説教記録9月

 

929日 説教―            牧師 山中 臨在

 「 祈り 」           箴言3:16

信仰生活の3つの指針を聖書に聞きます。まず、信仰生活において、自己流はよくないということです。何事にも正しいやり方というのがあります。信仰生活も同じです。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼るな」(5節)と聖書は語ります。自分が主体となる信仰ではなく、神様の知恵に頼る信仰が必要です。自分本位の信仰、自分に心地よいものだけを聖書から拾い出すあり方、他者の痛みに無関心な信仰は自分流です。また宗派間でお互いに批判し合うことにエネルギーを注いで分裂が繰り返し起こされていたり、或いは教会同士で批判し合ったり、更には信徒同士で批判し一つになろうとしない状態はすべて自分本位、自分流で信仰生活を送ろうとするところから起こってきます。主の言葉は最善です、人の分別はそれを超えることはできません。信仰の自己流を捨て、神様流になることが大切です。

2番目は信仰の目的です。どんなに美しい言葉で聖書を語っても、どんなに上手に讃美歌を歌っても、人を驚かせるような聖書の知識がどれだけあっても、どんなにたくさん奉仕をしても、或いはどんなに立派な教会組織や教会規則が整っていても、そのこと自体が目的になってしまって、本来の目的である神様に向かうことを見失うならば、私達の信仰は空しいものとなります。「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(6節)とあります。「主を覚えて」というのは、「神様と深い交わりをして神様を親しく知る」という意味です、そうすれば主が正しい道を示して、神が定められた目標に導いてくれるというのです。深い交わりを通して神を親しく知るために祈りは欠かせません。

3番目。スポーツで優れた技術があってもスタミナがなければ試合に勝つことはできません。信仰にもスタミナが必要です。スタミナをつけるには日頃の訓練が必要です。「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」(1節)とあります。元来「日々聖書に親しみ、よく記憶しなさい」の意味です。「私の都合がいい時だけ」ではないのです。逆に「私に悩みがある時だけ」でもありません。良い時も悪い時も、ということです。ある時は熱心に信仰生活を送っていたがしばらくして信仰生活から離れてしまうことがあるかもしれませんが、そんな時に本当に力になるのは主の言葉なのだということを覚えておきたいのです。霊的なスタミナは、日々み言葉に聞くことによって備えられます。信仰のスタミナを得るために日々の祈りは欠かせません。

信仰生活において、自分流をやめて神様流でいく、神様の目的を見失わない信仰の持久力を身に着けるためには絶えず祈ることが不可欠です。

私たちには様々な恵みと共に様々な課題もあります。それを解決すべくあれこれ対策を講じたり会議で話し合うことは大切ですが、それよりも前に私たちは体当たりで祈ることが大切です。イエス様は「失望しないで絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)とおっしゃいました。祈りには力があります。いや祈らなければ力は与えられません。祈りは信仰生活のエンジンです。祈りは教会のエンジンです。一緒にそのエンジンを作りあげましょう。

 

 

 

 

922日 説教―          松村 誠一 牧師

「靴屋のマルチン」    マタイによる福音書25:3146

マタイによる福音書の註解書「AKK」の著者であるウルリヒ・ルツ氏は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、マタイ福音書の釈義から理解するならば、“イエス様の弟子たち”であると注解しています。それは1042節に「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とイエス様は語っておられるからです。マタイは、イエス様の弟子たちの困窮に手を差し伸べ、その困窮に対して少しでも力になった者は、私、すなわちイエス様にしてくれたことであり、神はその人に祝福をもって報いて下さり、永遠の命へと招いてくださるのだ、ということを話しているのだと注解しています。

ルツ氏は「マタイのイエス~山上の説教から受難物語へ」(日本キリスト教団出版局)で“インマヌエルのテキスト?”と題しての説教で、トルストイの「靴屋のマルチン」の物語を紹介しています。ご承知の通り物語は、自分のたった一人の子供の死を嘆き悲しんでいるマルチンがぽつねんと座って憂いに沈んでいる時に、彼はかすかな声を聞くのです。その声とは「明日、私はあなたのところにやって来て、あなたを訪問する」という声です。マルチンはその声はキリストの声であると直感的に感じ、次の日朝早くから窓辺に座りイエス様がいつ来て下さるか待ち望みつつ一日を過ごすのですが、イエス様は来ませんでした。マルチンは悲しみの中で聖書を読むわけですが、その聖書の箇所が今日の聖書箇所でした。マルチンは寒さに凍えている老人を、赤ん坊を抱いて物乞いをしている親子を自宅に招き、食べ物を与え、そして本人に分からないように銅貨三枚を母親の外套のポケットに忍ばせたりと、自分が出来ることを行ったに過ぎなかったのですが、聖書を読んでいる時に、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのである。」の箇所に来た時にマルチンは無駄に待っていたわけではなかったのだ。「最も小さな者」においてイエス自身に出会ったということに気付くのです。

ルツ氏は、「これは感動的で、素晴らしい物語だ。しかしマタイの釈義からはトルストイのような解釈は出てこない。」と、靴屋のマルチンの物語の前で、そして福音書の前で悲しみ、そして自問をするのです。そして長い間、祈り、思いを巡らし、「いと小さき者」とはイエス様の弟子に留まっていていいのだろうか、と。その祈りの中でルツ氏は「靴屋のマルチンと同じようなことが起こりました。」と述べています。ルツ氏はキリストの声を聞くのです。この「いと小さき者」とは、まさに靴屋のマルチンがスープを飲ませ、リンゴを与えた子供こそ「いと小さき者」なのだと。私たちも、この世の「いと小さき者」の中に共におられるイエス様に出会い、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というイエス様の語りかけを共に聞いてゆきましょう。

 

 

 

 

 

915日 説教 ―             牧師 山中 臨在

     「請求書と領収書」        詩編107:19

「ありがとう」は人の心に優しく響く、対話には欠かせない言葉です。礼拝は神様と民との対話ですから、この対話が進むためにも「ありがとう」は大切で、欠かせないものです。

聖書には困難に苦しみもがく人々の姿が描かれています。モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民は40年もの間荒野を旅しましたが、旅の途中に「砂漠で人の住む町への道を見失い」(4)ました。彼らにとってはほとんど死を意味する絶望的なできごとです。いやモーセの民だけではありません、そんな人たちが「東から西から、北から南から」(3)、至るところにいるのです。今を生きる私たちも例外ではないでしょう。どんな人にも困難は必ずやってきます。

 困難の渦中にいる人の苦しみは大海のように大きいです。飢えや渇きといった肉体的な困難も、自分の存在意義を見出せずに苦しむ困難も、他者はそれを救い出すことはできません。しかし、神様は道に迷い疲れ果てた人たちを放っておきません。人間の知恵では考えられないような道を備えてくださいます。「主はあなたを見放すことも見捨てられることもない」(申命記31:8)のです。自分は何のために生きているのか、自分の存在意義は何かに悩む私たちに「あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と言われる方です。

 砂漠で道に迷う人々を神様が助け出す前に、人々は「助けを求めて叫び(6)ました。道に迷ったら助けを求めるのは当然ですが、「誰に」助けを求めるか、で人生は変わります。彼らは神様に助けを求めました。祈ったのです。神様は人間の祈りに応答し、助け出してくださいます。さてそのあと、人々はどうしたでしょう。彼らは感謝しました。主の愛にありがとう、と言ったのです(8)。困難に遭った時に、私たちは祈ることが許されていることは大きな恵みです。ところが、その祈りに神様が応えられたあと、私たちはどうするでしょう。私たちは神様にいわば請求書を出すのに、受け取った恵みの領収書を出すのを忘れてしまうのです。神様に請求するだけしておいて、感謝の領収書を出さないならば、それ以降、神様との対話が続いていきません。礼拝は神様と民との対話ですが、神様への感謝をしないなら、私たちが自ら礼拝を放棄していることになってしまいます。

 神様は私たちが神様へ感謝の領収書を出さなかったとしても、私たちを愛することをやめません。私たち人間は、神の一人子イエス様に感謝するどころか、イエスを呪い、あざけり、挙句の果てに殺してしまいました。それでも神様は私たちを見捨てないのです。「じゃあ、感謝しなくてもいいじゃないか」と思うかもしれませんが、忘れてはならないことは、神様は、私たちの感謝の領収書を待っておられることです。領収書がきたら、また次の請求書へと進んでゆけるのです。礼拝はそんな神様との対話が続いてゆく恵みの時です。

あなたは神様へ感謝の領収書を渡していますか? 神様への感謝は、礼拝を豊かにし、私たちの信仰生活を豊かにするものです。

 

 

98日 説 教―                  牧師 山中 臨在

  「神様の招待状」ルカによる福音書14:1524

聖書は、神の国(またその礼拝)を盛大な宴会に例えています。主人(神様)は招待客を呼びますが、招待されていた人々はことごとく理由をつけて断ります。招かれていた人たちは神様を知っていたのに、神様よりも他に優先順位が高いものがあると、神様の招きは後回しになり、拒絶することさえあります。事実、神の国を受け継ぐと考えられていたイスラエルの人々は、救い主イエス様が来られたとき、イエス様を迎え入れることを拒絶し、さらにイエス様をののしって十字架につけたのです。

 招待客が次々に宴会をキャンセルするので、主人は貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を招きます(21)。当時体が不自由な方は働くことができず、物乞いをして生きるしか道がありませんでした。この人たちの苦しみは今の私たちにはきっと想像することができません。自分は何もできない、生きていく価値がない、神に見捨てられた存在として、生きていく意味を見出せない人たちだったかもしれません。しかし彼らは宴会に招かれました。今味わっている苦しみは、神様から見捨てられた結果ではなく、神の国の宴会に招かれるための神様のプランだったことが今初めてわかったのです。自分の苦しみを誰も知らないと思っていたけれど、わかっている方がいた! しかも誰よりも権威のある方が、自分の苦しみを知り、自分の存在意義を喜んでいてくれたのです。

さて、それでもまだ席があるというので、主人は、通りや小道にいる人々を無理にでも連れてきて宴会を満席にするように命じます(23)。体の不自由な人たち以上に宴会に招かれることなど考えられないような人たちも招待されました。これは私たちの姿ではないかと思うのです。私たちは罪深く自己中心的な生き方をするわがままな者です。いや神様に刃向かい、救い主イエス・キリストを十字架にかけてしまうような者です。到底神の国に入ることなど考えられない者、神様もそこに私たちを招く義理はなかった。それにもかかわらず、神様は宴会を満席にしたい、それはみんなに来てほしくてたまらないのです。神の国の宴会に行く資格などない私をも招いてくださるほどに私を愛し招いてくださるのが神様です。

私たちも神様からの招待状が常に送られてきているのに、自分達の勝手な都合を優先し、断っているならば、神の国の恵みを受け取ることができません。イエス・キリストがこの世に送られ、私たちの罪をつぐなうために十字架で死んでくださったことによって、私たちには救いの道が開かれました。だからと言って私たちがその救いの道に入れるのではありません。その救いの道への招待状を私たちが受け取らなければ、そこへ行くことができません。

神様の招待状は日々一瞬一瞬あなたに届けられています。それを受け取り続けたいものです。神様の招きに応えて歩んでゆきましょう。

 

 

 

 

91日 説教―                    牧師 山中 臨在

   「霊とまことの礼拝」ヨハネによる福音書4:730

「聖書は私たちの信仰生活の中心である礼拝について次のように語っているのではないでしょうか。

1. 礼拝は神が始めてくださる

ユダヤ人とサマリア人は交際しない間柄であったにもかかわらず、ユダヤ人であるイエス様のほうから、サマリアの女性に語りかけ、御自分が誰であるのかその存在を示されました。彼女は、いわゆる「わけあり」の人でした。その男性遍歴のゆえか人からの評判は良くなく、自分でも後ろめたさがあったのでしょう。通常朝早くにする水汲みを正午になってするほど人と顔を合わせたくなかった、その彼女にイエス様のほうから語りかけ、この人が礼拝することを求めておられます。私たちも本来罪深く、神様と交わることのできない者です。それなのに神様は私たちを見捨てず、そんな罪を赦そうと礼拝に招いてくださっています。

 2.礼拝は私たちを変える

主を知らず、わけありのこのサマリアの女性はイエスに出会って自分自身を主の前に曝されます。すべてをご存知の主は、彼女の一番触れられたくない部分に斬り込みます、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16)と。彼女は少しずつ自分の罪と向き合わされます。罪ある私たちを招き入れてくださる主の呼びかけに、私たちは応答して自分自身のままで主の前に立ちます。それは自分の罪を告白することです。これが礼拝においてなされることです。サマリアの女性は主に会って自分自身を告白し、イエス様が与えてくださる水は永遠に渇くことがない真理であることを知ります。そのあと彼女は、水がめを置いたまま町に行き、人々にイエス様を証しするのです(28)。人目を避けてずっと生きてきたこの女性は主に出会って変えらました。水がめを置いたままイエスを伝えに行ったこともまた、礼拝の意義を教えます。私たちの日常を一旦主の前に置き、主に向かう。それが礼拝者の姿であるのです。自分の力では変わることのできなかったこの女性が変えられたように、私たちもまた礼拝を通して主によって新しい者とされていきます。

 3.霊とまことの礼拝

「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24)と主は言われます。私たちは見えるものに頼り、真理を求めようとしますが、主は、霊である、即ち見えない神の中に真理があることを教えています。サマリアの女性は、礼拝する場所が気になっていましたが、イエス様は、場所が問題ではなく、礼拝する者の思い、献身、愛、誠実さをもって礼拝しなさい、それが霊的な礼拝だと言うのです。また、私たちは、神様の真理であるみ言葉によって礼拝をしなければなりません。人間のやり方ではなく、神様のやり方でするのです。「私」が中心になる私流の礼拝ではなく、とことん神様中心、み言葉中心であるのがまことの礼拝です。また神の真理であるみ言葉のうち、自分に都合のよい一部分だけを用いる礼拝は一面的です。神様の真理は時として私たちにとって耳の痛いものもありますが、それらすべてが真理です。聖書の一部分だけを切り取って自分に都合よくあてはめてはいけません。だから私たちは謙虚になって、神様のみ言葉に聞いていきましょう。

 私たちの礼拝をささげるありかたを今いちど振り返り、日々の生活の中で、霊とまことをもって主を礼拝するようにしてゆきましょう。