説教要旨

説教記録4月

428日 説 教―           末盛 桜子 牧師

エルサレムを離れずに   使徒言行録  1:35

復活された主は天に昇られる前、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒1:4,5)」と、命じられました。また、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1:8)」と、言われました。

教会が霊的に生き返り、主の御心が何かを知り、その御心を成し遂げるためには聖霊の火が必要です。私たちの信仰生活が自分の喜びのためではなく、私のためにご自分の命をさえ惜しまずに捧げられた主イエス・キリストの喜びを私の喜びとし、私たちが主の御心を一番にし、主に従って行くためには聖霊の火が必要です。

イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたこの素晴らしい救い、福音に生きる喜びがいつも私たちの内に燃え、この福音を全世界に宣べ伝え、主を愛し、主の教会を愛し、牧師を愛し、牧師のために祈り、共に集められた兄弟姉妹を愛し、互いに励まし合い、仕え合って行くためには聖霊の火が必要です。そして、この聖霊の火を受けるため、イエス様は大事な条件をお語りになりました。それは「エルサレムを離れずに」です。私たちが聖霊の火を受ける場所、私たちが聖霊の力に満たされる場所、私たちがあらゆる肉の業から解放されて、主の証し人となり、霊の人に変えられる場所、それがエルサレムだとイエス様は言われました。

この「エルサレムを離れずに」とは、一つ目、教会から離れないことです。教会の命から離れず、霊的にウロウロせず、自分の教会の礼拝にあずかり、教会で語られる御言葉に従順に生活をすること。聖霊はエルサレムなる教会に降ります。心を一つに集まって主を礼拝しているところ、心を一つに集まって祈っているところに聖霊は降ります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。~ (詩編133:1)」二つ目、十字架から離れないということです。エルサレムは、イエス様が十字架にかけられ死んだ場所です。弟子たちにとっては、最愛の師であるイエス様を捨てた場所です。躓いた場所です。仲間の一人が自害した場所です。彼らにとってエルサレムは決して気持ちの良い場所ではありません。それどころか、自分たちの罪、愚かさ、情けなさを嫌と言うほど知った場所でありました。信仰の戦いの場所でありました。しかし、イエス様は十字架の立っているところ、そこであなたがたは聖霊を受けると言われたのです。なぜなら、そこでこそ弟子たちは御言葉にのみ固着し、心を注ぎ出して共に祈ることができるからです。最後の三つ目は、御言葉と祈りから離れないということです。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒1:14)」自分自身に失望した現実のその直中で、主の語られた約束の御言葉を握って、主の名によって心を一つにして熱心に祈るところに聖霊が降ります。この時、弟子たちにとって目に見えるリーダーが不在となり、どれほど心細かったことでしょうか。

今、品川教会は正に目に見える霊的指導者である主任牧師が不在となり、あの時の弟子たちのように不安や恐れ、大きなビジョンを掲げつつ、どのようにそれを実行して行くことができるのか、心細さを覚えていることと思います。しかし、今まで誰が上に立つとか、誰が一番偉いとか、自分中心でなかなか心を合わせることのできなかった弟子たちが、弱くさせられて初めて御言葉によって心を一つにし、共に祈り立ち上がりました。その時、聖霊の力が天より注がれました。どうか、品川教会の皆様お一人おひとりがこの時、エルサレムから離れずに約束の聖霊を受ける時となりますように、品川教会に聖霊が降り、子どもから大人まで集まっている皆さんが聖霊に満たされて、世にあって生き生きと喜びに溢れてキリストの証し人として歩んで行かれますように、心から品川教会のリバイバルを求め、祝福をお祈りしています!

 

421日 説 教 ―            村中 範光 先生

イエス様は私のお友達

 ルカによる福音書19:110

今日は品川の皆様に最後にお話いただく機会が与えられ心から感謝いたします。本来は礼拝堂で皆さんの顔を見ながらお話をしたかったのですが、状況が許しませんでした。Zoomを通しての説教となったのは返す返すも残念です。

品川から転籍するとは夢にも思っていませんでした。ずっと品川の一員として過ごすつもりでした。しかし、昨年大きな人生の転機を迎え、やむを得ず一番近くのバプテスト教会への転会を決心しました。教会は違っても同じ南地区のバプテスト教会同士ですし、住まいも近くなので確実にまたお会いできると信じています。

さて今日はイエス様による救いについてザアカイの物語を通して皆様と救いの尊さについてわかちあいたいと思います。イエス様はこの世に救い主としてお生まれになり、様々な形の救いを御示しになりました。多くは救いが顕著な病気からの癒しという形で伝えられています。ルカ福音書のみ伝えられていて有名なザアカイの話は多くの救いの話とは違う点があります。まず多くの救いの話において救われる人は殆ど無名です。「汚れた霊に取りつかれた男(ルカ4章)」「百人隊長のしもべ(ルカ7章)」等々。ヤイロの娘と名前が伝えられている話は例外なのです。2つ目は救われるものとイエス様のかかわりです。癒しにおける救いの物語では、救われる人は救いをもとめて本人か周りの人に伴われて強い救いへの期待をもってイエス様のところに来ます。ザアカイはただイエス様を「どんな人か見ようとした(3節)」だけです。好奇心はありましたが救いへの強い関心、願望はありませんでした。でも心の中ではイエス様なら自分を重荷から解放してくださると思っていたでしょう。3つ目はザアカイの癒しは病からの癒しではなく、心ひそかにもっていた寂しさ、孤独からの解放という点です。彼はユダヤ人でありしかも裕福であり、地位もありました。彼の担っていた重荷は「友達がいない」ことだったのではないでしょうか。裕福でしたので客間のある立派な家に住んでいたでしょう。でもそこに泊まりに来てくれる人はいなかったのではないでしょうか。周りの人からは「罪深い男(7節)」とみなされていたのですから、信頼し、心を許せる友人はいなかったのでしょう。木の上からイエス様を見ているザアカイを見てイエス様は彼の抱える重荷をみてとり「今日はぜひあなたの家に泊まりたい(5節)」と伝えます。「泊まりたい」と訳されている部分は、多くの英文聖書は原典どおり「泊まらなければならない」と訳しています。泊まるという具体的行動が「救いがこの家を訪れた(9節)」前提だったのです。イエス様による救いによって救われた人に変化が起きます。ザアカイの変化は8節のことばにみてとれます。

私たちはイエス様による救いを人々に伝える使命があります。現代社会において一人寂しい思いをしている人はたくさんいます。私たちはその人たちにイエス様がいつもそばにいてくれる友達であることを伝え続けていきたいと思います。

 

 

414日 説 教 ―     片桐 健司さん

あなたの苦しみは私の苦しみ」 

コリント信徒への手紙()12:1226

みなさんはどんなときに苦しみを感じますか? おなかがすいたとき、病気のとき、お金がないとき、友だちにいやなことを言われたとき、仕事がうまくいかないとき、いろいろなときに苦しみを感じますね。

雪が降った後の足跡を見てみましょう。いろいろな足跡があります。靴を履いた人、下駄の人、スキーをしている人、なんだかよくわからない点々のついた足跡、これは目の見えない人、白杖を使って歩いています。片足の足跡と点二つ、これは松葉杖をついている人、2本の線と足跡、これは車イスの人が誰かに押してもらって歩いています。このように私たちの周りにはいろいろな人がいますね。

私の知っている人で車いすの子がいました。その子は自分の足のことでお母さんに言いました。「お母さん、どうしてぼくはこんな足なの?こんな足あったってしょうがないよ」。母親はどう答えてよいか困ってしまいました。もう1人、私の知っている車いすの人がいました。その人も車イスで生活していて困ったことがたくさんありました。そのことを話していたとき、1人の子どもが言いました。「そんな足ならとっちゃえばいいのに」。その人は「でもね、何の役にもたたない足だけど、この足が好きなんです。僕には大切な足なんです。」と言いました。

神様は、人の体のどの部分も、大事な部分として作られました。だから、どの体の部分だってお前はいらないとは言えないのです。何の役に立ちそうもなくても、大切な体なんです。

教会というのは、ひとつの体です。私たち一人ひとりは、教会の手や足です。目だったり、口だったり、します。皆さんは、自分はどの部分だと思いますか。「すみません。私は病気であまり役に立ちません。だから教会の体の一部にはなれません」という人がいたらどうします?君なんかいらないって言いますか?今日読んだ聖書にあるように、神様は体のひとつひとつを大事な部分として作られたのです。何も役に立たない部分はどこにもないのです。自分は役に立たないと苦しんでいる人がいるかもしれません。でも聖書は、「違うよ、あなたこそ大事な部分なんだよと」言っているのです。

苦しみのない人はいません。そういう私たちの苦しみ以上に苦しみを知っている人がいます。イエス様です。イエス様は、そういう私たちの苦しみを背負って十字架にかかってくださったのです。

苦しみの多い人ほどやさしくなれるといいます。自分は何もできないと苦しんでいる人にイエス様は話しかけます。「私のもとにいらっしゃい。あなたの苦しみを取り除いてあげよう。」ひとつの部分が苦しめばすべての部分が苦しむ、それが教会です。あなたの苦しみは私の苦しみ。私たちは、一つの体になって歩むことができたらと思います。

 

47日 説 教―         松村 誠一 先生

福音書は終わりが無い

ヨハネによる福音書  21:114

紀元一世紀頃、信仰の群れ、ヨハネ教団と言われていますが、その教団は非常に困難な状況にありました。ユダヤ教からの迫害を受けており、ユダヤ人キリスト者は、教団から離れていっておりました。そこで、このヨハネ教団の指導者は、「本書の目的」が記され、福音書を書き終わったその後再度、復活の出来事を記しています。その箇所が今日の聖書箇所です。

イエスはティベリアス湖畔で、弟子たちにご自身を現わされます。その時のことが記されていますが、その出来事は、ルカによる福音書5章に記されている「漁師を弟子にする」箇所と非常によく似ております。シモン・ペトロが「私は漁に行く」と言い、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言って漁に行くのでありますが、その夜は何も取れなかったと記されています。この漁に行く、ということが、非常に象徴的ですね。結論から申し上げますと、すでに弟子たちは、人間を獲る漁師、即ち、福音を宣教する者へと導かれているのですから、そのことを確認するための記述であると理解していいでしょう。

ヨハネは更に記します。何も取れなかつた弟子たちに、復活されたイエスは、再度漁をするように命じ、それに従った弟子たちは153匹の魚が獲れたのです。弟子たちはこの出来事を目の当たりにした時、網を打ちなさいと命じられた方が、イエスだと分かったと記されています。それから復活されたイエスは「パンをとって弟子に与え、魚も同じように与えております。場面は朝ですが、ここで指し示しているのは、最後の晩餐です。今日、主の晩餐式に与りますが、その時に読む聖書箇所は第一コリント11章ですが、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」と。岩波約聖書(青野太潮先生の訳)は記念としての箇所を「私を思い起こすために」と訳されています。主の晩餐式はイエスの十字架のご生涯、そして十字架の死、復活の出来事を思い起こすために行う礼典です。

このヨハネの著者も、ヨハネ教団の信仰者に、イエスが復活され、漁師たちを福音宣教に遣わすために招かれたこと、そしてそのことをいつも思い起こさせるために、「イエス、七人の弟子に現れる」を記しているのです。この復活の出来事は聖書に「三度目である」、と記されていますが、3度とは何度もという意味があります。復活されたイエスと弟子たちの出会いの場面を聖書を通して読む私たちは、その場面を思い起こします。その思い起こす私たちに聖霊が働いて、その思い起こしが現在化するのです。そして今の私の出来事となり、主の十字架と復活の出来事は、我がためなり、との信仰へと導かれていくのです。この出来事を福音書に続く出来事として一人一人心の中で書き続け、日々を過ごす者でありたいと思います。