説教記録9月

 

925日 説教-    安藤理恵子先生(玉川聖学院)

「確信を捨てずに生きる」(ヘブライ人への手紙10:35~39)

高校1年生の時、以前はまったく共感できなかった聖書を読み直し、感動を覚えた。「選んだ神様が本当の神であるならば、そのあと自分に必要な感情も、信仰を全うする力も神が与えてくださる」と牧師先生に教えられ、それが助けとなり、高校2年生の夏に洗礼を受ける。以来今日まで、信仰を持つことに後悔はない。反省はあるが後悔はない。

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。」1035 

聖書の示す生き方を以下3つのポイントで確認。

① 私たちはキリストを信じることによって救われた。(過去)

キリストが十字架にかかって死んでくださったこと故に、そしてそれを信じることによって私たちは救われた。

② 信じて救われた私たちが、この世の困難な日々の生活の中で生きている今、イエス・キリストは共にいてくださり 私たちに必要な助けを与えてくださる。(現在)

③ 将来(私たちの死のあと)、天にのぼったキリストが降りてきて、もう一度帰って来られる時があると聖書に書かれている。その時、私たちもキリストのように復活する。(未来)

*私たちが持つべき「確信」とは、私たちの人生の過去、現在、未来、また死んだ先の永遠まで、すべての時代に通用するイエス・キリストという救い主を信じることである。イエス・キリストという方の存在をどういうふうに受け止め、信じるかということが、私たちが教会に集まり続ける最も大切な意味なのである。

「自分がもっと素晴らしい、いつまでも残るものを持っていると知っていた。」10:34

信仰を持っているが故に迫害された人たちが、その中にあっても信仰を捨てなかった。信仰を持っている故に迫害される時、信仰の本当の価値に目覚める。

「だから自分の確信を捨ててはいけません。」10:35a

人生の選択をする時、人は何らかの判断基準を自分の中に育てながら生きている。私たちが今持っている判断基準とは、確信とは何か?自分の価値観

と聖書が提供する価値観を比べてみる。

本当にこの確信でいいのか。本当にこの信仰で自分は生きているのか。この信仰によって生きた結果の喜びの中を自分は歩んでいるのか。こんな生き方を本当に他の人たちにもさせていいのか。

「この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」10:35b36

未来のために忍耐する。想像力を持つ時、生き方が変えられる。未来とは、長いスパンであり、死を超えた先のもっと長い本当の人生のこと。永遠の人生、神と一緒の人生がある。将来、より良いものを神が与えてくださることを信頼して待ち望み、今をしっかりと受け取る。聖書が私たちの心の支えになるのは、見えない未来について、はっきりと約束してくれるから。将来、キリストを信じる者たちは蘇って、豊かな人生を、豊かな命を、想像を遙かに超えて経験していく。私たちが礼拝している神という方の大きさ、優しさ、愛の深さ、清さ、厳しさを 感動を持って知ることができる、そんな未来が私たちにはある。想像力を私たちに与えようとして、神が私たちに贈られたのが この聖書という書物。聖書は、老いて経験を積んでいく中で、大切なものを私たちは学んでいくと語る。最後に残るものがキリストを信頼するという「信仰」であるのならば、人生は死で終わりではない。そのあとずっと神の命とひとつになる人生が私たちには与えられる。

  地上でいろいろなできごとが起こる中で、今なお 私たちが生かされているということは、使命があり、皆と一緒に生きていく時間が残されているということ。辛いことがある中でも、私たちはキリストを信じることによって、その中に留まって、私たちができることを神に献げ、人に献げて、価値ある人生を歩んで行くことができる。信仰に確信を持っている人たちがいれば、キリストに確信を持っている人たちがいれば、世界がものすごく暗くなって行くように見えても、その人たちは神の光となって輝いて、希望を失う人たちに、希望を届けることができる。礼拝は希望を取り戻すためのもの。                      記:岸本敬子 

 

 

918日 説教―               牧師 松村 誠一

            「イエス様はおられる」

マタイによる福音書は、教会を形成し、支えるための“教会の書”といっても良いと思います。特に18章は教会の本質に関わる教え、あり方について記されている箇所です。今朝の聖書の箇所は15節からはじまる兄弟の忠告」の結論部分ですが、15節からみていきましょう。

 まず、兄弟があなたに対して罪を犯したならその本人に忠告をし、解決にあたりなさいという忠告です。罪を犯した本人を思いやる思いがその兄弟を立ち直らせる力となるでしょう。しかしその忠告が聞き入れられない場合は、今度は一人か二人に加わってもらい、解決にあたりなさいという忠告です。この教えも律法に則しており、客観性を担保する最小限の人によって解決にあたりなさい、という相手を思いやる解決策ではないでしょうか。しかしこの忠告も聞き入れられない場合は、今度は「教会に申し出なさい」と忠告を与えております。教会全体で係わっていくことが述べられております。教会の忠告も聞き入れられない場合は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と教えております。異邦人も徴税人も当時の社会から差別されていた人々です。イエス様はこのような忠告をされたのでしょうか。この教えは当時のマタイ教団の教会形成上、やむを得ない教えであったために、この教えをイエス様の教えとして加えたものであるという解釈もあります。なぜならば、この箇所の前には「『迷い出た羊』のたとえ」が記されており、また後には「『仲間を赦さない家来』のたとえ」が記されているからです。このたとえ話には差別の思想など全くありません。仲間を赦さない家来のたとえでも、7回の70倍まで、つまり無制限に赦しなさいというイエス様の教えが記されているからです。

さて私たちはこの聖書の箇所をどのように受け取り,理解したらいいのでしょうか。それは20節の言葉にヒントがあるように思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。(20) 二人または三人がイエス様の名によって集まる、その集まりはイエス様の愛と赦しによって成立している関係です。その関係が成立しているところが教会なのです。この関係が成立している教会では“教会の言うこと聞き入れられない”ということなど起こらないでしょう。

 イエス様の愛と赦しによって基礎付けられている関係は互いに赦し、愛し、認め、仕え合う関係へと導かれていきます。私たちは、生まれも違い、性格も違い、趣味も違い、価値観も違います。違いだらけの私たちが心を一つにして主を賛美し、礼拝をささげ、教会生活をこのように送っております。それはイエス様が私たちと共にいて下さり、私たちの思いを、価値観を変え、また差別や偏見の思いを取り除き、自己中心的な思いを打ち砕き、他者を愛し、受け入れる者へと導いて下さっているからです。

来週の日曜日は安藤理恵子先生をお招きして礼拝が守られます。イエス様がおられる教会に多くの方々をお誘いし、今も活きて働いておられるイエス様をご紹介する時としましょう。

    (マタイによる福音書181820)

 

 

 

911日 説教―            牧師 松村 誠一

             「新しい人生を歩もう」

 異邦人と同じように歩んではなりません、と注意、勧告がなされております。異邦人とは聖書に記されている通り愚かな考えに従って歩んでいる人のことであり、そして知性は暗くなり、彼らの中にある無知と、その心のかたくなさのために、神の命から遠く離れている人々のことです。

さらに異邦人について19節では「そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」と、記されています。

 真の神を神としない人間の心は虚しくなり、そして益々神の命から離れた存在となり、それゆえ、心は無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いへと進んで行く、そのような者が異邦人の特徴として上げられております。

エフェソの町はアルテミスの神殿が建てられており、神殿を中心に町の経済が成り立っておりました。このアルテミスの神殿に祀られているのは五穀豊穣の神様で、人間の欲望に応えて下さる神として祭られておりました。当時、エフェソの町は、ここで言われている異邦人社会が築かれていたのです。多くの人々が真の神から遠く離れ、そして無感覚、つまり羞恥心がなくなってしまい、自分の欲望のままに、ふしだらな行いばかりしていたというのです。

この当時のエフェソの社会は、今日の日本社会と通じるところがあるのではないでしょうか。今日の社会は神なき社会が築かれています。神という存在が社会から消え去ってしまったので、人々の心から罪悪感がなくなってしまい、それゆえに人々の心が冷たくなり、冷酷な犯罪が多発しております。

このような社会にあって、キリスト者はどのように生きればいいのでしょうか。20節に「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」と記されています。キリスト信仰に入る時に、キリスト教の信仰について、そしてその実際の信仰生活について学んだのでしょう。そのことを思い起こさせています。そして結論としてキリスト者は古い人を脱ぎ捨てること。キリストによって新しくされた者であることを確認させ、世俗社会においても新しくされた者として生活することを勧めています。

私たちもこの世俗社会でキリスト者として生活していくには、キリストにあって新しくされたことを想起しつつ、新しくされた者に与えられる希望に生きることです。このような生き方は、時に困難を感じることもあるかと思いますが、しかし、人間を徹底的にだめにしてします虚無から解放され、真の希望に生きることが出来るのです。この世俗社会にあって、キリストにあって日々新たにされ、キリスト者とし新しい人生を共に励ましあいながら歩んでゆきたいと思います。

  (エフェソの信徒への手紙41724節)

 

 

 

94日 説教―             牧師 松村 誠一

             「神の永遠の計画」

 パウロは使徒言行録に記されておりますように1,2,3回の伝道旅行を行い、小アジアからヨーロッパ、しかも当時の世界の中心地であるローマまでも行き(このローマの旅は、捕らわれの身ではありましたが)福音を宣べ伝えております。キリスト教が一民族の宗教から世界宗教となったのはパウロの伝道、福音宣教の働きによるものです。

 パウロはイエス様に出会う前は生まれ、家柄を誇り、ユダヤ人の誰よりも律法を守っていたと自負していた人間でした。しかし、イエス様との出会いによって、自分はキリスト者の中で最もつまらない者である。自分は罪人の頭であると告白しております。この告白、自己認識こそが、異邦人に徹底的に仕え、福音宣教の務めに当たる原動力となっていくのです。異邦人が福音を信じ、その福音に生かされるためにパウロは自分自身の全てをこの異邦人伝道にささげ尽くしております。その結果エフェソにも教会が生まれております。しかしパウロはここに留まることは致しませんでした。パウロは自分に与えられた使命を遂行していくには、今立てられている教会がその使命を受け継いでいかなければならない。これは神の永遠の計画に沿うものであることを語り告げています。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画の沿うものです。」(エフェソの信徒への手紙31011

福音宣教の務めを委託された教会の働きは神の永遠の計画に沿うものなのである。そしてその使命遂行の責任はエフェソの教会員にあるのだとパウロは語っているのです。

 この使命遂行の責任はエフェソの教会だけではなく、福音宣教によって立てられた全ての教会がこの使命遂行の責任を頂いているのです。神の知恵が教会に知らされているからです。神の知恵とは、イエス様によってあらわされた神の救いの計画であります。イエス様は同胞ユダヤ人から神を冒涜する者として、律法を守らない者として、またローマ人からは国を惑わす者として捕えられ、むざんな十字架刑により、処刑されたのであります。しかし、その死こそが、我々の罪の贖いの死であり、それが神の知恵であります。そしてこの神の知恵は教会に告げ知らされているのです。神の知恵とはイエス様によって明らかにされた人類の救いの計画であります。そして私たちの教会にもそのことが告げ知らされているのです。 私たちは一人一人、教会に導かれ、イエス様を救い主と信じる信仰に導かれ、そして今、このように礼拝をしている。これは、たまたまではありません。神の永遠の計画によるもので、神の導きによるものであります。神の永遠の計画によって今ある私たちは、福音を告げ知らせる使命と責任が一人一人に与えられているのです。この使命と責任を共に果たしてゆきましょう。925日(日)の礼拝で玉川聖学院院長の安藤理恵子先生がメッセージを取り次いで下さいます。この礼拝をお祈りに覚え、一人一人主から示されてことを行動して、当日を迎えましょう。

      (エフェソの信徒への手紙3113節)