その一方で初めて来た人がほったらかしにされていた り、あるいは仲たがいしていた人同士が何となくぎくしゃくしたままになっていることはないでしょうか。そんな時こそ、「聖なる口づけ」をもって互いに挨拶しなさいと聖書は言っているのです。そこから新しいことが始まり、豊かな交わりが始まり、主イエスの愛が広がっていくのではないでしょうか。

 

87日 説 教―      澤田 猛 神学生

真の豊かさとは?」ルカによる福音書12:1321

イエス様が大勢の群衆を前に話しておられた時に、群衆の一人が遺産相続の調停を頼みに来ました。イエス様は彼に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と言われ、「愚かな金持ちのたとえ話」をされました。

ある年に、ある金持ちの畑が豊作となり、いろいろ思い悩んだ末に穀物倉の改築をすることにしました。そして自分自身に「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」と言いました。しかし神は、「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。」と言われました。何故、この金持ちは愚か者と言われたのでしょうか? 

第1に、この金持ちは、人は誰でもやがて『死』を迎えるということを全く考えていませんでした。人間はいつか必ず死ぬこと、そしてそれが何時なのかは、私たちには分からないし、自分の死をコントロールすることもできないのです。私たちは、この世では『死』を迎える存在であることを自覚し、自分の死の問題に対する備えをしておかねばなりません。一方、キリスト者には永遠の命が与えられているので、この世の死はひとつの通過点で、死んだら終わりではないと信じています。

第2は、自分のことしか考えない“自己中心的な生き方”をしている点です。この年の豊作も、彼や小作農たちが汗して得たものではありますが、そこには神様からの恵みとか祝福とか、神様に感謝するという態度は全くみられません。彼は神を知らなかったのです。したがって富の用い方にも問題が出てくるのです。

第3は、神は天地万物を創造された方であり、それ故、万物は神のものであり、私たちの命も神のものであるということを知らなかったことです。さらに、財産や名誉、地位、家族・・・なども全て神のものであって、私たちはその管理を神様から委託されているのだという認識がなかったのです。この金持ちは、これら全てが自分自身の所有物であると思い込んでいたのです。自分の命は自分のものではなく神様のものであるから、神様がお求めになる時には、返さなければならないのです。だからイエス様は、「人の命は財産によってどうすることもできない」と冒頭で宣言されたのです。

イエス様は最後に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」と語られました。「神の前に豊かになる」というギリシア語を直訳すると、「神様の中へ豊かになれ」となります。私たちが神を認め、この世の富よりも神様を第一とすること、主イエス様の十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じ、それに与って神様と共に生きるときに、結果として『貪欲』からも解放された、希望と平安が与えられる新しい生き方ができるのです。これこそが「真の豊かさ」なのです。