説教要旨

 ― 9月27日 説教 ―        山本弘夫 神学生

           「救われるとは」

 エルサレムでの使徒会議での後、パウロとシラスは第2次伝道旅行に出発しヨーロッパのフィリピに滞在します。フィリピで女奴隷にとりついた占いの霊を追い出しますが、占いによる金儲けの手段を失った奴隷の主人に恨まれ投獄されます。夜中に牢の中で二人が賛美をしていると大地震が起こり二人の鎖は外れてしまいます。

牢の看守は囚人が逃げてしまったと思い自殺しようとします。それを二人はとどめます。「先生方救われるにはどうすれば良いでしょうか」と尋ねる看守に対し、二人は「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と答えます。これは素晴らしい言葉です。

それでは救われるとはいったいどういうことなのか。

私たちは神の形に造られた、神が愛する神の被造物であります。しかし罪びととなってしまった。そこで神は、救い主としてキリストを私たちの世界に遣わし、私たちに真理に基づく新しい生き方を教え、私たちの罪の身代わりにキリストを十字架にかけて下さった。そして私たちが罪許され、神様との正しい関係を回復し、祝福された新しい命に生きることができるようにして下さった。ここに神様の大きな自己犠牲愛と救いがあります。

神学者タイセンは、ローマの信徒への手紙はパウロの信仰の発展が、4つの段階に分けて書かれていると説明しています。

第一の段階は、律法を守ることで救われるとの信仰です。パウロは律法を守らないとしてクリスチャンを迫害しておりました。(320節以前)

第二の段階は、信仰によって救われるとの考えです。(321~ 5章)

第三の段階は、変えられることによって救われるとの信仰です。8章では葛藤の中でどうにもならない私たちは、聖霊の働きによって変えられて救われるとの信仰が語られます。(6~8章)

第四の段階は、イスラエルに関するもので、律法にもよらず信仰にもよらず私たちが造り変えられることにもよらない神の自由な選びによる救いであるとの信仰です。(9~11)

私たちにとってこのうち第三段階の救いが大切です。信仰による聖霊の働きによって私たちは造り変えられて救われます。

テトスへの手紙第3章には「この救いは、聖霊によって新たに生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は,わたしたちの救い主イエス・キリストを通して,この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」と書かれています。

私たちはこの根本的救いに基づき、現実の毎日の生活の中で、多くの問題からの救いを得ることができます。

第一は、虚無感からの救いです。信仰は人生に、目的と生きる意味を与えます。他のいかなるものも、これに代ることができません。

第二は、孤独からの救いです。人は孤独の状況に陥っても復活のキリストがいつもともにいて下さること、神の家族である教会の交わりに入ることで孤独が癒されます。

第三は、恐怖や不安からの救いです。全地全能の愛の神に祈り頼ることができることはクリスチャンの特権です。

第四は、退屈、倦怠、自堕落、卑しさからの救いです。信仰にはキリストの似姿へと私たちを引っ張り上げる力があります。

第五は、救いが隣人へも及ぶということです。コリント人への手紙714節に書かれているとおりです。隣人に幸福を及ぼします。

         (使徒言行録1625節~32節)  


― 9月20日 説教 ―                             牧師  松村 誠一


           「万事を益としてくださる」

パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」(ローマの信徒への手紙818節)と語っています。“現在の苦しみ”とはパウロだけの問題ではなく、パウロをはじめ、全ての人々、いや人間だけではない、神によって創られた被造物の苦しみであるとパウロは見ております。神によって創造された全てのものは神の栄光に仕えるはずだったが、そこから脱落して罪と死とに服するものとなってしまった。このことをパウロは“現在の苦しみ”であると指摘しています。そうではないでしょうか。

この世は、動物にしても自分達の生命維持のため餌を求めて殺し合っています。人間もそうでしょう。食糧を求めて狩猟をし、食糧のために汗水流して働いて、そしてその食糧を得るために戦争し、搾取をし続けているのではないでしょうか。パウロはそれがこの世であるというのです。しかし、そのようなこの世は、もうすでに終わりを迎えている。再び神が創造された極めて良かった世界がイエス様によってはっきりと指し示され語っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、」と記されていますが、パウロは、この将来とは、イエス様の再臨を考えているのです。すでに神によって再創造された世界がイエス様の再臨と共にやって来るのだと。その再臨をパウロは間近に感じながら語っているのです。信仰をもってこの世を歩む者は、罪に支配されているこの世の只中で、その再臨の日を待ちつつ、希望に生きる者であると言えましょう。そして希望に生きる者に神は霊によって弱いわたしたちを助けてくださることも明らかにしております。どのように助けてくださるのでしょうか。それは「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」と記されております。

私たちの本当の苦しみ、悲しみは祈りの時に一番顕わとなります。そして祈りの時に本当の自分との出会いがあります。ですからパウロは、弱い私という本当の自分を祈りの中で知り、そして祈る時にイエス様の霊が、その弱い私と共に居てくださり、助けてくださり、神に執り成しをしてくださるのだと語っているのです。イエス様は私たちのうめきを天の高いところから見ておられるお方ではないのです。私たちがうめいている、そのうめきの現場にまで来て下さり、共にうめいて下さり、神様に執り成しをして下さっておられるというのです。

そしてさらに万事が益となるように共に働いて下さっていることを語り伝えています。万事を益にしてくださるイエス様によって愛され、守られている私たちはなんと幸せであり、心強いことでしょうか。私たちの日々の生活は苦難があり、悲しみもあります。悩みもあります。しかし万事を益として下さるイエス様を信じ、イエス様の霊の助けを頂いて、自分を吟味し、ただされ、そして赦され、神に受け入れられていることをいつも確認して希望に生きる者でありたいと思います。

           (ローマの信徒への手紙8章1830節)


― 9月13日 説教 ―             牧師  松村 誠一

 

      「霊によって生かされている私たち」

パウロは724節で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆いております。これはパウロの嘆きであり、また私たちの嘆きでもあります。

パウロは、そういう人間であることをしっかりと見据えながら、8章の1節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」と述べています。724節と81節の間にはものすごい飛躍、断絶があるのではないでしょうか。この飛躍、断絶をイエス様が繋いでくださるのです。イエス様を信じる者はイエス様の霊が内に働いてくださり、この飛躍、断絶を完全にうめて、繋いでくださるのです。

ここで罪と律法についてもう一度みて見たいと思いますが、律法はモーセの十戒に代表されるように“してはならない”という命令です。神の似姿として創造された人間は、この戒めを守ることにおいて、神との関係の中で神が望んでおられる人間として生きるためであります。しかし、罪が入り込んで来たために、戒めは、その罪を指摘する役目となってしまったのです。

人間に罪が入り込んでしまったがゆえに律法は人を糾弾し、罪に定めるものとしてしまったのであります。律法は人間の罪をあらわにはしますが、その罪をなきものにする力はありません。その律法がなし得なかったことを神は成し遂げてくださった、とパウロは言うのです。その具体的な事柄が3節後半に記されています。「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」と。神はイエス様を人間の罪を取り除くために、この世に送ってくださったということです。

罪の結果は死であります。イエス様は十字架によって処刑されました。この事件を通して、神は罪なき御子を罪の結果である死へと渡されたのです。しかし、イエス様は三日目に復活されました。これは、罪の結果である死は無きものとされたのだということの告知です。そのことを神はイエス様のこの出来事を通して全ての人に知らしめ、そして今もなお、神は霊によって全ての人に知らしめているのだ、ということが語られているのです。

そうです。私たちは聖書を通してイエス様がいかなるお方かを知り、そしてイエス様の霊の働きによって、この罪ある者が赦されて、神の命へと招かれることを悟り、肉によって生きようとするわたしたち、つまり自我、自己栄光、自己絶対化、ひいては自分を神とする思いを断罪し、イエス様に従って歩もうとする者へと導いて下さるのであります。イエス様を救い主と信じるということは、イエス様が私たちの罪を赦してくださり、私たちを罪の支払う報酬である死から解放してくださり、永遠の命へと招かれていることを信じることです。

            (ローマの信徒への手紙8111節)


― 9月6日 説教 ―                    牧師 松村 誠一

           「私の内なる罪」

今朝の聖書の箇所でパウロは人間の心の内に潜む罪について語っています。パウロはこの罪の問題を客観的に、一般化して語るのではなく、パウロ自身の問題として語っております。14節でパウロは「わたしたちは」と語りだしておりますが、すぐに15節で、「わたしは」と主語を変えて語っております。罪の問題は一般化して話せないのではないでしょうか。それゆえにこの箇所を読む私たちも他人事として読むことは出来ないのではないでしょうか。

 14節ですが「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています」と語っています。モーセの十戒に代表される戒めは神から与えられたものです。その戒めによって神の意思と真理が言い表されており、人間の生きる道、あるいは守るべき事柄が示されているということは知っているというのです。しかし、パウロはその戒めを守ることができないのです。戒めを守ることの出来ないパウロは、「わたしは自分のしていることが分かりません」と呻きにも聞こえる言葉を語っています。本来自分の行いというのは、自分の意思、考えに基づいているのではないでしょうか。しかし、パウロは自分の意思と行為が分裂し、統一されていない、と嘆いているのです。そしてなぜそうなってしまっているのかさえも自分では理解出来ないのだと。

 これはパウロだけの問題ではなく、私たちの問題でもあるのではないでしょうか。 私もそうです。「隣人を自分のように愛しなさい」、この戒めは本当に素晴らしい教えであり、私もそのようにしたいと願っております。しかし実際には愛することが出来ず、かえって憎んでしまうというのが現実なのです。このように私自身の中においても、私の意志と行動が分裂しているのです。これはまさに私たちの現実であり誰もがこのような経験をし、苦悩しているのではないでしょうか。

パウロは、戒め、律法を良いものと認め、律法の側に立ちながら、他方ではそれと反対のことをしている、これは一体どういうことなのかと悩んでいるのです。そしてその悩みの中での答えは、「わたしの中に住んでいる罪なのです。」という結論に達するのです。自分のうちに罪が宿っている、パウロはそのような自分を見つめて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆いていております。その嘆きのすぐ後にパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と喜び叫んでいます。そうです。イエス様によって、この断罪されるべき者が赦され、新しい命へと招いてくださる、この事実を知った者は“神に感謝します”と神を賛美する者へと導かれてゆくのです。

        (ローマの信徒への手紙714~25節)