説教記録9月

 

930日 説教―                 眞柄光久神学生

             「おいしそうな果実」

今日が実習の最後の日になります。私のようなものを温かく迎え、見守ってくださった皆さまに心から感謝申し上げます。あっというまに6か月は過ぎてしまいました。思い返しますと墓前礼拝、奥多摩でのキャンプ、BBQパーティ、分級、お昼ご飯の交わりと本当に楽しく、祝福された時を過ごさせていただきありがとうございました。

今日は「おいしそうな果実」という題で説教をさせていただきます。ちょっと思わせぶりな題だと思います。しかし、これはエバが善悪の木を見て、そう思っただけで、神の造られたものはすべておいしそうなもの、また食べるのに良いものなのです。エバもそうですが、人はえてして、おいしそうなもの、おいしくないものと区別しがちです。神が造られたものを人が区別してはならないのです。     

旧約聖書は読みづらいと、敬遠している方が多くおられるのではないでしょうか。そういう方々に、旧約に親しみを持っていただくために、3回、旧約からの説教をさせていただきました。旧約を楽しく読むために、コツがあります。それは合理的に考えないということです。合理的に考えると旧約は読みにくくなります。例えば、「なぜ神は善悪の木を園の真ん中に置いたのだろう、置かなければエバは食べることがなかったのに」などと答えを求めても、そこには答えはありません。神がそうされたからと我々は受け入れるだけで、合理的に考えようとせず、エバが木の実を食べた物語は、我々に何を訴えかけているのだろうと考えるのが、旧約を楽しく読むコツなのです。エバが実を取って食べたと言うのは、神と悪の関係、すなわち悪の起源の問題提起をここでしているのです。また、確かに原罪はここで人にはいりました。しかし、人が罪を犯したということは言っていないのです。そこで、罪を犯したと言うことがらだけが書かれているだけなのです。どんなに丁寧に読んでも、人が原罪を犯したとは一言も書いてはいないのです。新約のロマ書(512節)を読んで、パウロの神学によって、ここで原罪が入ったのだなと読みがちなのですが、この創世記の3章ではそうとは書いてありません。2年前に私の友人がシンガポールから身ぐるみはがされ、帰国しました。彼はシンガポールを「明るい北朝鮮」と呼び、「何十年間もまじめにビジネスをしてきたのに、なぜ神はそのようなことをするのかと」と私に涙ながらに訴えました。私にはなにも答えることができませんでした。ただひたすら彼の言うことを聞き続けました。答えはないのです。神になぜときいても答えはありません。人の合理的な考えでは、神のなさることは計り知れませんし、ただそれを受け入れるだけなのです。そこにイエス様が「ある」のです。

                     (創世記36節)

 

 

―923日 説 教―                     牧師 松村 誠一

     「忙しさの中で 何を第一としていくか」

イエス様と弟子たちの旅の一行がある村に入って行かれます。そしてその一行が、マルタとマリアの姉妹の自宅に立ち寄った時の出来事が記されてます。マルタは旅の一行をもてなすために一生懸命準備をしていたのでしょう。マルタが妹のマリアを見ると、マリアはすでにイエス様の足元に座って、イエス様の話に聞き入っておりました。マルタはその様子が目に入るや否や「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」とイエス様に言いつけております。当時の社会では旅人をもてなすことは、大変尊い奉仕の業でした。ですからイエス様はマルタのもてなしを喜ばれたのではないでしょうか。ところがイエス様はマルタの不平不満の言葉に「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになったのです。イエス様はなぜマルタの不平不満を受け入れてあげなかったのでしょうか。それはマルタがもてなしのことで忙しくしており、心を乱してしまい、何が一番大切であるかの判断が出来なくなってしまったからでしょう。旅人をもてなすという奉仕は称賛されるべきものです。しかし尊い奉仕も、「あの人がしていない」とか「あの人はしている」ということになると交わりが損なわれていくことになるのです。忙しいと、その当座だけを処理しようとしますから、何が一番大切であるかの判断が出来なくなってしまうのではないでしょうか。

精神科の先生の話ですが、自分が精神的に不安定になっているかどうかの自己診断は、物事の大切さの判断が出来るかどうかだそうです。何をしたらいいのか判断できなくなり、ただ何かをしなければならないとあせるばかりで、何も手につかない。それは少し精神的に不安定になっている時だそうです。そういう時は、心静かに何が一番大切なのかを考え直すようにとアドバイスしていました。マルタも、忙しい中で何が一番大切であるかを見失なっていたのではないでしょうか。接待する人よりも、マルタは接待そのものに気を取られてしまい、心を乱していたのです。同じようなことは私たちにもあるのではないでしょうか。

イエス様はマルタにさらに語りかけます。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。」と。マリアにとってイエス様との会話が今一番必要だったのです。そしてイエス様は自分に対する最大のもてなしは、み言葉を聞くことにあると教えておられるのです。

私たちの生活は多忙です。しかし、多忙であればある程、何を第一にすべきか、その何を第一にすべきかを知るためにみ言葉を聞くことを最優先しなければならないのではないでしょうか。み言葉を聞く時に、何が大切かが示されます。み言葉を聞く時に行動が生まれます。み言葉に聞く時に、喜んで奉仕することが出来るのです。喜んで奉仕をする時に決して不平不満の心は沸いてきません。喜んで奉仕をする時にその奉仕はどんな奉仕でも美しいのです。私たちもイエス様の足元に座り、心沈め、み言葉を聞き、喜んで共に奉仕の業にあたってゆきましょう。 

       (ルカによる福音書103842)

 

 

 

-916日 説 教 -                    牧師 松村 誠一

            「若者よ、起きなさい」

「イエス様と弟子たちがナインと言う町に行かれ時のことです。イエス様の一行がその町の門を入ろうとした時に、その門を出て行こうとする人々に出会っています。この人々とは死体を町の外に担ぎ出し、死体を処理する人々だったのです。当時の社会は、今日の世俗社会も同じだと思いますが、死は忌むべきものであり、死んだ者は町から運び出し、処理してしまわなければならなかったのです。イエス様は一人息子を失った母親を見て、「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」と記されています。岩波訳聖書は「すると主は彼女を見て、彼女に対して腸がちぎれる想いに駆られ、彼女に言った。『泣くのはおよしなさい』。そして近寄ると、棺に(手を)触れた」と。そしてイエス様は「若者よ。あなたに言う。起きなさい」と言われたのです。そうしますと死んだ若者は起き上がってものを言い始めたので、その息子をイエス様は母親に返されたと記されています。

さて今日において、死人が起き上がったなど、信じることが出来ないのではないでしょうか。ある人は言います。この若者は失神状態だったのだ。失神状態で生き埋めにされるところを、イエス様は鋭く見抜き、その若者を助けたのだと。また当時の奇跡物語からヒントを得た、ルカの創作物語であると理解する人もいます。皆様はどのように理解されるのでしょうか。私は、息子さんを亡くされた一人の壮年の証しが頭に浮かんできます。その壮年の息子さんが高校2年の時に自ら命を断ってしまうという大変悲しい出来事に遭われたのですが、その悲しみの中でこの聖書の箇所から大いに慰めと励ましを頂いたという証しです。その証しを思い出しつつ、この聖書を読みますと次のことに注目させられるのです。イエス様が一息子を失った母親と出会った時、腸がちぎれるほどにイエス様ご自身も悲しんだということであります。夫を早く亡くし、そして今息子を亡くしてしまったこの母親。このような不幸は、世間一般では罪人に対する神の裁きであると考えられておりましたので、この母親の悲しみは息子を失った悲しみに、さらに上乗せして神の裁きを身に負わなければならなかったのです。町の人々が死体を町の外に運び出す、その同情を装った手助けも実は罪に対する冷たい糾弾の視線に溢れていたのではないでしょうか。この母親の悲しみは、生きる気力さえ失ってしまう悲しみだったのではないでしょうか。しかし、その悲しみをイエス様ご自身が悲しんでくださったのですから、この母親は大いに慰められ、生きる希望を豊かに与えられたのではないでしょうか。母親の一人息子が死から生き返ったのかは、私たち知るすべがありませんが、しかし確かなことは、母親はイエス様から慰めを頂いた時、息子さんを失った壮年が証しをされているように、「今や、息子は天国にり、イエス・キリストの手の中で、もはや情緒不安定や孤立感に悩まされることもなく、生きている」ことを知ることが出来たのでしょう。息子は死んだ。しかしイエス様を信じる信仰により息子は確かに生きている。このことだけは真実であり、この母親にとって、それはまさに死人が起き出してものを言い出した出来事となったのではないでしょうか。

ルカが語り告げたいイエス・キリストはまさには死人をも甦らせる力を持ったお方です。そして同時イエス様はどんなにこの世で小さく、貧しく、力のない者にも、目を留められ、その悲しみ、苦しみにご自分の腸が痛むほどに同情し、寄り添ってくださるお方であることを伝えているのです。

         (ルカによる福音書71117節)

 

 

99日 説 教―                  牧師 松村 誠一

            「日々新たにされて」

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(416節) カール・バルトはこの“落胆”について次のように述べています。「『落胆』というのは、人間が、人間たちの中での人間としての自分の状況について知り、死ななければならぬ人間としての~この世における人間としての、自分の状況について知るときに、人間を襲う状態である。したがって『落胆』とは、誠実さの、真面目さの、直接の一結果である。」(カール・バルト宣教選集6)

さて、私は、ですが、イエス様を信じている、だから罪赦され神によって滅ぼされることはない。私自身そう思って過ごしている自分がいるわけです。しかしそれは自分を正直に見ていないというわけです。自分の状況を誠実に、真面目に見るならば、「落胆」するのである、ということだと思います。この「落胆」ということばですが、失望(岩波訳聖書)、あるいは絶望との訳せる言葉ですので、自分自身の状況を誠実に、真面目に見るならば、失望、絶望でしかない、ということをバルトは言っているのだと思います。続いてバルトは、誰もが「落胆」から逃れることが出来ないのだと言っております。「落胆」とは、死であり滅びです。パウロが語っているところの「外なる人」です。この外なる人とは、今、生かされている私たちのことでしょう。時が経てば死んでいく私たちのことでしょう。この事実をはっきりと知ることによって人間は落胆せざるを得ないのです。そしてそのことを知り得た者が「内なる人」について知ることが出来るのだと言うのであります。「内なる人」とは神が与えて下さる命に生かされる人のことでしょう。その「内なる人」はどのようにして与えられるのか。それは人が宗教的であれば、信仰熱心であればとか、パウロは何も語っていないとバルトは言っております。それでは、何と言っているのでしょうか。それは41節ですが「こういうわけで、わたしたちは憐みを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と。なぜパウロは落胆しないのでしょうか。それは神によってこの落胆せざるを得ない者を神が用いてくださるが故に落胆しないというのです。パウロはゆだねられた福音を語るがゆえに苦難に遭うのですが、その苦難を通して「内なる人」が日々新たにされていくことをイエス様によって知らされているのです。その「内なる人」はこの世の次元では知り得ることの出来ないが確かにあります。イエス様によって知ることが出来たのだから、その見えないものに目を注ぐというのです。目を注ぐとは信じる、という言葉に置き換えてもいいでしょう。

「落胆」とは滅びです。しかし私たちは主イエス様を救い主と信じる信仰を頂いております。そしてその信仰に基づいて日々過しております。そして落胆せざるを得ない、その私たちを神が憐れんでくださり、神が用いてくださる故に落胆することがないのです。そして「内なる人」つまり神が与えて下さる命へと日々生かされていることを感謝し、喜びと希望をもって歩む者でありたいと思います。

      (コリントの信徒への手紙二41618節)

 

 

92日 説 教―               牧師 松村 誠一

       「霊と真理をもって捧げる礼拝」

イエス様と弟子たちの一行はサマリア地方に入り、シカルという町にやって来られました。イエス様は旅の疲れを覚え、この町にある井戸のそばに座り、休んでおられました。聖書には、わざわざその時刻を「正午ころのことである」と記しております。この地方では日中の時間に、わざわざ井戸の水を汲みに来ることはあり得なかったからであります。ところが一人のサマリアの女がこの時間帯に水を汲みにきたのです。人々が暑さをさけ、休んでいる時間帯に、人目を盗むようにしてやってきたこの女にイエスは語りかけております。「水を飲ませてください」。女はイエス様の語りかけにとっさに答えております。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この女の言葉は、イエス様との関係を拒否しようとしての言葉ではないでしょうか。しかしイエス様は、さらにこの女にとても不思議な言葉を語りかけています。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と。実に不思議な言葉です。イエス様の語りかけを聞いたこの女も、この不思議な言葉に、この人は一体誰なのかを知りたいという思いを強く持ったのではないでしょうか。「もしあなたが、神の賜物を知っており」とは、神の愛、神のなさけ、神の赦し、神の思い、それらすべてを含んでいる言葉でしょう。その神の賜物を、あなたが知っているなら、そしてその神の賜物をあなたに与えようとしている者が誰であるか、あなたが知っているならばということでしょう。

イエス様の語られた、この言葉が本当に通じるということは、語りかけられたその人との人格的交わりが絶対欠かせません。この女はイエス様との人格的な交わりを通して、この方は一体誰なのかを知りたいという思いへと導かれております。イエス様はさらにサマリアの女との人格的な交わりを通して、女の心の奥深くへと入って行かれ、女の今までの生き方の過ちへと、話を進めて行かれます。この女はどういう理由か分かりませんが、今まで五人の夫と結婚と離婚を繰り返し、今はある男性と同棲をしていたのでしょう。当の本人もこのような生活が幸せだなんて思ってはいなかったでしょう。世の中の激しい波に飲まれ、また自分の弱さに打ちのめされ、今の生活を続けていくことしかできなかったのでしょう。その女にイエス様は、水を求める一人の渇ける人として近づき、優しく語りかけてくださるのです。「水を飲ませてください」とお願いをしながら、女の心深くに触れてくださり、神の愛で包んでくださり、様々なしがらみから解放してくださり、神が与えてくださる命へと 招いてくださるのです。

こんにちの多くの人々は、サマリアの女のように、様々な問題を抱えていても、問題解決に当たることをせず、いや、そこから逃げての生活に甘んじているのではないでしょうか。多くの人々が人に言えない苦しみ、悩み、暗い過去を持っております。それらの人々がイエス様との人格的な交わりを通して、その問題解決へと導かれたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。私たちが霊と真理をもって礼拝を捧げ、イエス様との人格的な交わりを頂き、イエス様こそが「永遠の命に至る水」を与えてくださるお方であることの証人となっていくことが望まれているのです。

         (ヨハネによる福音書4126節)