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説教記録10月

1029日 説 教―           福永 保昭 先生

恐れを締め出す愛

ヨハネによる福音()41621

先週22日は、山中臨在牧師を恵泉教会に送っていただき心から感謝します。たくさんの恵みをいただきました。そして、今日はまたこのように皆さんにお会いできる恵みを心から感謝します。

私たちは生きていると恐れを体験することが多いのではないでしょうか。病気の宣告を受けたとか、家族の課題が押し寄せたり、これから先どうしたらよいのかと不安になり恐れに支配されることがあります。私も同じです。しかし、そのたびに聖書は「恐れるな」と語りかけているのです。聖書には365回「恐れるな」という言葉があると言われます。毎日、イエス様がわたしの所に来て、「恐れるな、私だ」と伴ってくださるのです。

「神は愛です。」これを「ABである」という説明の言葉だと考えると、いろいろ考え始めわけがわからなくなるでしょう。この言葉は、神はあなたを愛しているという神の宣言の言葉です。恐れの中にもこの言葉を信じて、神様と共に歩んでいく道が与えられていきます。

この手紙の最初でヨハネは、命の言葉、それは、私たちが見たもの、聞いたもの、手で触れたものだと言っています。命の言葉―イエス・キリストは確かにこの世に現れ、私たちと共に歩まれました。全ての苦労をなめ、十字架にかかり、死を体験し、何処までも私たちと共に生きてくださったのです。この神の子イエス・キリストが今日も確かに共におられ、「恐れるな、私だ」と声をかけ続けてくださいます。

恵泉教会には、附属めぐみ幼稚園があります。この幼稚園を通して、教会に出会った人々がおられます。あるご夫妻のお子さんは、重い障害を持っていました。この障害とどのように歩むか若い夫婦は本当に恐れの中にありました。でも「神は愛です」という言葉を聴きました。そして、教師達も子どもたちをかけがえのない命としてまるごと受け止めている姿を見て、愛されていることを知り、勇気が与えられたのです。暗い家庭に、スマイルが生まれました。

もう一人のお父さんは、幼稚園の説明会で「神は愛です」という言葉を聴いて涙が止まらなくなりました。それで礼拝に来られるようになり、バプテスマを受けられました。ところが、病気になってしまい闘病が続きました。普通なら恨み言の一つも言いたくなる時ですが、神様が共におられる、祈られている、そのことが彼をいつも励まし続けました。3年の闘病の後、2年生になったお子さんを残し、この8月天に召されました。最後のメールには、苦しい様子を伝えながらも「でも、心は決まっています」と書いてありました。神の愛の中で、生も死もその手にあることを信じて生き抜かれたのです。「神は愛です」この言葉は、今日も私たちを恐れから救い、生きる勇気を与えてくれる神の言葉です。平和を実現する者になりなさい、とイエス様は言われます。平和について知るだけでなく、平和を作りなさいと言うのです。イエス様のご命令に従うのが私たちの使命です。教会の使命の一つが、平和を実現することにあるのです。

「まっくろなお弁当」という実話に基づいた絵本があります。1945 8 6 日、広島に住む13 歳のしげる君は、原爆が落とされた時に、お母さんが作ってくれたお弁当を抱えたまま亡くなりました。弁当箱共々にしげる君の体も真っ黒になりました。お母さんが小さな畑で育てた野菜が入った色とりどりの弁当も、13 歳のしげる君の前にあった輝く未来も、一瞬にして真っ黒になり

ました。しげる君のお弁当が真っ黒になった同じ瞬間、「これで平和が実現される」と喜んだ人たちがいたことを、神様はどのように見ておられたのでしょうか。戦争はそれぞれが、自分の正義と自分の考える平和の実現のために、という名目で他者の命を傷つける恐ろしい行為です。

自分の安全安心を確保するために他者の命を傷つけることを平和と呼ぶ私たちの罪は、はかりしれません。「そんな罪人のお前たちに平和を作り出すことなど所詮無理だろう」と私たちをあきらめさせるためにイエス様は今日の御言葉をくださっているのではありません。その私たちの罪を自身が担うから、あなたたちは神の子となって、神に倣う者として平和を作り出しなさい、と言

うのです。聖書は「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉に置いて敵意という隔ての壁を取り壊す」(エフェソ214)と言います。聖書が語る平和は、単に戦争がないということでも戦争から逃げてくるということだけでもありません。むしろ戦争のある所に行って、そこに平和を作り出すことです。そんなことは私たちにできそうにありま

せん。でも、「人にはできないが神にはできる(マタイ1926)、だから神に信頼し神に委ねてひたすらに御言葉に聞きなさい、御言葉を生きて平和を実現する者になりなさい」と励ましてくださっているのだと私は思います。

お弁当の役割は、体の栄養を取ること、また、お弁当を作ってくださった人と食べる人との間の愛情を味わって喜びを得られるということ、更に、他者と分かち合うことができることにあると思います。花見とか運動会でみんなで一緒に食べて、その恵みを分かち合います。またお弁当を持っていない人がいたら「これどうぞ」とみんなで分け合うことができるものです。平和を作り出すために必要な栄養は、御言葉です。この御言葉をお弁当にして周りの人と分かち合いたいと思います。お弁当の具材は色とりどりです。でも他の人のお弁当を見ると、自分のとはまた違った具材がいっぱいで、それもまた互いに分かち合うならば、自分とは異なるお弁当の良さを体験し、喜びが広がります。他者との違いを喜び尊重しながら、キリストの平和が、争いの絶えない世界のすみずみに、そして争いの絶えない私たちの心のすみずみに、ゆきわたるように、心から祈ります。

 

 

1022日 説 教 ―     説教 内藤 淳一郎先生

私は復活であり、命である」 

ヨハネによる福音書11:2526

「わたしを信じなさい」と言われる「イエス」は、どういう方でしょうか。イエスはユダヤの社会の底辺にいる「罪人」と呼ばれた人たちと進んで交わりました。そして、イエスは人々に、神を「天の父」と呼び、その愛の中に身を置いて生きる「神の国」を宣べ伝えました。イエスはユダヤ人の指導者に憎まれ、捕えられて、十字架に架けられて殺されました。弟子たちは、主が十字架で無力な惨めな姿で死んだのを見て、イエスを見捨て逃亡しました。ところが、死んで墓に葬られたイエスが死から復活して、弟子たちにご自身を現わされたのです。弟子たちはイエスに呼び集められるようにして、エルサレムに戻って来ました。

弟子たちは、イエスが神によって死からよみがえらされたと信じました。そして、地上のイエスの歩みを振り返った時、生前には分からなかったけれども、イエスの出来事は預言者たちが予言していた神のご計画のもとで起きたことであると知りました。イエスは死から復活し、見えない世界に移られ、今や、ガリラヤの地を超え、時代を超えて、苦悩に打ちひしがれている人々を招いてくださる永遠の救い主となられたのです。

少数の弟子たちの群れが、厳格に安息日の礼拝を守るユダヤ人社会の中で、安息日の律法を破って、主が復活された週の初めの日曜日に礼拝を守るようになりました。このことはイエスの復活の証しではないでしょうか。また、弟子たちは人々に大胆にイエスの復活を語りました。主が十字架に架けられた時には、権力を恐れ、散り散りに逃げた臆病者の弟子たちが、権力を恐れず、死を恐れない信仰の人に変わったのです。このことも弟子たちが復活のイエスにお会いした真の証しではないでしょうか。キリスト教会は、主イエスの復活によって、この歴史の中で存在を始めることになったのです。

主イエスは、ご自分を信じる者に「永遠の命」を約束されます。「永遠の命」は復活の主イエスが一緒に生きてくださる命です。私たちが生きている時も、そして死ぬ時も、復活の活ける主イエスが共にいて、私たちを導いてくださいます。イエスと共に生きる命は、地上の死で終わらない永遠の命です。地上の死は、私の魂の消滅を意味しません。私たちは、何もない虚無の世界に落ち込んでしまうのではなく、私たちの生と死は、神の御手の中でひと続きなのです。

 

私たちキリスト者の幸せは、人生を振り返って、神が私たちに恵み深い方であることを知るので、死ぬ時も、恵み深い神にすべてを委ねることができることです。この神への信頼こそ、私たちが「神の御国」への望みをもって死に臨むことができるのです。

 

 

1015日 説 教-        牧師 山中 臨在

  「人気」ヨハネによる福音6:6069

イエス様が彗星のごとく人々の前に現れた時、爆発的な人気を得ました。イエス様が当時貧しかった人々の病気をいやしたり、食べ物を与えたり、権力者を論破した時にその人気は絶頂となりました。しかしその人気にかげりが見え始めたのは、イエス様が「私は天から降って来た」と発言した時です(ヨハネ6:38)。更に、「自分は天から降って来た命のパンで、このパンを食べる者は永遠に生きる」と言ったことが人気を下降させます。そして、「命を与えるのは霊であって、肉は何の役にも立たない」(63)「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65)と言って、神と自分を同格化して、あたかもあなたがたは何の役にも立たない、と言わんばかりの物言いに、多くの信徒たちも「これはひどい言葉だ」と言ってイエス様のもとを離れたのでした。

群集は条件付きでイエス様に従いました。自分の欲求や必要を満たしてくれるならば満足し、イエス様を慕いました。しかしイエス様に従い献身することを求められたら、しり込みをし、イエス様から離れていきました。イエス様は人気を維持したければ、もっと人々に都合の良いことばかりを言うべきでした。でもイエス様はそれをしませんでした。人々にとって耳の痛いこともたくさん言いました。しかしそれはイエス様が人を愛しているがゆえのことであったわけですが、多くの人にはそれがわかりませんでした。

私たちは主の前にどのように生きているのでしょう。ふとタレントのマネージャーのことを考えました。マネージャーは自分が担当するタレントをいかに売り込むか、そのことに必死になっています。そしてそのタレントに人気が出たら、タレント本人が優れているかのように報じられ、マネージャーにスポットライトがあたることはありません。割に合わない職業だと思われるかもしれませんが、私は今、神様からイエス・キリストのマネージャーになるように言われているのではないかと感じています。イエス様が多くの人にあがめられ受け入れられるように必死に祈り、イエス様に人気が出ても私の人気は全く出ません。でも不思議なことに、イエス様のマネージャーである喜びがあります。かつて人気が出ることを求めていた自分が、もう人気という実体の見えないものに一喜一憂する緊張から解放され、そして「永遠の命の言葉を持っておられる」主の真理の中に生かされているからだと思います(68)。

主に従う人生は、人や世間からの人気を得る人生、人気を気にして落ち着かない人生とは比べ物にならないほど恵みに満ちています。主はあなたにも、イエス・キリストのマネージャーになってほしいと願っておられるのではないでしょうか。

 

108日説 教          牧師 山中 臨在

エンジョイ

エフェソの信徒への手紙12:12

今年の夏の高校野球で優勝した慶應義塾高校は、「エンジョイベースボール」というスローガンを掲げていました。「高校野球はこうあるべき」という従来の考えから解放されて、野球を楽しむことを目指した彼らは、上手になって野球を楽しむにはどうしたらよいか自分で考え、練習方法や作戦を監督と自由に話し合いました。その結果監督との絆や信頼関係は深まり、慶應高校野球部は野球をエンジョイするチームとなりました。自分が三振に倒れた時に、素晴らしい球を投げた相手のピッチャーをたたえ、自分の打ったヒット性の球を相手に取られた時には、相手のファインプレイに拍手を送りました。気がつくと、他のチームメートも皆相手に拍手を送っています。自分が野球を楽しんでいただけでなく、自分が楽しんでいることを他の皆も楽しんでいて、喜びの輪が広がっていたのです。

これは聖書が礼拝について教えていることと重なります。エンジョイとは元来「喜びを作る」という意味だそうです。神様の「喜びを作る」礼拝は、エンジョイするものなのです。神様の喜びが私たちの喜びとなり、その喜びの輪が広がっていきます。「この世に倣ってはなりません。心を新たにして自分を変えていただきなさい」(2)と聖書が語るように、「礼拝とはこうあるべきだ」というこの世(人間)の思いから解き放たれて、主によって自分を変えていただくことが礼拝者に必要なことです。それによって主が喜ばれ、主の喜びを私たちがエンジョイすることができます。

「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2)という言葉は、私たちが礼拝を楽しむためには何をすればよいのかを、神様と対話する中で考えていきなさい、と教えます。その対話の中で神様との親密さが増していきます。

「エンジョイベースボールというのは、嫌なことを避けて楽しいことだけをする、ということではありません」と慶應野球部の監督は言います。上達しようと思えば、当然苦しい練習をしなければなりません。でも苦しいから嫌だ、やめておこう、というのではなく、苦しい練習をどうやったら楽しめるか、乗り越えられるか考え、それに向き合うことがエンジョイの大切な要素なのだそうです。同じように、自分に語られる御言葉の内、自分が嫌なものは避けて、自分にとって楽そうなことだけ聞く、ということが礼拝をエンジョイすることではありません。「自分を聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1)と聖書は言います。それは楽なことではなく、いけにえですから、痛みも苦しみも伴うでしょう。けれどその先に本当の喜びが与えられる、それが私たちのなすべき礼拝だ(1)と聖書は語っているのです。

慶應高校野球部は、ピンチの場面でも笑顔が絶えませんでした。それは、監督とのたゆまぬ会話の中から本当に野球をエンジョイできていた結果なのでしょう。私たちも、心騒ぎ悩み苦しむことも少なくないと思います。しかし神様と絶えず会話し交わり、神様はなぜこの御言葉を今自分に与えているのかに思いを巡らす中に、希望が与えられ、喜びが与えられるのです。共に礼拝をエンジョイしましょう。

 

 

101日 説 教―  牧師 山中 臨在

すべての人と」テモテへの手紙()2:17

10月の月間聖句「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」は、「すべての人がお互いを覚えて祈り合う教会になりたい」という願いをこめて選ばれました。私たちは、品川教会に連なるすべての人のために祈っているでしょうか。教会は祈りの中で生まれました。信徒が一つ所に集まって共に祈っている中で聖霊が降り、教会となったのです。教会はこうして、互いを覚えて祈り牧会する中でキリストの体となっていきます。

エフェソの教会を牧会していたテモテが、どうも牧会に疲れ果てているようです。間違った教えを説く人や信仰を捨ててしまった人などがたくさん現れて、教会を混乱させていたのです。牧会と伝道の意欲を失いつつあるテモテに、パウロは「すべての人のために祈りなさい」と言って励ましています。すべての人のために祈るということは、教会で問題を起こして秩序を乱し自分を苦しめている人のために祈るということです。また「王たちやすべての高官のために祈れ」と言われますが、これは当時のローマ帝国で地位と権力をふりかざし、キリスト者を迫害していた人たちです。彼らの迫害のせいで、どれほど教会が苦しめられたことでしょう。そんな人たちのために祈るなどできそうにありませんが、しかしそれは「神の御前に喜ばれること」だと聖書は言うのです。

現在も戦争を引き起こす独裁者や汚職にまみれた政治家や凶悪犯罪者がたくさんいます。教会の中にも気の合わない人がいるかもしれません。しかし聖書は「そのような人のために祈りなさい」と言います。どんな人も皆、主に愛されています。その人たちが皆救われるように祈ることは、私たちの使命なのです。

すべての人のために祈るもう一つの理由があります。そうする私たちが「平穏で落ち着いた生活を送るため」(2)です。執り成しの祈りとは、「他者のために」祈ることですが、実はそれは、自分自身が平安になるためでもある、と聖書は言うのです。私自身多くの不安の中にいることを思いますが、私の不安の元となっているすべての人や事柄を覚えて祈っているのかと主から問われる時、いかに自分が祈ることの足らない者であったかを思い知らされます。逆に言えば、自分の不安の原因を作る人がいたなら、その人のために祈る中で、主の平安が与えられるという励ましのメッセージが与えられているのです。

すべての人が救われるために、伝道しなさい、と聖書は言っていません。まず祈りなさい、と言うのです。もちろん伝道は必要で大切なことです。でも祈りがなければ伝道はできないのです。今月末の特別礼拝も、11月のバザーも、12月のクリスマス礼拝も伝道のチャンスです。チラシを配って、人を教会にお誘いしようと心からそう思います。でもその根底に、主に向かって祈ることがなければ、それらはただのイベントとなってしまいます。ぜひ今こそ心を合わせて祈りましょう。祈祷会で共に祈りましょう。プレヤーウオークで近隣を歩きながら近隣にいるすべての人を覚えて祈りましょう。そして一人の時、すべての人のために祈りましょう。