説教記録9月

925日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

         「まさか」アモス書 8:114

人生には思いもよらない「まさか」と思う出来事が潜んでいます。そんな時、 信仰を持っている私たちはどのように対応したらいいでしょうか。 アモス書 8 章には終末の預言が描かれています。これはまさに「まさか」の オンパレードです。この「まさか」の事柄に先立ち、聖書は社会の不正を明ら かにします。礼拝よりもインチキな商売を優先し、不正に利益を得ようという 手口が横行しています。貧しい者、苦しむ農民、弱い者がどうなってもお構い なしの世の中です。「終末とは恐ろしい時代ですね」と私たちは思うかもしれ ませんが、これはまさに現代で行われている事柄ではないでしょうか。神様よりもこの世の価値を尊び、不正をしてでも豊かになり権力を持とうとする社会。 豊かさや力が尊ばれ弱くされている者に目が届かず軽んじられ、その命さえも 軽視されている社会。自分さえよければ他者はどうなってもいいという思い。 残念ながらすべて現代に生きる私たち一人一人が直面している事柄です。

ごまかしや不正を禁じている神は、この社会の不正を目の前にさばきを下されるという預言を与えています。しかし「終末にはこんな審き(まさか)が起こりますよ」とお知らせするのが目的なら、それはただ私たちを絶望の 淵に落とすだけで希望がないように思えます。しかし聖書は希望の書です。 どのような希望が与えられているのでしょうか。

ある父と息子の話です。息子には万引きをする癖があり、何度捕まっても 万引きがやめられませんでした。ある時万引きをした息子に父は「今度君が 万引きをしたら、万引きをする君の手をハンマーで叩く」と宣言します。父 の迫力に圧倒され、さすがに今回ばかりは息子も「ごめんなさい。もう絶対 万引きはしない」と約束します。しかし息子はまたしても万引きをしてしま いました。父が息子の前に現れハンマーを振り上げた次の瞬間、大きなうめき声が響きます。そのうめき声をあげたのは父でした。父は息子の手をたたく代わりに、自分自身の手をハンマーで叩いたのです。息子にとっては驚き の「まさか」でした。しかしこのことによって自分が犯した罪を息子は初めて自分のこととしてとらえ、その罪の大きさに気づいて立ち直ることができ ました。それは父の大きな犠牲があったからです。

「まさか」は、神様の愛と自分の罪に気づいて神様に立ち返る恵みの時で す。私の罪を赦すために、私を犠牲にせずに自らが犠牲となってくださったほどに私を愛してくださっているのです。「まさか」はそんな主に出会うチャンスが与えられる時です。希望が持てないような「まさか」は、ピンチをチャンスに変えてくださる方の愛と希望に気づく恵みの時です。主と共に歩むなら、 「まさか」は、神様の祝福へと変えられるのです。 

 

918日 説 教―           内藤淳一郎 先生

「人生の苦しみの意味」 ヨハネによる福音書9:13

私たちの人生には様々な苦難、不幸、悲劇が襲う。癌などの不治の病に冒さ れる。事故や事件に巻き込まれる。地震、津波、洪水など、自然災害によって 命を落とす。そして、愛する者に先立たれる悲しみ。私たちの人生、私たちの 命は、死と隣併せである。また、経済的困窮のため生き辛さを覚えて自死する 人がいる。

主イエスの時代も、人々はさまざまな病気、経済的貧困、差別など、多くの 苦しみを抱えていた。主イエスが弟子たちと歩いておられる時、生まれつきの 盲人を見られた。この世には様々な苦しみが一杯あるが、生まれた時から障害 があるとは何と理不尽な苦しみであろう。全能の善なる神が支配するこの世界 に、なぜ罪なき者の苦しみが満ちているのであろうか。

弟子たちは主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪 を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか誰のせいですか」と 尋ねた。弟子たちの質問に、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が 罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われた。 なんという驚くべき言葉であろうか。主イエスは、生まれつき目が見えないと いう理不尽な障害の原因を、この人の罪とか、両親の犯した「罪の罰」という 因果応報の考えを完全に退けられる。そして、この人は苦しみを通して神のみ 業を見ることになる、と宣言された。

「神の御業」とは、神様がこの人に御自身の救いを現わされる働きである。 神様が働くその時、この人は霊の眼が開かれて、今まで知らなかった「神様が 生きて働く世界」を見るようになるのである。愛と慈しみに満ちた神様にお会 いするのである。その時、この人は自分の不運を嘆く人生ではなく、神の御計 画の中で、神様に用いられて生きる人生を歩むようになる。「苦難は、目に見 える世界を打ち破る神のメガホンである」(C.S. ルイス)。

 

911日 説 教―               牧師 山中 臨在

「人生は歌いながら」  詩編119:4956

 

人はどんな時に歌うのでしょうか。楽しい時はもちろんですが、不安や恐れ の中で自分を落ち着かせるための歌もあるでしょう。詩編の中には、絶望の淵 に落とされた人の叫びとか呪いの詩まであります。今日の詩編はまさに、苦しみの中にいる詩人の叫びにも似た詩なのです。詩人は、この世の権力者をふり かざして高ぶっている者からあざけりと迫害を受け苦しめられています。

そんな不条理とも言える苦しみの中で詩人がそれでも歌っているのは、希望 があるからです。49 節は「私に希望を与えてくださったあなたの御言葉を思い起こしてください」という意味です。50 節は、原語を直訳すると「あなた の御言葉は苦しみの中の慰めとなって私を生かしてくれる」という意味になり ます。詩人は苦しみの中にいて苦しみそのものではなく、苦しみの先に主が約束されている希望に目を向けていて、それによって自分は生かされていること を歌っているのです。

そして希望とは、御言葉です。今日の箇所に出てくる、「あなたの仰せ」(50)、 「あなたの律法」(515355)、「あなたの裁き」(52)、「あなたの掟」(54)、 「あなたの命令」(56)は皆、主の御言葉のことです。御言葉はあなたに絶えず注がれ、慰めと力と希望を与えていると聖書は語るのです。 以前の教会のシニア聖歌隊創立メンバーのお一人 Y さんは、聖歌隊結成直 前に脳梗塞で倒れました。大企業の重役としてバリバリ働いていた彼はショッ クを受け、このまま一生体が動かなくなるのではないか、と不安になりました。 一命はとりとめたものの、Y さんにはきついリハビリが待っていました。想像 以上に苦しい闘病生活の中で、しかし彼は希望を与えられます。正確に言うと 希望に気づきました。それは病室で奥様と「歌いつつ歩まん」という賛美歌を 歌った時でした。「主にすがる我に 悩みはなし 恐れは変わりて祈りとなり 嘆きは変わりて歌となりぬ」という歌詞を聞きながら、もう何十年も歌ってき たこの歌詞が真実だなあ、と 80 歳にして初めて実感したそうです。「自分は 今まで、自分の業績や誇りなどやがて朽ちていくものばかり見ていて、永遠に 変わらない真理である御言葉に目を注いでいなかった。でも体の自由が利かなくなった今、試練を通して、御言葉がいつも与えられていることに気づかされ、 朽ちる自分の栄光よりも確かな主の希望があるという確信に導かれたのは神 様の恵みだ」と力強く証しされました。

人は誰でも歳をとります。歳を取るにつれてできないことが増えて不安になります。不安を見ているから余計に不安になります。「不安を見ないで神を見 なさい、御言葉にフォーカスしなさい。そうすれば、希望が与えられるのだ、 だって、御言葉こそが希望なのだから」。聖書はそう語っているのではないで しょうか。歳を重ねて初めてわかる喜びと希望がある! そう思ったらワクワクして歌いたくなります。御言葉にすがって主の希望にワクワクしながら歌って過ごす人生は何と素敵なことでしょう。

 

 94日 説 教―           牧師 山中 臨在

「リフォーム」ローマの信徒への手紙1212

私たちの信仰は神様によってリフォームしていただくことが必要です。「心 を新たにして自分を変えていただきなさい」と聖書は語るように、自分の努力 で心を新たにし自分を変えることはできないのです。私たちの造り主が変えて 下さらなければ自分で新しくなることはできません。「キリストと結ばれる人 はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリント 5:17)と受身形に なっていることを忘れてはならないのです。

ところで「新しい」と語られている言葉ですが、原語のギリシャ語には、新 しいを表す言葉が 2 つあり、一つは「ネオス」もう一つは「カイノス」という そうです。ネオスは英語で言うならば new で、「古い物が捨てられて新品に 取り替えられる」というイメージですが、カイノスは、英語では fresh で、「古い状態から新しい状態へ変化させられる」というイメージです。聖書がここで 語る「新しい」とは「カイノス」のことです。これが、神様が私たちに施して 下さるリフォームであり、神様がくださる大きな恵みです。私たちは自分勝手 で罪にまみれた存在です。神様は創造主でありすべてを支配される方ですから、 そんな罪深い私たちを気に入らなければ、捨ててしまってもっとできの良い新 品と取り替えればいい筈です。しかし神様は「そんなあなたが私には必要。そんなあなたはダメ人間ではない。私の目には高価で尊い(イザヤ書 43:4)。そんなあなたを生かして新しくするよ」とおっしゃるのです。こんな私たちを捨てないで用いて下さる、そのために主は大きな十字架の犠牲を払い、自ら痛み を負いながら、それでも私たちを見捨てないのです。こんな恵みが他にあるで しょうか?

一方、自分が変えられることに対する恐れもあるかもしれません。自分が自 分でなくなると思うと抵抗したくなる気持ちもわかります。しかし神様のリフ ォームは、自分であることが失われることではありません。神様に与えられた 命はそのままに、今まで経験したこともない神様の恵みの数々を知るチャンス を与えていただくことです。「変わっていいのだよ」と神様が招いてくださる のです。だから私たちは神様のリフォームのプランに応答していくことが大切 なのではないでしょうか。そうすることによってのみ「何が神の御心であるか、 何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが できるのです。

そして神様のリフォームプランに応答することが礼拝です。「自分の体を神 に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの なすべき礼拝です」とみことばは語ります。神様が最善を用いて私たちをリフォームしてくださるように、私たちもまた最善を神様に献げることを主は望んでおられます。

「罪に汚れたこの身をも洗い清めて新しくしてくださる主に、何もできない この身にもあふれる知恵と力を与えて新しくしてくださる主に」(新生讃美歌 654「すべてを神に」)心からの礼拝をささげましょう。