説教記録9月

926日 説 教―               牧師 山中 臨在

「アマチュアクリスチャン」

        コリント信徒への手紙一1:2631

「自分の優れた技術や能力を使ってお金を得ている人」をプロ、「それよりも技術や能力が劣る人」をアマチュアという認識があるかもしれませんが、「アマチュア」の本来の意味は「好きでたまらないからそのことをやっている人」なのだそうです。そして聖書は「あなたはアマチュアクリスチャンになりなさい」と言っているのではないでしょうか。

アマチュアクリスチャンとは自分を誇らない人のことです。29節に「だれ一人、神の前で誇ることがないように」と書いてあります。イエス様の時代にもいわゆる「プロの」宗教家がいました。彼らはよく旧約聖書を勉強し、モーセの律法も熟知していました。しかしプロの宗教家の中には、神様の教えを伝えることや人々に仕えることよりも、自分の知識や立場を利用して自分の名声や権力を高めようとする人たちもいました。本来ならば、神様が中心にいなければならないのに、神様のことばを伝えるよりも自分の名誉を気にしていたのです。私たちはどうでしょう。神様が第一だと言いながら、どこか自分を誇ろうとしていたら、立ち止まって自分自身を誇っていないか神様に聞かなければなりません。神様は自分を中心とする人ではなく、自分を誇らない無学な者、無力な者、身分の低い人を多く選ばれたと書かれています。もし仮にこの世であなたが人からは認められず、富がなく、無価値なものであると思えたとしても、そういうあなたにイエス・キリストの死に価するほどの価値を与えておられるのです。そんな神様に、自分を誇らず自分を低くして仕えたいと思っている者を主は喜んでおられます。それがアマチュアクリスチャンなのでしょう。

また、アマチュアクリスチャンは主を誇る人です。エレミヤ書92223で「自分の知恵、力、富を誇るのではなく、わたしを知ることを誇れ」と主は語ります。知恵や富があること自体は必ずしも悪いことではありませんが、それで自分を誇るのではなく、知恵や富を与えてくださった主を誇りなさい、と聖書は語るのです。

イエス様は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記65)、これが最も大切な教えだと言っておられます。それは神様がまず私たちを愛してくださったからです。そしてそれは、何の取り柄もない私たちを愛してくださる神様への応答だからです。もう一度29節に書かれている「神の前で誇るな」と言う言葉を受け止めましょう。自分は何でもできるという傲慢や自分の思い通りにならないことへの不満は、神様を誇ることと相反しますが、逆に「自分は何もできないから自分はだめだ」という思いも実は自分中心で神様を誇っていないことなのではないでしょうか?神様は、ただひたすら神様を愛するから神様にお仕えしたい、そういうアマチュアクリスチャンを求めておられることをぜひ覚えていただきたいと思います。

 

919日 説 教―               牧師 山中 臨在

   「夢を見る老人」 ヨエル書315

聖書は「老人は夢を見、若者は幻を見る」(1)と語ります。私たちは普通、夢を見るのは若者だと思います。年を取るにつれ人は経験を積んで、世の中とは大体こんなものだよと悟っていくでしょうし、若い時に抱いていた夢と現実とのギャップさえも「人生こんなものだ」と達観していくのかもしれません。若い時に見た夢が叶ったとしたらそれは素晴らしいことですが、そのあとにまた別の夢を見続ける老人はそうそうおられないかもしれません。しかし神に対して生きる人生は、老人が夢を見るというのです。夢というのは未来に向かっていて希望に満ち溢れていますね。私たちは年を取ると老後の心配をします。自分の蓄えで足りるだろうか、病気して寝たきりになったらどうしようか、お墓はどうしようか、財産分与はどうしたらよいか、など心配を数えたらきりがないほどです。でもキリストにあって夢を見る老人は、老後の心配や死の恐れがありません。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(5)のです。み子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われた私たちは、永遠に神と共に生きることが約束されています。キリスト者には「神の霊が注がれて」(1)いて、絶え間なく流れるその霊を受ける者の命は終わることがないのです。

老人が夢を見るためには、若者にも使命があります。「息子や娘は預言する」(1)と聖書は語ります。若者が福音を語るというのです。これまた普通とは逆の発想のような気がします。私たちは、人生の年輪を刻んだ人が福音を語り、若者はそれを聞いて学ぼう、という思いがあるかもしれませんが、そうではなく、若者が福音のメッセージを語るからこそ、老人はそれを聞いて喜びと期待の内に主にあって夢を見るのです。福音を語るのは牧師の専売特許ではありません。まして老人にだけ託されていることでもありません。むしろすべての若者、この礼拝に集う一人一人に神様が与えられた務めです。私たちは伝道しない言い訳をたくさん並べますが、あなたの言い訳は神様には通用しません。主の御言葉を語らせるのはあなたの力ではなく、神様の力です。主の霊があなたに注がれてあなたは力を受けるのです。私たちは絶え間なく流れ出るその主の霊を受け止めればよいのです。コロナウイルスの影響下にある今だからこそできる伝道もあるのです。

私たちが考える夢には限りがあります。「私の夢が叶ったらもう死んでもいい」と思うかもしれませんが、人知をはるかに超えた神様がくださる夢は計り知れず、川の流れのように途切れることがありません。次から次に夢が押し寄せます。神様の与えてくださる夢を見る者は希望に満ちて死の恐れがありません。肉体の死の先にも夢があるからです。神と共に生き続けるからです。私たちも主の霊によって夢を見る老人となっていきたいと思います。

 

 

 

912日 説教―                  牧師 山中 臨在

  「川の流れのように」ヨハネの黙示録22:15

  神に対して生きる私たちの人生の目的地(新しいエルサレム、永遠のみ国)は「水晶のように輝く命の水の川が流れている」所だと聖書は言います。その川は、神と小羊イエスの玉座から流れ出ている、つまり神様に起源があります。天地創造の時、神様はエデンの園に川を流れさせ、エデンの園は潤っていました(創世記210)。川のゆえにそこは楽園とされていたのです。新しいエルサレムは神の楽園・エデンの園が回復された物です。この川は、都の大通りの中央を流れています(2)。これが天国の川の流れの大切な特徴です。私たちの世界で、川が都市の中央を流れていることはまずありません。私たちは自分たちの都合のために川を潰してしまいます。本来中央に置かれるべき方を追いやり、自分を中央に置くのです。しかしキリスト者の目的地には、神様につながる命の川が本来あるべき中央に置かれ、その両岸にある命の木が実を結んでいます(2)。2節は、この神様の命の川の流れのほとりにいる者たちは多くの祝福(物理的なものも含め)を「絶えず」得られ、お互いに平和の内にその実を分かち合う平和の内に過ごすことができるのだと語っています。全世界の人々が命の川の流れの恵みにあずかり主と共に生き続けるのです。

 逆に私たちが命の水の川を中央に置かずに、自分の都合でそれを縮小したり脇へ追いやったり埋め立てたりするなら、本来ゆるやかで平和と命を与えるはずの川は氾濫し荒れ狂い、命を脅かす存在へと変えられてしまいます。それは今の私たちに送られている神様からの警告のメッセージなのかもしれません。

神様が備えてくださっている私たちの目的地は、このように神様の命の川が中央にあり、皆が心を合わせて神を礼拝する(3)平安な所です。そこには「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない」(5)のです。私たちが味わう「悲しみも嘆きも労苦も、そして死もない」(黙示録214)、つまり人生の暗闇が存在していない場所です。神に対して生きる人は、その素晴らしい目的地に行くと、聖書は約束しているのです。教会はその証しをしなければならないと感じています。

 真の命の川には、御言葉が流れています。命を与える神様の言葉は、川の流れのようにとどまることなく、いつまでもいつまでも流れているのです。私たちは絶え間なく流れているその御言葉の川を脇に追いやったり埋め立てたりするのではなく、私たちの真ん中に置いて歩むなら、どんなに豊かな人生が送れるでしょう。その人生は私たちの肉体の死をも超えて、永遠に神様と共に歩む平安の旅です。この旅は、もう始まっていて、来たるべき日(主の再臨)に向かっています。私たちは今から、命の生ける川を真ん中に置いて歩み始めなければなりません。この旅を与えてくださる神様をぜひ今信じ、ゆだねて歩みましょう。

 

 

95日説 教―                  牧師 山中 臨在

「むだなことは一つもない」

     ガラテヤの信徒への手紙2: 1521

私たちの人生を振り返る時、この世の価値基準に照らし合わせるならむだに過ごしたと思える場面が多くあるかもしれませんが、人生は神様の恵みによって書かれた長編小説のようなものであることを知るなら、何一つむだになることのない充実した人生になるでしょう。

私たちは神様の恵みの中で生かされています。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16)と聖書は語ります。私たちがどれだけ立派な行いをしたかではなく、ただ一方的な神様の恵みにより、イエス・キリストの十字架によって私たちが罪赦され、それを信じる者が義とされるのです。「義とされる」とは、私たちの罪がなくなって人間が真の義である神様と同等になる、ということではなく、救い主イエス・キリストを信じる者を神の子として認めて神様との交わりに入れてくださる、ということです。

私たちは人に認められたいという思いから、自分の正当性や他者の誤りを知らず知らずの内に律法主義的に訴えようとします。それでも認められないと、自分の人生を否定された、今までの人生はむだであったと失望してしまいます。しかし私たちは「神に対して生きる」者です(19)。律法に対して生きているのではありません。神様に対して生きる者は、神様の恵みの中に生かされていて、神様が認めてくださる者なのです。律法あるいはこの世の価値に認めてもらう必要は全くありません。神様に対して生きるならば、私たちは神様の物とされ神様のご計画の中に生かされています。神様の書かれるストーリーの登場人物とされている私たちの人生の1コマ1コマすべてはむだになるはずがありません。それらは神様の恵みという一つの線ですべて結ばれているからです。長編小説に描かれるすべての描写にむだがないのと同じです。46歳で牧師になるまで紆余曲折を経た私の人生は、この世の価値基準からすれば一見むだなことばかりしてきたように思えますが、しかし実はどれもが一つの線で結ばれて今の牧会に生かされていると思うのです。こんな人生のシナリオを私は自分で想像することができませんでした。神様の愛と恵みのシナリオは人知をはるかに超えています(エフェソ31819)。

私たちの人生、むだなことは一つもないことを確信して生きてゆけたら素晴らしいと思いませんか。「わたしは、神の恵みを無にはしません」(21)と聖書は語りますが、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子(イエス)」(20)を信じる人生、そして「神に対して生きる」(19)人生(それが、クリスチャンとして生きることです)には「キリストがわたしの内に生きて」(20)くださいます。だから神様の恵みが無になるはずがないのです。ぜひ今、豊かな恵みを与えてくださる神様に対して生きる人生を歩む思いを新たにしませんか?