説教記録9月

927日 説 教―                牧師 山中 臨在

   「あなたに会いたい」  ルカによる福音書19:110

法外な利息を人々から巻き上げていた徴税人ザアカイは嫌われ者でした。人知れず孤独を感じていたであろう彼は、罪びとと共に食事をするという噂のイエス様が町に来たと聞いてどうしてもイエス様を一目見たいと思いました。驚くことに、イエス様の方からザアカイの名を呼び語りかけて、彼の家に泊めてくれと言いました。その結果ザアカイは変えられ、自分の罪に気づき悔い改めました。

 ザアカイの物語は、礼拝とは何かを私たちに教えてくれます。礼拝はまず主イエスが「あなたに会いたい、あなたが必要だ」と私の名を呼んでくださるところから始まります。誰も知らないような私の心をイエス様はご存知です。礼拝はイエス様が私を愛してくださる感動に溢れています。そしてイエス様が与えてくださる感動によって私たちは生き方や価値観が180度変えられます。礼拝によって私たちは全く新しい生き方をする者へと主が変えてくださるのです。

 東日本大震災から9年が経ちました。被災地におられる方、被災した地元に帰りたくても帰れない方、或いは故郷を去って新しい土地で新しい生活を始めておられる方、それぞれの心の痛み、悲しみ、或いは怒りが癒えることなく続いています。「心の中にぽっかりあいてしまった穴をどうすることもできない」とある被災者の方が仰っていました。「何とかこの人たちの心の穴をふさいで、この人たちの痛みや悲しみを担えたら」と思うのですが、人の痛みを担おうと考えること自体実は傲慢なことなのではないかとも思わされます。フランスの哲学者パスカルは、「人の心には神の形をした空洞がある」と言いました。人の心の空洞を埋めることができるのは神様だけだと言うこの言葉にハッとさせられます。

ザアカイの心にあった空洞。財産や地位や名誉をもってしても埋められない彼の空しさを埋めてくれたのは、イエス様を通して神様が与えてくれた感動でした。「あなたに会いたい、あなたが必要だ」と言われた主によって与えられた感動でした。ザアカイの空洞は神様にしか埋められなかったのです。被災された方々の心にも、アメリカ同時多発テロや人種差別によって殺された被害者のご家族の方々、そしてここにいる私たちの心にも、それぞれ特有の空洞があるでしょう。その空洞を埋めるために私たちは必死に努力しているでしょうし、人は親切に優しい言葉で励ましてくれるでしょう。けれどあなたの空洞の形を知っているのは主イエス・キリストだけです。その空洞を埋めるために、心の痛みや叫びを担うために、十字架に死んでくださった唯一の方なのです。そのイエス様の「あなたに会いたい。傷ついたあなたも、喜びにあふれるあなたも、病気のあなたも、人に嫌われているあなたも、情けないあなたも、そんなあなたを私は必要としている、あなたに会いたい」という礼拝への招きに応えたいと思います。

 

 

920日 説 教―          松村 誠一 協力牧師

    「神のようになりたい」  創世記3:17

今世界で一番売れている本はヘブライ大学の歴史学の教授、ユヴァル・ノア・ハラリ著の「ホモ・デウス」だそうです。ハラリ氏はその著で、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者がまだ少数ではあるが、徐々にその数を増やしつつあると述べています。そしてある研究者は人間の寿命を500歳までにのばすことを当面の目標にしているとのことです。このような世界の動向を見てハラリ氏は、人間はもうすでに神のようになりつつある、神のようになりたいという現実を見ていかなければならないという指摘をしています。

聖書では、そのことをすでに紀元前600年頃に指摘をしております。それは創世記のアダムとエバの物語において語られています。その物語をみてみましょう。アダムとエバの物語に登場してくる蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」と語りかけています。この蛇を私たちはどのように理解すればいいのでしょうか。蛇はヘブル語で虚栄を意味する言葉だそうです。つまり自分を神たらしめようとする人間の思い上がりの心。すなわち蛇とは人間自身の内なる声ではないでしょうか。善悪を知る木の実を食べた結果、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知ることになるのです。二人はイチジクの葉をつづりあわせ、腰を覆っておりますが、これは身体的、外見的に、というよりも、もっと本質的なこと、つまり神の庇護から離れた人間は、自分の無防備に気付き、自分で自分を防衛しなければならなくなったことに気づいての行為でしょう。

最初にみましたように、現代人は自らを神のような存在として生きようとしております。ハラリ氏が指摘している神のようになりたい現代人とは、寿命を長くすることを研究している科学者のことでしょうか、AIを使いこなすごく一部の人のことでしょうか。そうではないと思います。私たちを含むすべての現代人ではないでしょうか。

神のようになりたいという思いがある者は神から遠ざかろうとすることが聖書に記されていますが、そうあってはならないのです。神のようになりたいという思いが自らの内にあることを認識した者は、神の「どこにいるのか」と言う、神の愛に満ちた語りかけを聞く者へとなってゆかなければならないのです。

私たちは神の似姿として神に創造された被造物です。神の似姿とは神との関係の中で生きる存在、神の価値観を持って生きる存在ということです。神の被造物として神との関係の中で生きることによって私たちは神の子とされ、神が与えて下さる命に生きる者とされるのです。仮に人間500年生きようとも、死ぬべき存在なのです。神が与えて下さる命は、時間的長さで測られる命ではありません。神の子として神から赦され、神が与えて下さる命へと生かされていくのです。

 

 

913日 説 教―             牧師 山中 臨在

       「白髪は輝く冠」 箴言16:3133

老いることは苦しみだと教える宗教もあるようですが、聖書は全く違う価値観を語ります。老いることは素晴らしい、白髪は絶望の象徴ではなく、むしろ神様から与えられる輝く冠、勲章だというのです。この世の価値観では、いかに成績が良く、いかにお金を稼ぎ、いかに生産性が高いかという、目に見える高い数字が評価されます。逆に言うと、数字が低い人ほど価値がない、と思われやすいのです。しかし何かを「する」価値観ではなく、神を信じ神に愛されていることを証しするためにそこに生かされて「存在する」価値観を神様は尊んでおられます。

私たちの教会の高齢者の方々はその存在だけで私たちにメッセージを伝えています。何よりも主日礼拝を第一とし、週日は主の日にすべての照準を合わせて体調を整えておられ、精一杯献金を捧げておられます。命がけで主日礼拝を捧げておられるのです。この世の数字的な評価は高くないかもしれないけれど、主に愛され主を愛するために存在していることがこんなにも大きなメッセージを伝え神様から最高の評価をもらっています。存在の価値観は高齢者だけではありません。ここにいるすべての人の存在を主は喜ばれ「あなたは存在するだけで私には尊い」と言って私たちを愛してくださっています。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」(32)と聖書は言います。忍耐するとは、ある意味何もしないことです。何もしないことは、町を占領するほどの大きな力よりすばらしい、と神様は言うのです。ただひたすらに神を愛する存在でいることを神様は喜ばれます。

 歳をとると何かを失うことが多くなります。しかし聖書は、失う恵みを語ります。今まで自分の存在価値として支えにしてきていた、自分の若さも力もお金も名誉も段々失っていく時、自分を生かす本当の支え、本当に必要な物は何か、それを知るチャンスが与えられているのです。「必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:42)とイエス様は仰います。私たちに必要なものはただみ言葉です。神を信じる信仰です。31節の言葉「神に従う道に見いだされる」は、「神の前に正しい道を歩むならば、主はあなたの存在を尊んでくださる。」ということです。神様の道を歩んで神様から冠をいただく、それはこの世の冠を失って得られる恵みです。

私たちは永遠の命の希望をいただいています。その希望は私たちの先にあります。その希望に向かって前進していきたいのです。この世の冠を振り返ってもその希望は得られません。振り返ることがあるとすれば、それは神様が下さった大きな恵みに対してです。あなたの存在が輝く冠だと言って下さる神様の道を歩き続けましょう。

 

 

96日 説 教―         牧師 山中 臨在   

   「 ストレス 」 イザヤ書30:1518

 私たちの生活は多かれ少なかれストレスに取り囲まれているのではないでしょうか。そんな私たちに聖書は語ります、「お前たちは、立ち帰って静かにしなさい」(15)と。テレビが壊れたら叩いて直そうとする人がいますが、叩いて一瞬直った気がしても結局はすぐに壊れてしまいます。機械を修理しようと思ったら、その機械を一旦止めて、機械を作った人に修理してもらうのが一番確実です。聖書はこのことを言っているのです。私たちがストレスのために壊れてしまった時は、静かにして、私たちを作った人、全能の神様の所に帰って神様に修理してもらう必要があります。私たちはストレスがあったり痛みがあったりしても自分の力で直そうと必死で頑張ります。休めと言われても休まず頑張ろうとし、造り主の修理を待たずに自分で「馬に乗って逃げよう」「速い馬に乗ろう」(16)などとして、結果的に間違った修理をしてしまいます。だから結局直らず、必要な力が入らないのです。勿論努力をすることは素晴らしいことだし必要なことだとも言えます。しかし人生には、自分にはコントロール不能な出来事が襲ってきます。その時にはもがいて抵抗するのではなく、まず造り主のもとに行って、神様に壊れた自分を見てもらい、神様の適切な言葉に聞いて修理してもらわなければなりません。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(15)と主が言われているように、神を信頼することによって必要な回復の力が与えられるのです。

 ストレスとは、正常な人生の営みに不必要な力が加えられてひずみが起こることです。不必要な力は私たちに痛みと苦しみを与えます。けれどそれを直してくださることのできる唯一のお方の存在に気づき委ねることのできる絶好のチャンスでもあります。

先週の日曜日、体調が万全でなくあまり元気でなかった私でしたが、礼拝を終えた時には信じられないほどの力が与えられていました。皆さんの顔、メッセージ、祈り、賛美・・・。他のことを一切脇に置いて神様に集中することが出来たときに、なぜだかわからないけれど力が与えられ、「安らかに信頼していることにこそ力がある」(15)というみ言葉が真実であることを知りました。ストレスを与え、人生に痛みを与える神様ですが、それが目的ではありません。神様は「恵みを与えようとし、憐れみを与えようとして」(18)おられる方なのです。礼拝は私たちが主に立ち帰る時です。壊れた自分を神様に修理していただく時です。だから一週間壊れても大丈夫。主のもとに帰って来ましょう。